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2020年8月6日木曜日

8月8日の名古屋都市研はスカイプで中継します

 8月8日15時から、名古屋駅西サンサロ・サロンで名古屋都市研究会を行います。ゲストは、酒井隆史さんです。
 今回は、会場が密になってしまうことが予想されるため、Skypeでの視聴を準備しています。
 Skypeで ”名古屋都市研究会” を検索して接続してください。質問・意見などは、Skypeのメッセージからできるように準備しています。
 
 新型コロナウイルスの感染爆発が始まり、気が落ち着かない状況です。地球規模の危機と、”危機管理”政策の破綻のなかで、何を考えるのか。
 いまレジュメを書いています。何から手を付けていいかわからないぐらい頭が混乱していますが、当日の対話が楽しみです。

2020年7月23日木曜日

若いアナキスト



 東京の若いアナキストが私に会いたいというのだがどうかという連絡があって、名古屋市内で待ち合わせて話をした。会ってみれば、自分の子とほとんど変わらない年代の若者だ。

彼はいま東京を出て、広島や京都や名古屋を旅しながら、新しい住処を探しているという。前回のブログ記事で東京からの退避を呼びかけた直後に、まったく同じことを考えている人間が現れたので、少し驚いた。天気の良い日だったので、金山駅前の風通しの良いカフェテラスで呑んだ。

 若いけれども聡明で、よく勉強している。腹に一物を抱えながら一人旅をして、初対面の相手にも臆さない度胸がある。なにより良いと思ったのは、道徳心がないことだ。彼は道徳よりも優先すべきものがあることを理解している。思わず笑みがこぼれるほど不道徳だ。数年後には頭角をあらわすだろう。

 東京を出るなら名古屋に来なよ、と喉元まで出かかったが、言わなかった。そういう誘い方はアナキストらしくない。彼ぐらいの豪胆さがあれば、どこへ行っても生きていける。彼は私の世代には想像できないようなやり方で生きて、きっと強い左翼になる。

2020年7月13日月曜日

今後の予定

 8月8日、酒井隆史さんと私で、トークイベントをやります。
 このかんまったく話していないことを、じっくり話したいと思います。
 場所は名古屋の駅西サンサロ・サロンです。

 ところで、東京はもう本当にダメですね。国も都も感染対策を放棄してしまった。コロナウイルスの第二派がきたら、都市機能は麻痺してしまう。文化活動も学術研究も停滞します。東京は人間を強くする都市ではなく、もっぱら人間を消耗させる都市へと変わる。
この停滞は五年ほど続くでしょうから、若い人は早々に見切りをつけて、東京を脱出したほうがいい。京都でも名古屋でも、感染を抑制できている中規模の都市への移住をすすめます。
 

2020年4月2日木曜日

マスクづくり


 いま、マスクづくりを手伝っている。
放射能市民測定所で知り合ったAさんは、縫製職人で、普段は衣服のリサイズやフィッティングといった仕事を一人ほそぼそとやっている。だが今次の感染問題に際して、急遽、マスクの生産を始めた。
 彼女がつくるのは、香港の化学博士が設計・公開した「HKマスク」。二枚の布の間にキッチンペーパーを挿入し、医療現場で使用される「N95マスク」に近い性能をもつ。公開されている型紙を使って試作品を作ったところ、注文が殺到。私も作業を手伝うことになった。
 といっても、私は縫製作業をやるのは初めてのド素人である。鉄や木は扱ったことがあるが、繊維のような柔らかいものは、まったく勝手がわからない。これから見習い修行だ。今日は、さらしのアイロンがけを教えてもらった。

 新型コロナウイルスの市中感染が始まったことで、行政機関と医療機関は徐々に機能不全に陥っていくだろう。
 放射線防護の仲間たちにとっては、二度目の闘いである。
みな、比較的落ち着いている。というのも、新型ウイルスは放射性物質に比べてはるかに対処しやすい相手だからだ。
 放射性物質はどうやっても無毒化できないが、今次の新型ウイルスは石鹸や塩素やアルコールで破壊することができる。洗えばなくなるのだからラクなものだ。放射性物質は政府が存在を否定するが、新型ウイルスは誰もが存在を認めている。不毛な論争やはぐらかしにあうこともない。放射能汚染は少なくとも300年は対処しなければならない課題だが、ウイルス感染は遅くとも3年後には終息する。
 放射能汚染の脅威に比べれば、新型ウイルスは対処しやすい脅威である。粛々と感染予防に取り組めばよい。

 Aさんがつくる「HKマスク」は、店頭に並べて販売するものではない。個人的なつながりで注文を受け、配布していく。これは資本主義の商品経済とは違った、もう一つの経済活動だ。「地下経済」、「贈与経済」、あるいはマルクス主義フェミニズムが言う「サブシステンス生産」に属するものである。
 いま店頭では、使い捨てマスクが売り切れてしまい、入手できなくなっている。政府は全世帯にマスクを配給すると言っているが、そのマスクは性能が不安視されるものだ。商品経済のマスクがなくなり、政府配給のマスクが性能不足であったとき、最後に頼りになるのは、自家製の「サブシステンス生産」のマスクだ。
 AさんのつくるHKマスクは、これまで放射能汚染問題に取り組み「放射脳」と蔑まれた人々によって、頒布されていく。放射能安全論者の手には渡さない。放射能安全論者には、この機会に少しおとなしくなってもらったほうがよい。




2020年2月27日木曜日

娘は京都へ


 娘が大学進学を希望したので、この一年間、受験生の親というものをやっていた。
 私は大学受験をしたことがないので、受験のアドバイスのようなことはできないし、興味もない。ただ、受験勉強とはどういうものなのか、普通の勉強とどう違うのかを聴くだけだった。

 娘が要約するところによれば、受験勉強とは、学問にたいする不誠実な態度をベースとしている、ということらしい。
 どういうことか。
まず基本的なルール。試験というものは、答えられる問いにだけ答えればよい。答えられない問いはスキップしてもよい。そして試験時間が終了したら終わり。そういうルールでおこなわれている。
どんな試験問題も、時間内に全問解答することはできない。そうできないようにつくられている。なぜなら試験問題は、受験者に順位をつけるためにつくられているからだ。
そうなると受験者は、難問に時間を費やすことを避けて、解答できる問題だけに注力することになる。試験にのぞむ際に心がけなければならないのは、じっくりと時間をかけて考えることではなく、考える時間をできるだけ少なくすることである、と。

