2013年2月25日月曜日

確率について




 「復興」政策による被曝被害の隠蔽は、数字を使った詐術によって進められる。
最近、福島県で問題になっているのは、地域に設置されたモニタリングポストの数値が汚染の実態を反映していないことだ。ある市民団体がモニタリングポストの地点で空間線量を計測したところ、表示されている数値のほぼ2倍になったのだという。一箇所だけではない。どれもこれも5割引になってしまっているのだ。詳しくはいま店頭にある『FRIDAY』誌に掲載されているので参照してほしい。

 一年前に出した『3・12の思想』でも書いたが、汚染状況を厳密に見るには、シーベルトではダメなのである。シーベルト換算する過程で、数値を恣意的に操作することが可能だからだ。評価の単位をCPM(カウント・パー・ミニット)かCPS(カウント・パー・セコンド、=ベクレル)に統一しなければ、こういうごまかしが横行してしまう。もし私が土地や建物を取引するというときに、相手の業者がシーベルトで評価を出してきたら、問答無用で突き返すだろう。そんないい加減な数字で買い物ができるかというレベルだ。まあ汚染された土地なんか買わないし、そもそもそんな金もないのだが。
 今回の市民調査で使用されたのは、モニタリングポストと同じシンチレーションサーベイメータ(ガンマ線のみの計測器)だが、これをベータ線もあわせてカウントするガイガーカウンターで計測したら、2倍では済まないもっと大きな乖離があらわれただろう。

で、ここまでは前置きとして、本題にはいる。
確率である。
近刊『被曝社会年報』に出した論文で、被曝線量とがん死者の影響に関する「学説」、閾値(しきいち)仮説について、批判した。閾値を主張するなんてデタラメだという話なのだが、そこで盛り込めなかった重要な論点があるので、補足したい。
問題は、被曝による健康影響に関して、統計や確率の議論を自明視しすぎていないかということだ。あるいは、確率を極端に拡大解釈していないか。この件を確率で論じることが、数学的に見て妥当性があるのかということだ。
私は高校の数学で落第した「文系の人間」なのでズバリと言えなくて悲しいのだが、本当はもっと優秀な数学者に言って欲しいところなのだが、私が言いたいのは、「確率ってなんにでも適用していいもんじゃないよね」ってことだ。確率で処理すべきものと、確率で処理してはいけないものがあるという、常識的な議論をしたい。

例えば、論理的なパズルというのがある。クロスワードパズルでもいいし「数独」でもいいのだが、そういうパズルを解く作業は確率とは無縁だ。数独(ナンバープレイス)という魔法陣のようなパズルを解くときに、あるマスにどんな数字が入るのか、候補となる数字を絞っていく。ここには「1」か「3」か「8」が入る、それ以外は入らない、というふうに、可能性を整理していく。そこで「1が入る可能性」というのは、確率ではあらわさない。そんなことをしても意味がないから。もしここで「1である確率が高い」みたいな判断をしていたら、いつまでたっても問題は解けない。というかパズルが成立しない。ここでは「1以外の数字が入ることはありえない」ということが言えるまで、判断を保留にしなければならないのである。

もっとありふれた例をあげると、自動車の運転がある。統計や確率を言う人はよく自動車事故を引き合いに出したがるが、現実の運転者は確率に身を任せているわけではない。むしろその逆に、物事を確率で考えないように努めている。教習所で口を酸っぱくして教えられるのは、「だろう」で運転してはいけない、ということだ。ここは歩行者がいないだろうとか、対向車はこないだろうとか、そういう判断はダメですよ、と。
愛知県に引っ越してから車の運転をする機会が多いのだが、例えば、愛知県の深夜の国道に歩行者や自転車はほぼいない。確率であらわせば、限りなくゼロに近い。走っているのは自動車のみだ。しかしだからといって歩行者や自転車を想定しなくても良いということにはならない。右折や左折をするときは必ず歩道を目視して、人がいないことを確認しなければならない。確率で言えばゼロなんだけどね。ここで、確率的にみて歩行者はいないのだから安全確認なんかしないでバンバン行っちゃえというのは、ダメな運転である。普通に怒られる。

例え話がまわりくどいが、ようするに、確率の数字を並べることがもっぱら「科学的」であるとする態度は、それ自体に重大な錯誤があるということだ。
この錯誤がもし自覚されていれば、ごまかしである。
空間線量のシーベルト換算がごまかしを生むのは、そこに「検出効率」という係数がかけられているからである。数値の割引の秘密は、確率の誤った適用と操作にある。
本当は、確率で言うべき場面と、確率じゃないよという場面と、きちんと腑分けしなければならないはずだ。なんでもかんでも確率で判断してはいけないのである。放射線防護の予防原則が、しばしば「過剰な対応」として、つまり確率論の延長にあるかのように誤解され非難されてしまうのは、そもそも確率という概念が充分に対象化されていないからである。確率が絶対で万能だと信じる確率信者が多すぎるのだ。
このことを数学の言葉でズバリと言えないのが悲しい。今後の宿題だ。