昨年は『3・12の思想』(以文社)と『放射能を食えというならそんな社会はいらない、ゼロベクレル派宣言』(新評論)と、2冊の単行本を出した。また、雑誌『現代思想7月号』(青土社)でも放射線防護活動について書いた。
今年は、『被曝社会年報』というアンソロジーを出版する。被曝社会のもとで何を論じるべきか、ということで、30代の書き手を中心に呼びかけて寄稿してもらった。もう印刷しているはずなので、月末には書店に並ぶ予定。
新しい本を買ってもらうために、少し明るい話を書く。
『被曝社会』というタイトルを見て憂鬱な気分になる読者は少なくないだろう。それはそうだ。一国の人口の3分の1を呑み込んだ被曝社会とは、これはもう考えるだけでも大変なことだ。もう絶望的な言葉しか思い浮かばない。お先真っ暗だ。
そこで私たちが慎重に吟味しなくてはならないのは、私たちを包み込んでいるこの重苦しい気分というものが、正味のところどうなのかである。その気分のうちのどれだけが本当で、どれだけが嘘なのかだ。
客観的にみて危惧すべき状況はある。広域の放射能汚染であり、被曝である。しかしいま多くの人が打ちのめされているのは、放射性物質による汚染でも被曝でもなく、汚染に伴ってあらわれた社会的抑圧ではないのか。実は自分には関係のない国民感情や国民的道徳心の蔓延に、震え上がっているのではないか。そうであるならば、私たちは被曝環境から物理的に遠ざかることと同時に、被曝のイデオロギーから距離をとることが必要ではないか。被曝受忍のイデオロギーを測定し、分析し、除染できるものは除染する、除染できないものは棄てるという作業だ。
ではいったい誰が、この国民道徳を対象化し排除することができるのか。その主体はすでに放射線防護活動のなかにある。私たちが自信を持つべき成果は、この二年間に日本各地に現れた放射線防護活動だ。
もうひとつ理解されていないようなのであえて書くが、放射線防護活動は、この日本社会が生み出した素晴らしい成果である。この活動は誰でも当たり前にできることに見えて、実はそうではない。きわめて特異な現象である。みんなもっと驚くべきだ。防護活動は特異的で、大衆的で、前衛的だ。いま放射線防護派の人々が共有している科学主義、人権意識、階級意識は、まるで日本人にみえないほど洗練されていて、これはヨーロッパ啓蒙主義の時代と比べても良いくらいである。日本ではながく排斥されマイナーな位置におかれていた知性が、噴出してきているのである。
いま我々がうんざりしているあの「復興」キャンペーンというのは、その影であり、反動に過ぎない。3・12後に登場した新たな啓蒙主義に対するリアクションだ。小出裕章らがやっていた道徳的身振り(食べて応援)もそうだ。そういうリアクションにすぎない弱々しいものにかかずらわっていてはいけない。新しい力があらわれたのだから、その大きなうねりについていけばよい。
訂正
小出裕章らがやっていたのは、「食べて応援」じゃなくて、「食べて血債主義」でしたね。こういう中途半端な道徳心を持ち出して、初動の対応を混乱させた罪は重い。こいつらの戯言のためにどれだけ二次拡散が進んだか、いつか総括したい。いまはやらない。