 なるほど。それはものを考える態度として、たしかに不誠実だといえる。不愉快なことも多々あっただろう。

 だがそんな不愉快な作業ももうおわりだ。
来年からは大学生。
受験から解放されて、じっくりと時間をかけて考えることができる。
京都市の学生街で、さまざまな難問に取り組んでほしい。


2018年10月1日月曜日

渚さんが亡くなった



 歌手の渚ようこさんが亡くなった。
 衝撃で声が出ない。


 私が渚さんを知ったのは、音楽ではなく、お店の関係だった。彼女は新宿のゴールデン街で「汀」という店をやっていた。私がゴールデン街に店を出したのがたしか2003年頃だったが、そのころ彼女はすでに「汀」を繁盛させていた。私にとって渚さんは、同じ街で店をもつ同業者であり、先輩だった。
 自分の店を閉めたあとに、たまに「汀」に行った。行った、というよりも、連れていかれた。映画評論家の松田政男氏が、渚さんにゾッコンで、飲みにつきあっていると必ず「汀」に連れていかれるのだ。松田氏は当時すでに70才になろうというおじいさんだったが、女性に対しては現役だった。「汀」でしこたま飲んで、酔っぱらったあげく、「もうだめ、帰れない、ようこちゃんの家に行く」とねだるのだ。これが完全な冗談ではなく、いくらか本気がまざっているから始末に負えない。そんなときは渚さんと私とで朝まで介抱するというのがお決まりだった。この酔っぱらった老人を優しく介抱することもあったし、朝もやのけぶる花園神社に置き去りにして帰ったこともある。これだけごねる体力があるんだから、置いていっても死なないだろう、と。(実際、死ななかった。)

 そういうわけで私は、歌手としての渚ようこを、ほとんど知らない。一度だけリサイタルに行ったがそれっきりで、彼女の歌声をほとんど聴いていない。ただ、歌手と映画評論家と反戦活動家が、音楽の話も映画の話も社会運動の話もしないで朝までだらだらカウンターに座っているという関係が、心地よかった。そういう時間のすごしかたが、かっこいいと思えたのだ。

 渚さんと私との関係はこういうものだったので、歌手としての渚ようこや、彼女の歌について、何か評論めいたことを言おうとは思わない。
ただ私に言えるのは、彼女は厳格な美意識をもって、それを生涯貫徹させた人だったということだ。
 彼女は「昭和」の歌謡曲やファッションを転用し、一種のキャンプ・アートを構築したわけだが、それがコミカルな外見を見せながらコミカルなだけに終わらなかったのは、彼女が本気だったからである。冗談やおふざけでは、ああいうことはできない。彼女は本気だった。1960~70年代の風俗から自由主義やロマン主義のエッセンスを抽出し、再構成し、そこで示された価値を、彼女は確信をもって譲らなかった。
 彼女は「かっこいいブーガルー」でこう歌っている。

  かっこいい世界は
  探せばきっとある
  もしもそれが全滅したら
  いっそ昭和にワープだ

 こうした歌詞が完全に冗談であるなら、この歌は成立しない。この歌のかなりの部分が本気だから、こわいのだ。
すべてが冗談のように見えながら、すべて本気なのである。
 彼女が多くの人に慕われ、同時に畏怖されもしたのは、彼女の美意識が本気の姿勢で貫かれていたからである。松田氏が惚れこみ、私もまた彼女を畏れつつ慕ったのは、こういうところだったのだろう。
渚さんといるときに、多くを話す必要はなかった。
黙って座っているだけで、力を感じ、心が落ち着く。そんな人だった。
冥福を祈りたい。


かっこいいブーガルー 



2018年4月15日日曜日

お詫びと注意喚起


 本日、友人になりすましたSNSのメッセージに素直にひっかかってしまい、私のLINEアカウントが勝手に作成されてしまいました。

 私の写真と名前を使って、お金をせびる寸借詐欺アカウントが存在します。

 LINEを通じて私名義のメッセージが来たときは、相手にせずブロックしてください。

 ご迷惑をおかけします。

2018年3月7日水曜日

「公的なもの」の罠について



さて、何から始めよう。
まず導入は、昔話から。

 今から10年前、いや、もう少し前だったかもしれない。
私は年の近いある活動家と議論をしていた。仮にAとしよう。Aは知恵も度胸もあるアナキストで、酒好きで、集団を統率する力のある活動家だった。
 Aと議論をしたのは、運動体の基軸を何におくかである。私が主張したのは、運動集団というものはどうあがいても私党であるということ、そして、我々は私党でよいのだということだった。それは経験的な事実から、そうだった。人間が運動集団を形成するとき、それは何か公的なお題目にぼんやりと結集するのではなくて、個別具体的な人間が個別具体的な人間についていくのである。そういう集団は、どこをどう転んでも私党である。
 それに対してAは、運動体が私党であるという事実を認めつつ、私党ではないものにむかって、公的な形式を備えるべきである、と主張した。私党というのは集団の起源としてはあるとしても、それは過渡的な段階とみなすべきであろうということだ。我々の集団のもつ私党的性格は、徐々に払拭されていくべきである、と。ある意味、常識的な主張だ。
 私はAにむかって「公的な形式だなんて、そんなゴマカシはできないよ」と言ったが、一方で迷いもあった。私は、私党を私党としてやりきることに絶対的な自信をもっているわけではなかった。公的な形式を備えた団体というものに、半信半疑ながら少しだけ魅かれ、期待しているところもあったのだ。Aの考える組織論は、もしかしたらうまくいくのかもしれない、と。
また、集団に公的な形式を与えることは、実践的な要請としてもあった。集団が労働組合としての交渉権を確立するには、規約を作り、代表を選出し、監査役をおかなければならない。そういう公的な形式を便宜的にでも整えておかなければ、合法的な「労働組合」にはならない。もしもそうした形式を整えなかったら、我々の争議行為はすぐに刑事事件にされてしまう。
 この私党をめぐる議論は、議論というほどの時間もとらず、それっきりになった。双方とも結論に強い確信を持っているわけではなかったからだ。この問題について結論が出ないまま、Aはある労働組合の中核メンバーを担い、私は「海賊研究会」を主宰して私党の構成原理を考えるようになった。
 あの議論から10年たって、結論が出たわけではないけれども、学ぶべき経験はいくらか積んだと思う。もういちど、集団の基軸とするべきものについて、「私的なもの」と「公的なもの」について述べたいと思う。

* * *

 私は今も「公的なもの」に疑いをもっている。疑いというよりももっと強い、あれは、罠だな。「公的なもの」の罠。パラドックスと言ってもいい。

 まず、「公的なもの」のなかでももっとも大きく、もっとも「公的」だと信じられている組織から考えてみよう。警察について。
 W・ベンヤミンが『暴力批判論』のなかで指摘したのは次の事実である。
 警察官は法を遵守し、たんに法を運用しているだけだと考えられているが、実際にはそうではない。警察官はどういう場面でどういう法を適用するべきかを決定している。現場にいる末端の警察官が、法を解釈し、運用を決定している。遵守されるべき法は、日々、現場の警察官によって解釈替えされ、作り変えられているのである、と。
同じことをG・ドゥルーズも言っている。「重要なのは法ではなく、判例である」と。
 このことは、実際に警察と対峙したことのある人なら経験的に知っていることだ。法は、場面によって運用されなかったり、反対に拡大解釈をして運用されたりする。
「公的なもの」の頂点にある法は、警察やなんらかの政治勢力によって私物化されうるものである。そして、そうした警察力の私的な運用が可能になっているのは、法が「公的なもの」と信じられ、警察・検察が「公的なもの」を遵守していると信じられているからである。多くの人は信じている。法治国家において警察がそうそう間違えるはずがない、と。そうかもしれない。ところで、その根拠は? 法の運用の妥当性を担保するものは? 裁判所? 制度としてはそのとおり。しかし実態としては、裁判所の判事が検事に従属する場面がたびたびあるのである。そんなことはあってはならないことだ。制度としても道理としても、判事が警察・検察の顔色をうかがうなんてことは、あってはならないことだ。そしてそのように信じられていることによって、警察の横暴は見逃され、正当化されるのである。われわれは「公的なもの」をかたく信じることによって、権力の私物化=私物化された暴力を直視することができなくなってしまうのである。
 問題は「官僚制」なのか? そうかもしれない。しかし私はもう一歩踏み込んで、私たち自身が信じている「公的なもの」という想念について、俎上にあげるべきだと思うのだ。

* * *

 「公的なもの」の罠について、こんどはもっとも小さな場面を考えてみよう。
 ドメスティック・バイオレンス(親密な暴力)について。
 ドメスティック・バイオレンスは、一時的で偶発的な暴力のことではない。それは持続的な構造に支えられた暴力である。ドメスティック・バイオレンスを支える構造とは何か。そのカギを握っているのは、加害者でも被害者でもなく、第三者である。この暴力を持続させる構造は、当事者ではない第三者が、ある暴力を容認するか容認しないかにかかっている。
 夫婦または恋人というのは、たいてい共通の友人がある。あなたがその友人だったとしよう。ある日、女性から暴力の被害にあっているという相談を受けたとしよう。あなたはおそらく、女性と男性の双方から事情を聞こうとするだろう。あるいは、双方をよく知る人物をとおして、二人の間に何があったかを知ろうとするだろう。つまり二人の仲裁者として、問題の解決策を探ることになる。
 ここで仲裁者が直面するのは、双方の供述が示すハレーションである。加害者と被害者の供述は、はっきりとした対照を示すことになる。
 加害者の供述は、理路整然としている。話に整合性があって、一貫性がある。
それに対して被害者の供述は、混乱している。話に一貫性がなく、つじつまのあわないことばかりを言う。彼女は、自分がどうしていきたいのか、まったく明確でないのだ。
 あなたは仲裁者として、どちらの話を信じるだろうか。理路整然とした加害者の話か、混乱した被害者の話か。
このことを言い換えれば、加害者の供述とは、「公的」に通用するだけの充分な整合性を備えた供述である。第三者がそれを聞いて、さらに別の第三者に話すときに、苦も無く伝えられる形式を備えている。
それにたいして被害者の供述は、一貫性がなく矛盾を含んでいて、第三者が別の第三者に伝達することが難しいものである。
 ここであなたが理路整然とした話を信じるなら、それは、ドメスティック・バイオレンスを持続させる構造を維持・強化してしまうことになる。ここであなたが信じるべきは、「混乱した女」の話である。
 なぜか。なぜならドメスティック・バイオレンスとは、そもそも分裂し矛盾した出来事だからである。お互いに愛しあい慈しみあうべき夫婦または恋人の間で、暴力が生まれているのである。ドメスティック・バイオレンスとはそうした「矛盾した」現実なのである。だから、被害者の供述が分裂し二転三転するのは当然のことだ。被害者が別れたいと言い、別れたくないと言い、自分がどうしたいのかがまったく定まらない、このことは、ドメスティック・バイオレンスという出来事の全体を彼女がもれなく認識しているからである。他方で、加害者の供述が、分裂も矛盾もなく整合的であるのは、彼が生起している現実の全体を認識していないからである。加害者は、現実のある重要な要素を認識しないことによって、矛盾のない整合的なストーリーを形成することができるのである。
 繰り返しになるが、ドメスティック・バイオレンスとは構造化された暴力であって、この構造のカギを握っているのは、当事者ではない第三者たちである。当事者双方から事情を聴いた第三者たちが、何を信じるかが、問題の核心である。ドメスティック・バイオレンスに直面した第三者が本当に問題を解決させようとするならば、混乱し分裂した供述者にこそ耳を傾けなければならない。
 ここにあるパラドックスとは、「私的な暴力」が、「公的なもの」を信じようとする人々によって、維持・強化されてしまうというパラドックスである。第三者の誰もが問題解決を望んでいる。しかし、第三者が「私的な暴力」を解消させようとするときに、彼らの「公的なもの」をめぐる信念は役に立たないし、かえって暴力を保存することに役立ってしまうのである。
 ドメスティック・バイオレンスという概念から引き出すべき論点は、ここである。これはジェンダーの問題であるという以上に、暴力をめぐる問題である。ある暴力が、どのように第三者に容認され、維持・強化されるかという、構造の問題だ。私がここで注意を喚起したいのは、「私的な」暴力と、「公的なもの」をめぐる信念とが、意外にも密接であるということだ。
 ドメスティック・バイオレンスの加害者は、とたんに饒舌になる。まるで弁護士になったかのように、理路整然と経緯の説明をはじめる。彼が、他の事柄でたんに釈明を求められているというだけなら、ここまで饒舌になることはない。仕事が遅いとか、酒を飲み過ぎだとか、肥満をどうにかしろとかいうことで責められているのなら、彼は饒舌ではなくむしろ寡黙になっていくだろう。彼が理路整然と、ときには「公正さ」を示しながら、冷静に話すことができるのは、これが暴力をめぐる問題だからである。
 だがこれは、「公的なもの」という想念の起源を考えれば、あたりまえのことである。そもそも私的である権力の支配が、自らを正当化するためにまとった衣が、「公的なもの」という想念なのだから。それははじめから、人々が暴力を容認したり見なかったふりをしたりするための機制を備えているのである。
 今から10年ほど前、私がAと短い議論をしたときに、「公的な形式なんて、そんなゴマカシはできねえよ」と言ったのは、おそらく、この、暴力と「公的なもの」の秘密を、ぼんやりと感じとっていたからだろう。私は、私党の暴力よりも、公的な形式を備えた組織の方を、怖れたのだ。

* * *

 さて。
 ここからは、私党の話をしよう。
 海賊について。
 私たちが海賊というとき、それは古代や中世の海賊ではなくて、主に近代の海賊である。ディズニー映画などの題材にもなっている“カリブの海賊”である。
一般的に、カリブ海賊について社会史研究者が注目するのは、そこにあらわれた階級的性格である。カリブ海賊史とは、簡単に言えば、外洋を舞台にした階級闘争史である。そしてここに加えて私が見ようとしたのは、近代的な啓蒙主義思想をベースにした私党のありかたである。私党はどのようにあるべきかというモデルを、カリブ海賊に求めたわけだ。
 法治主義ではない環境において、私党集団はある種の水平主義を実現する。それは暴力の均衡によってである。
 海賊船の船長はおそろしく横暴で、暴虐さ残忍さにおいて抜きんでていなくてはならない。その暴力によって船員を統率しているのである。ちょっと機嫌が悪いというだけの理由で、水夫を殴ったり蹴り飛ばしたりする。そういうことが自然にできなくては、海賊船の船長はつとまらない。しかし、殴り過ぎてはいけない。あまりしつこく殴っていると、恨みを買い、復讐されてしまうからである。海賊船の水夫たちは、船長に負けないぐらいの無法者であるから、あまり横暴がすぎると寝首をかかれることになる。この暴力の均衡が、海賊集団の秩序である。
 船長の暴力は、無法で理不尽なものだが、それははっきりと船長の人格に帰すことのできる暴力である。ここでは、暴力と人格は一体であって、船長が自らの横暴について責任逃れの屁理屈を並べることはできないのである。
 海賊行為が成功して獲物を山分けする場合、船長は水夫よりも多くの報酬を受け取ることができる。しかし、それほど多くはない。史料によると、水夫の取り分が1として、船長の取り分は2~2.5である。現代的に言うと「労働分配率」という言い方になるが、カリブの海賊団の労働分配率は驚くほど高い。船長と水夫とでは取り分は違うが、その格差は意外に小さいのである。なぜなら、もしも船長が欲を出して多くを取り過ぎた場合、それは暗殺と船長交代劇につながってしまうからである。ここでも暴力の均衡が、海賊団の秩序を支えているのである。法治主義でない社会空間において、秩序の要となるのは、暴力の均衡である。
 こうした世界では、暴力はすべて私的なものであって、「公的なもの」という想念は存在しない。各人の行使する暴力は、正当なものも不当なものもあるが、それらはどれもはっきりと私人の人格に結び付けて認識されるのである。
 地中海海賊からカリブ海賊にかけて、近代の黎明期にあった海賊団は、暴力が充満する空間のなかで、ある種の水平的秩序を生み出していく。アメリカの歴史家ピーター・ランボーン・ウィルソンによれば、この近代海賊団の秩序のなかから、民主政の思想の原基形態が生まれる。民主政は、共和政という思想とは異なる起源をもっていて、別の系譜にある思想である。現代では民主政と共和政は混合しているが、本来この二つはまったく違うものだ。それは現代の我々の態度にも表れていて、たとえば、「公共」や「公正」という概念を疑わしいものと感じる感性のなかに、民主主義思想の伝統が反映しているのである。



* * *


 「公的なもの」という想念について、そして、「公的」なものに抗う私党の思想について、述べてきた。
 ここからが本題だ。

 ある団体で、「組織の私物化」が問題になる。ひとりの中心的な人物が、自分の裁量で「組織を私物化した」というのだ。
 私に言わせれば、私物化もなにも、組織とはほんらい私党だ。
組織がまとう公的な体裁は、あくまで便宜的なものであって、そんな便宜的な形式が遵守されようがされまいが、本質的な問題ではない。「組織の私物化」などという問題設定は、そもそも間違っているし、アプローチの仕方としてぬるいのである。そんな立て方では、問題の本質に迫ることはできない。

 問題は、人格なのである。
暴力、あるいは支配とは、個別具体性をもった人間が個別具体性をもった人間に行使するものだ。その人格の審級において問い、闘わなければ、問題の核心に迫ることはできない。
 相手は「組織の私物化」を遂行できるような人間である。知恵も度胸もあるのだ。もしも「公的なもの」の平面で争うのなら、彼は誰よりも整合的で矛盾なく一貫性のある理屈を述べたてるだろう。そんなやり方で、勝てるだろうか? もしも勝てたとして、そんな勝ちに意義はあるのか? 「公的なもの」の平面で争うなんてことは、まったくバカバカしい。そういう闘い方は、追及する側にとっても、追及される側にとっても、よろしくない。生産的でない。争うべきは、個別具体的な人間の、人格である。

 なに? 人格攻撃はよくない? 誰からそんなことを教わったのだ。アナキストの教科書にそんなことは書いていない。人格攻撃おおいにけっこう。ただし陰口ではなく、正面から、公然と、人格をかけて闘うべきだ。

おれはおめえがきにくわねえ、まずはそれだけを言えばよい。

そうして公然と、正面から、人格をかけて闘うのなら、その先には、嘘のない本当の関係がつくられるだろう。





2018年2月22日木曜日

第一回交流会の記録

2月17日、大須作文教室の第一回交流会は、15名ほどの参加で終了しました。

当日の記録は、文字におこさないで映像だけにします。
ごらんください。

https://oosusakubun.blogspot.jp/

2017年12月22日金曜日

山の手緑は漫画も描けるんです

山の手緑がひさびさに絵を描いています。
私の記憶では8年ぶりです。

いまから8年前、ネットラジオ『Voice Of Antifa』のステッカーでは、構成も描線も炸裂していましたが、今回は常識の範囲内です。
画伯も丸くなりました。


大須作文教室公式ブログ
『作文教室での学び方』

2017年11月10日金曜日

書くためのデザイン


 名古屋市の大須という街で作文教室を開くために、準備をしている。
 年内の開校をめざして、いまは教室の内装をつくっている。
“矢部史郎+山の手緑”で文章を書くときは、山の手緑が監修し私が書いているのだが、デザインの作業では役割が交替する。私が監修し、山の手緑が具体的な製作をしている。



 書くための空間デザインは、私の経験に基づいて、床や巾木からつくりなおしている。契約した部屋は一般的なオフィス用で、作文のためにつくられた空間ではないからだ。そもそも作文のためにつくられたアトリエというものは、日本にはほとんど存在しない。大学にもない。現在の大学の教室設計は、残念ながらアトリエとは正反対のものだ。あんな留置場のような配色をした抑圧的な空間では、学生たちが苦労するのも無理もない。

 私が取り組まなければならないのは、人がどんな環境で考え文章を書くのかということを、具体的に示していくことだ。
 まずは教室の立地に、大須という街を選んだ。私が実際に散歩をして、ここならいけると思ったからだ。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。

 教室の床は、もともと敷かれていたネズミ色のカーペットをすべて剥がした。かわりに、ブラウン・ベージュ・モスグリーンの三色でタイル模様にした。
 机は、一人に一台ダイニングテーブルを用意した。天板は1m×1.5mなので、充分な広さだと思う。テーブルの高さは65cmにするか70cmにするか迷ったが、足を組んでもぶつからないように70cmにした。机と椅子は、アール・デコから派生した50年代アメリカの様式。これだけだとあっさりしすぎているので、ハンガースタンドやパーテーションなどの調度品を使って、アール・デコに寄せる。目指すのは、コーヒーを飲みながらぼんやりとすごすことのできる空間だ。
 作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。ここで絶対に避けなければならないのは、自己嫌悪や無力感に支配されて、書くことを放棄してしまうことだ。自己嫌悪の感情に負けないために、自己愛を供給しなくてはならない。“書いている時間”だけでなく“書けないでいる時間”も含めて、“私は大切な時間を過ごしている”と感じられるようにしなくてはならない。そうした自己愛を備給するための空間、椅子、あるいは、コーヒーやタバコといった嗜好品が必要になってくる。
 
 書くための空間デザインは、いわゆる「デザイナー」にはできない作業である。「デザイナー」は、デザイン作業やデザインの歴史は知っていても、書くということがどういうことかを知っているわけではないからだ。
 いや、この際ついでに言うことにするが、一般的に言って、「デザイナー」の無知というのは甚だしいものがある。怒りをおぼえることもしばしばである。
 「デザイナー」の無知の代表的な例としては、「子供用学習机」のデザインがある。ひどいものである。硬い椅子、狭い天板、視界をさえぎる配置、まるで拷問器具のようなデザインだ。デザイナーが児童教育に無知であるために、子供たちは「子供用学習机」に向かうたびにストレスを感じ続けるのである。あんな机で勉強をしろというのは、客観的に見て無理な要求である。結局、子供たちは「子供用学習机」を嫌って、キッチンのダイニングテーブルで宿題をやることになる。そうなると「子供用学習机」とはなんなのか。子供にも学習にも寄与しない、机ですらない、たんなる粗大ゴミである。
「デザイナー」たちの教育にたいする無知・無関心は、児童教育だけでなく大学教育にまで及んでいる。大学の空間デザインは、これまたひどいものだ。再開発されるたびにひどくなる。大学で過ごす人々が何をするために集まっているのか、彼らがどんな時間を過ごし、彼らからどんな力を引き出さなければならないのか、そのことに少しでも想像力を働かせれば、あんなひどいデザインにはならないはずだ。2000年代以降、大学や大学生は、“素敵なもの”ではなく“ダサいもの”になってしまった。その大きな要因には、大学建築の失敗がある。


 まあそれはさておき。
 いま私たちが設計している作文アトリエは、もちろん研究生のためにつくられるものだが、私自身のためでもある。私が何かを書くときに、もっと快適に書きたいと思うからだ。書くために深夜のデニーズに通うのも悪くはないが、どうせ教室をつくるのなら、私にとっても快適に過ごせるような空間にしたい。
 


2017年10月11日水曜日

近況報告


 いま、名古屋で新しい試みを準備しています。
 バーではありません。むかし新宿でバーを経営したことは楽しかったし、いまでは良い思い出です。しかし私も初老を過ぎて、体を切る手術もして、いまの体力で酒場をまわしていくのは難しいかなと感じています。
 これから私がやろうとしているのは、作文教室です。
名古屋市の大須に教室をかまえる準備をしています。児童向けの教室ではなく、18才以上を対象にした作文教室です。かっこよく言えば、後進の育成にあたるということです。


 なぜ作文という方法をとるのか。理由は二つあります。

 第一に、情報化社会の発達によって、人々が作文をする機会が広く生まれていて、多くの人が作文力を必要としているということがあります。

 私が文章を書き始めたのは90年代の初め、当時は自主製作のミニコミ、現代風に言えばジンが、流行した時期です。自主製作で雑誌を発行することが、おもしろくて、かっこよかった時代です。そんな小さな雑誌の余白を埋めるために、コラムを書いたり書評を書いたりすることから、私の物書き人生は始まりました。90年代のなかばから、徐々にインターネットが普及していきます。誰でも自分のホームページを作成して、広く公開することができるようになりました。2000年代の反戦運動では、このインターネットによる情報告知が威力を発揮しました。その後、メールマガジンが登場し、はてなブログ、ユーチューブ、ミクシィ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、インターネットを基盤にした情報発信が拡大していきます。むかしむかし、ミニコミやFAX通信を利用していた時代からみれば、現代ははるかに作文環境が整っていると言えます。

 情報環境が発達するのと同時に、情報の陳腐化も進行していきます。インターネット通信が普及したことで、誰もが情報を発信することができるようになりました。情報を発信すること自体は、いまでは珍しい話ではないのです。次に問題になってくるのは、無数にある情報の海の中で、自分がどのように差別化・卓越化していくのか、どうやって情報の陳腐化を回避するのか、ということです。このことに、みなさん懸命です。ツイッターをのぞいてみれば、強い煽情的な言葉で議論をしたり、あるいは、挑発的なイタズラ写真を撮ってみたり、危険な場所で“映える写真”を撮影したり、いろいろと工夫しています。急速に発達した情報技術にたいして、いまはまだ内容が追い付いていないのです。
 この四半世紀で人間の習慣は急速に変化していて、それぞれが新しい習慣に対応するために、手探りで方法を模索している状態です。ここで芽生え生長している“一般知性”は、それを支えるための高度な言語能力を要求します。言語能力とは、言い換えれば、概念を概念化する能力、言葉を使って考える能力です。
 こうした私の主張は、一見すると逆説におもわれるかもしれません。現在インターネットの表面で踊っているのは、オーディオ/ビジュアル技術の活用であって、言葉ではないからです。ツイッターでは短い言葉が交わされていますが、インスタグラムでは短い言葉すら書かれず画像だけが交わされているのです。こうした傾向を見れば、インターネットは非言語的、または、脱言語的なコミュニケーションに向かうのだと、結論づけられるかもしれません。しかしそれは、現象の断片を過大に評価したものです。インターネットの歴史はいまだ浅く、われわれ利用者はいまも手探りで模索している最中ですから、その行く末を結論づけるのはまだ早いのです。
 たしかに現在の一部の利用者は、画像を偏愛する傾向があります。それは事実です。しかし、デジタル世代やその次の世代が、画像の交換だけで満足するとはとても思えません。そうした利用法は、ある日あるきっかけから、急速にダサいものになるでしょう。では、オーディオ/ビジュアル表現が陳腐化し、ダサいものになってしまったときに、なにが残るのか。私は作文だと思います。


 さて、作文を教える第二の理由。
 私はかれこれ20年エッセーを書いてきましたが、そろそろ引退に入る時期です。今年でもう46才、若い書き手に場所を譲る年齢です。だから、“矢部史郎+山の手緑”の作文技法を誰かに伝えておきたいと考えました。
 この方法は“秘伝”にしてきたわけではないけれども、誰にも教えてこなかった方法です。もちろん大学では教わらないし、たぶん誰も実践していない特殊な方法です。
私のような学歴のない人間、読書家でも努力家でもない人間が、なぜあれほど抽象度の高い議論とエッセーをものにすることができたのか。自分で考えても不思議なことです。この不思議な経験を、方法化できたらいいな、と。私が山の手緑と共にやってきたこれまでの作業を振り返って、整理して、書くために何が必要なのかを明らかにしていきたい。そう考えています。
 


2017年9月24日日曜日

二重権力戦略における民話と伝説



 名古屋共産研の『8・19集会報告集』が完成し、昨日発送しました。
ウニタ書店(名古屋)、カライモブックス(京都)、模索舎(東京)で販売しますので、よろしくお願いします。

 ところで、8・19集会に参加していただいた蔵田計成氏に電話をしたところ、ちょっと落ちこんでいるようだったので、彼の問いに対する応答として、ひとつ文章を書きます。
  


 まず、昨年来から話題になっている太田昌国氏の講演録『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』に関するコメントから始めます。

 私が広い意味での「新左翼」運動に関わりをもったのは、いまから30年前、80年代の末頃です。いまから振り返れば、80年代は市民運動がおおきく高揚した時期でした。
当時課題となっていたのは、中曽根政権による国鉄分割民営化問題、昭和天皇死去に伴う反天皇制運動、寄せ場・日雇い労働者の運動、在日韓国人の指紋押捺拒否闘争、沖縄では日の丸が焼き捨てられ、戦中の従軍慰安婦問題の告発もこの時期に準備されました。そして諸々の運動が勃興していく契機となったのは、86年のチェルノブイリ事件と反原発運動の爆発的拡大でした。チェルノブイリ事件後の反原発運動は、多くの女性たちを動かし、社会運動を活発化させました。彼女たちは議会政治においては、社会党を「土井社会党」へと生成変化させ、そのインパクトが90年代の議会政治再編の動因となりました。
 何を言いたいかというと、ひとくちに「新左翼」と言っても、蔵田氏と私とでは、参照する時期が違っているということです。蔵田氏が考えようとしているのは、50年代末から80年頃までの時期、朝鮮戦争~日米安保条約~ベトナム戦争の時期の新左翼です。私が見てきたのは、86年末から現在までの新左翼です。私が見てきた「新左翼」と、蔵田氏が考えようとしている「新左翼」は、まったく別物ではないけれども、かなり様相が違っているのです。
 そうなると、太田氏が語る『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』という問いも、受け止め方が違ってきます。私の年代の人間から見ると、彼の設問自体が、新左翼のある時期に限定した問いであるということになります。

 厳密さは脇において、私見として、おおざっぱな枠組みを言います。
 45年から50年代の左翼は、綱領的にも実体的にも、マルクス=レーニン主義の運動です。経済成長を果たしたのち、60年代からは、グラムシ主義、「構造改革派」が席巻していきます。これは新左翼も共産党も社会党左派も含めて、多くの左翼が、構造改革路線の二重権力戦略へと向かっていきます。大戦後のいわゆる「55年体制」は、共産党の武装解除、革命主義の凍結、「構造改革」諸派の形成をもたらしました。こうした転換のなかで、共産主義者同盟は革命主義を放棄しなかった。共産同は、武装解除ではなく、武装の強化へと向かっていきました。
 しかしここで逆説的なことは、共産同は、革命主義でありながら、結果として二重権力戦略の実現に寄与していくのです。主観的には革命主義であり、客観的には二重権力戦略の担い手であるという、このねじれが、共産同のおもしろさだと思います。いや、おもしろいことばかりではないけれども、あえて肯定的に言えば、このねじれた様態こそが共産同のおもしろさです。
 私がこういうことを言うのは、80年代以降の運動状況をみているからです。市民運動という運動スタイルが、たんに社民主義に従属するのではなく、また、穏健な構造改革派のたんなるフロント組織ではないものとして、存在した。なぜ日本の市民運動は、政治党派のたんなる道具ではないものとして、自律的な暴力性を帯びて存在することができたのか。その運動の文化はどのようにして生まれたのか。私の主要な関心はここです。
 だから、『なぜ新左翼は力を亡くしたのか』という設問にかえて、私が問いを組みなおすとすれば、こうです。
『なぜ新左翼はいまも生き残っているのか』
『新左翼のなにが人々を惹きつけてきたのか』

 
 さて、ここから本題です。
 共産主義者同盟は、綱領的にはマルクス=レーニン主義です。綱領だけをとりだして見れば、新左翼諸派のなかでもとくに古い、「古左翼」の部類です。
しかし日本の新左翼の歴史を考えるときに、共産同の存在を抜きには語れません。共産同は、綱領的には古典的なものをもちながら、実体としては新しいスタイルを構築しました。共産同は、頭の中身は革命主義で首から下はグラムシ主義者、あるいは、頭の中身はレーニン主義で首から下はブランキスト、という、新しい活動家のスタイルを生み出したのです。この実体としての新しさは、もっと評価されてよいのではないかと思います。
 私は理論活動を重視しますが、理論を絶対視することはしません。なぜなら人間は、自分が意図したものとは違うものを生み出してしまうことがあるからです。そして運動は、理論や綱領よりも文化に依存する部分が大きいと考えるからです。
対抗権力、対抗権威、権力と対決する陣形を構築するためには、理論的な作業が不可欠です。しかしたんに理論があるだけでは、人々を動かすことはできません。対抗権力の核となるのは、権力と対決する文化です。
 新左翼の活動家たちを見れば、このことは明白です。彼らの口にのぼるのは、たんに理論的な争点だけではありません。運動の歴史でもありません。活動家が語るのは、歴史に書かれないような断片的で小さな逸話です。固有の地名や固有の日付をもった逸話です。それは人によっては「砂川」であったり、「615日」であったり、また別の人は「佐世保」であったり、「108日」であったり、あるいは「三角公園」であったりする。そうした無数の民話、無数の伝説です。
対抗権力を下支えしているのは、人々が権力と対決するなかで生み出されてきた無数の民話・伝説です。権力と対決する文化を再生産するのは、闘いの民話・伝説です。そしてこの民話と伝説を保持し続けてきたことが、新左翼がいまも生き続けている理由であるとおもいます。議会政党は、この民話の再生産に失敗しました。議会外左翼(新左翼)だけが、闘いの伝説を語ることができて、権力と対決する文化を再生産できているのです。

 『国家に抗する社会』を著した人類学者ピエール・クラストルは、アメリカの未開民族の社会を研究するなかで、長老の役割を描写しています。要約すると、こうです。
 国家をもたない社会において、長老の役割は、伝説を語ることである。ところが若者たちは、長老の話に耳を傾けない。長老は、誰も聞いていないのに伝説を語り続ける。それが長老の任務だからである。
 権力を集中させない健全な社会において、語ることとは、こういうスタイルで行われるのです。長老の語りは、指令や指導として機能するものではありません。話を半分差し引いて、ああまたその話かと聞き流されるべきものです。そしてそうやって聞き流された民話と伝説が、若者たちの生きる指針となるのです。それは指令ではないことによって、人々を衝き動かします。それは戒律ではないことによって、人々に節度を求めるのです。


こういうわけなので、蔵田さん、あまり落ち込まないでください。

私たちのような新左翼の話に耳を傾ける人間なんてほとんど存在しませんが、それでも、私たちは状況に深く関与しているのです。私にはそういう確信があります。

2017年9月5日火曜日

朝鮮人虐殺事件の教訓


集会報告集の編集作業がひと段落したので、ちょっと書きます。



 1923年の関東大震災の直後、内務省の指令によって、関東に暮らす6000人の朝鮮人が虐殺されました。このときの「朝鮮人狩り」は、陸軍を中心に新聞社や民間人を動員した大規模なものになりました。被害は朝鮮人だけでなく、社会主義者や労働組合活動家、日本人の行商人も殺されました。内務省が主導したこの作戦は、大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転換点となり、その後の軍国主義体制を決定づけた、重大な国家犯罪です。

 この事件を振り返るとき、人は「デマに惑わされてはいけない」と言うのです。なにか教訓めいた言い方で、「デマに惑わされてはいけない」と。
 これは間違いです。こんな教訓めいた言葉を繰り返しても、それは歴史から学んだことにはならない。


 まず実践的な角度から考えてみましょう。
 政府(当時は内務省)がデマを流布させるとき、それは真実として流布させます。信頼できる機関による信頼できる情報として流布させるのです。その情報が嘘であったとわかるのは、ずっと後になってからのことです。人間狩りに加わった民間人は、デマに踊らされようとしたのではなく、真実に従おうとしたのです。したがって、「デマに惑わされてはいけない」という教訓はまったく意味がないし、かえってデマゴギーにたいする人々の耐性を弱めてしまうことになります。
 この事件から引き出すべき教訓は、「信頼できる機関の情報を鵜呑みにするな」です。デマゴギーは、「信頼できる機関の情報」として流布されるからです。情報が錯綜し、前後不覚になったとき、私たちは「信頼できる機関の情報」を信じてはいけないのです。
 「信頼できる機関」とは、1923年当時であれば内務省、現在では文部科学省です。文部科学省が、年間20ミリシーベルトの被曝線量であれば帰還できるだとか、1キロあたり100ベクレル未満の汚染なら食べても大丈夫だとか、真実らしいことを言い出したら、ぜったいに信じてはいけない。その情報が嘘であることがわかるのは、ずっと後になってからです。


 次に、この事件を振り返って、事後的にどう総括するかについて考えてみましょう。
 デマゴギーは、自然発生的なものではありません。震災は自然災害ですが、デマゴギーは自然発生ではありません。それは、ある機関が意図をもって組織的に取り組んだ計略なのです。だから、歴史を振り返る私たちは、「デマに惑わされてはいけない」というだけでは不充分です。災害の混乱に乗じてデマを流布させた機関と、それを可能にした政体に言及するべきです。陸軍が途方もない権力を掌握していったという意味で、朝鮮人虐殺事件は、226事件以上に重大な事件です。朝鮮人虐殺事件は、陸軍が犯した国家犯罪として書き残さなければならないのです。

 問題が深刻であるのは、この作戦が大量の民間人をまきこみ、軍民の共犯関係を築いたことです。現代風に言えば、「市民参加型行政」の形式で、人間狩りが行われたのです。
だまされて利用された民間人は、自分をだました人間を追及することができません。自分も手を汚しているわけですから。彼は、自分はだまされたのだと言うことはできても、誰にだまされたのかを言うことができない。この共犯関係が生み出すバイアスによって、彼らは「デマに惑わされてはいけない」という、まったく不充分な「教訓」に留まり続けるのです。日本の新聞社がこの念仏を繰り返しているのは、自らが虐殺に加担した事実を批判的に総括することができないからなのです。
 陸軍と共に人間狩りに加わった人間たちは、それ以降、軍のいいなりです。そうして事件が明るみになったあとも、その責任をなにか自然にみたてた「デマ」のせいにしてしまう。問題を正面から直視することができない。
 私がかねてから「市民参加型行政」という手法に反対してきたのは、こういうことがあるからです。行政と民間の協働は、主客を混同させ、事業に対する正当な評価をできなくさせるのです。

 現代で言えば、福島「復興」政策です。
この官民協働の大事業は、おびただしい流血をもたらした後、おそらく誰も責任をとろうとはしないのです。

2017年8月29日火曜日

疎外に親しむこと、疎外から力をひきだすこと



 東京電力による放射能汚染問題は、放射性セシウム・放射性ストロンチウムを基準にして300年は続くものです。プルトニウムを基準にすれば、20万年は続きます。平野部分の回復は、これよりももっと短いものになるかもしれませんが、山林と海洋は長く毒性を保持し続けることになるでしょう。人間は、これまであまり問題にしないできた新しい環境と対峙することになりました。私たちは酸素が希薄な場所では生きられないように、放射線濃度の高い地域では生きられないのです。この汚染を技術的に克服する手段は、現在のところ存在しません。


 人間の棲息環境が大きく変わってしまったという事実に、私たちは驚きました。想像を超える途方もない事態に、面食らったのです。しかし事件から6年も経った現在、そろそろ面食らっている時期も過ぎたのではないかと思います。いつまでも泣き言を言っていても始まらない。日本列島は陸地の三分の一を失い、太平洋を失ったのです。この事実は動かない。いまは慟哭している老人たちも、十年後には死に絶えます。私たちは未来に向かってどのように歩むのかを考えなくてはならないのです。


 これからの思想に必要とされるのは、新たに現れた疎外と対峙しながら、この疎外に親しみ、疎外から力を引き出すことです。ここで私が言うのは思想の内容ではなく、姿勢の問題です。考える際にとるべき構えです。腹を据えて、ハートを強くもつこと。広域放射能汚染というこの巨大な疎外を、むしろ楽しんでみることです。
 原子力時代のアナキズム、原子力時代の共産主義、原子力時代のフェミニズム、原子力時代の革命主義、原子力時代の陣地線論、原子力のテクスト分析、原子力時代の生‐権力、放射能汚染時代のサバルタン、等々、なんでもいいんです。いま私たちは、新しい知性が生みだされるまったく新しい条件に立ったのです。この機会を捉えずに、ただうなだれたり、腕をこまねいていたりするのなら、理論作業なんていらない。ただただ嘆いて神仏を拝んでおればよい。


 もう嘆くのはやめて、次の時代の話をしましょう。
 私は新しい議論の、新しい星図の、一つになりたいのです。

2017年8月22日火曜日

倒錯的なものの力について



 4ヵ月かけて準備してきた共産研8月集会が終わり、事後の作業を進めています。 

 作業の合間に、ファレル・ウィリアムスの『HAPPY』を聴いています。
 この曲、ファンキーなリズムに透きとおったファルセットボイスをのせて、2014年に大ヒットした名曲。
 歌詞の内容は、こうです。


今から言うことはどうかしちゃったと思うかもしれないけど、 
こんないいお天気だから、ちょっと休もうよ。 
宇宙まで行く熱気球になったみたい。 
大空の中では、何も気にしないよ baby  
だってハッピーだから。 
部屋に天井がない感じになったら、手を叩こう。 
だってハッピーだから。 
幸せってのは本当なんだって感じたら、手を叩こう。 
やりたかったのはこれって判ったら、手を叩こう。


 すごい歌詞ですね。
これ、薬物でラリっているように見えるかもしれませんが、ラリっているのではありません。ヤケになって挑発しているようにも見えますが、ただ挑発したいというのでもない。

 まじめに生きようとする人間が、まじめすぎてまじめの向こう側に突き抜けてしまった先に、倒錯的なものの力に触れる。なにが“HAPPY”なのかというと、自分自身が持っているこの倒錯的なものの力を発見したことが、HAPPY。こうなるともう薬物にたよる必要はありません。いつでもどこでも自家発電できてしまうわけですから。
 悲しみと孤独と絶望をくぐった先に、誰もいない道端で、ただひとりで、ニヤニヤと笑みを浮かべる人間が生まれるのです。フェリックス・ガタリが「狂気になること」と言ったのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。



『HAPPY』ファレル・ウィリアムス






2017年8月11日金曜日

ペペさん、動いて


昨晩、大阪の京橋に行って、酒井さんと飲みました。

矢部「ペペ長谷川を大阪に移転させるために、僕は50万円用意しますよ。酒井さんも50万出してください。」
酒井「まじかよ。うーん。10万ぐらいなら出せるけどねえ」
矢部「10万て。ペペさんに10万ですか。」
酒井「うーん。わかった。20万。」
矢部「20万て。まあいいや、酒井さんは20万で、あと何人か声かけて100万用意しましょう。」
酒井「うーん。どうかなあ」

というわけで、現段階で70万円あります。
ペペ長谷川さん、引越しの検討を始めてください。


2017年8月8日火曜日

立ったままで歌を歌おう

 東京で闘病していた松平君が、今朝、亡くなったそうです。
 私は東京には行きませんが、名古屋から冥福を祈ります。

 若くしてガンを発症し、闘病のなかで放射能汚染問題を告発した人間がいたこと、
2017年の8月に彼が逝ったことを、忘れないでいよう。

 彼と、彼の友人のために、歌をたむけます。 




立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
         ヴィクトル・ハラ





2017年8月4日金曜日

3・11 言説の物神性



 高橋哲哉という学者が『犠牲のシステム』と言ってみたり、小倉利丸という学者が「福島の悲劇」と言ってみたり、こうした現象について、深夜のデニーズで討議しました。
 「犠牲」や「悲劇」といった言葉が選択されるのは、なぜなのか。どのような力学がそれをさせているのか。

 ざっくばらんに言えば、我々の感覚からはほど遠い、まるで宗教者のようなやり方です。まず唯物論的でない。弁証法的でもない。思考を明晰にするのではなく、かえって蒙昧のなかにおいてしまう、言葉。バズワードですね。学者の仕事としては、ちょっとありえないやり方ですよ。ねえ。創価学会じゃないんだから。

 高橋哲哉はデリダ読みですから、つまり形而上学批判という看板の形而上学なので、これはまあ、ありそうな話です。しかし小倉利丸は経済学者ですから、彼の口から「悲劇」という表現が出てくるのは、不思議な話ではあるのです。学術的にどのような文脈があって「悲劇」という表現を容認したのか、小一時間問い詰めてもよい話なのです。

 まあこの件は些事と言えば些事なので、夏の集会のあとに、やります。
物を書く人間が、言説という商品の物神性にどれだけ依存しているのかについて。

ちゃんとやらないとですね。

2017年7月14日金曜日

田原さんの新刊

田原牧さんから献本をいただきました。
ありがとうございました。


『人間の居場所』 田原牧著 集英社

旧知の田原さんが精力的に本を書いていて、うれしいです。彼女が体を壊していないということが確認できて、そのこと自体はいいのだが、さて、オビがね。
姜尚中氏の推薦はいいとして、高橋哲哉の推薦はなあ。
まずいなあ。これは、うーん、マイナスだなあ。
彼女の表情がすこしばかり固くなってしまっているように見えるのは、このあたりの、うーん、、、いらないよねこの推薦。

まあ、高橋哲哉問題は今後じっくり話すとして、名古屋に来たらまた飲みましょう。