2014年1月23日木曜日

中国と戦争して勝てるわけがない



 今日は集中力を欠いているので、ごくごくあたりまえのことを書く。あんまり頭が働かないので、問題の背景に触れない直レスというか、年寄りのカンシャクみたいなノリでいく。


 どこの馬の骨かわからない戦争マニアと一部メディアが対中戦争を云々しているようだが、まったく知性のかけらもない馬鹿どもだ。中国と戦争をして勝てるわけがない。彼我の力量差はあきらかだ。わざわざ負けるために戦うようなものだ。

 中国は、強い。問題は核兵器とか宇宙衛星とかではなくて、彼らは思想が強い。
中国は古代から戦争と革命をくりかえしてきた国である。孫子の兵法が書かれたのは紀元前500年。それから何代にもわたって注釈が書かれ、実戦で鍛えられ、ついに毛沢東という天才を生みだしている。毛沢東の軍事思想は世界中で読まれていて、たとえば米軍を打ち負かしたベトナム軍も毛沢東思想に依拠している。
 いったい日本政府に、孫子や毛沢東に匹敵するような戦争の思想があるだろうか。ない。日本人なんてのはシコシコと兵器を生産してきただけではないか。中国と日本では、軍事思想において大人と子供ほどの違いがある。

 毛沢東思想の恐ろしさは、非妥協・非和解の無慈悲な戦争をすることだ。彼らの戦争に馴れ合いはなく、敵が最も恐れることを平然とやってのける。敵が戦争の長期化を恐れていれば長期化させる。長期化を望んでいれば短期にとどめをさす。こちらが考えているようにことは進まない。尖閣諸島をめぐる戦闘が海上に限定されると考えるのは、まるで子供じみた想定だ。そんな甘い期待を裏切ることで、彼らは勝利してきたのだから。
 日本の右翼議員が忘れているか、あるいは忘れたふりをしているのは、第二次世界大戦の敗北の総括である。日本は誰に負けたのか。もちろん中国だ。日本が国際的に孤立させられ泥沼の長期戦にハメられたのは、すべて中国政府の軍事・外交戦略によるものである。これは偶然ではない。中国で培われた戦争の思想が、勝つべくして勝ちをおさめたのである。

 馬鹿どもに教えてやるが、もしも戦争を論じたいなら、まずは率直に力をみることだ。勝者の闘いを参照し、強いものと弱いものとの違いを直視し、力とは何かを考え抜かなければならない。軍艦がかっこいいみたいなレベルの幼稚なフェティシズムで戦争を語るな。阿呆が戦争を語っても弱さがにじみ出るだけだ。見ているこっちが恥ずかしい。








追記 


 なぜいま、大の大人が、対中戦争などという荒唐無稽な話を議論するのか。日本の「民族主義」は、本当にぶざまだと思う。十数万人の同胞が難民化し、数千万人の同胞が放射性物質を浴びせられているのに、それでも政策を転換せず、荒唐無稽な「外敵」を妄想し喧伝している。まるでカルト教団のような展開だ。こんな国で「日本民族」を主張しても、まったくなんの説得力もない。それは、子供を虐待しているカルト教団が声高に「親権」を主張するのに等しい。民族主義右翼も、国民主義左翼も、子供をまもれないやつほど偉そうにしゃべるのだ。



2014年1月9日木曜日

「みなし微量」を払拭せよ



 2011年の夏から全国で展開された市民測定所運動は、放射線防護活動の一翼を担ってきた。その重要性は現在も変わらない。
 しかし、測定運動にも功罪はある。その「罪」の部分はなにかというと、「みなし微量」の問題である。

 第一に、生協や流通業者にみられるような、測定機材に依拠した「みなし微量」がある。それは、測定機材の限界からくる「不検出」を「微量」とみなし、さらには「安全」の基準とみなしてしまうことだ。多くの生活協同組合は、当初からこうした誤用ともいえる測定作業を行ってきた。彼らは消費者を防護するためではなく商品を流通させるために、欺瞞的な「測定」を実践した。
 現在の測定技術では、1Bq/kg未満をみることは難しい。市民測定所の簡易的な機材では3Bq/kgまで確認するのがやっとだ。測定作業者はおうおうにして、この検出限界のラインを「微量」の基準であるかのように錯覚してしまう。しかしそれは現在の測定技術のモノサシで「微量」にみえているだけであって、医学的な知見に基づいて微量ということではない。医学者は1Bq/kg未満を安全であるとは言わないし、3Bq/kg未満は確認できていないと言えば顔をしかめるはずだ。
 生協が言う「測定」や「安全」など、ぜったいに信じてはいけない。それは手の込んだやりかたで被爆を受忍させる悪習である。

 「みなし微量」の第二は、数値を比較したときの相対的な位置によって、「微量」の印象が形成されることだ。これは拙著『3・12の思想』でも指摘したことだが、福島市や那須塩原市や東葛地域の空間線量率を見てしまうと、それ以外の地域の汚染はどうしても「微量」に見えてしまう。もちろんこれは錯覚である。空間線量率 0.16μSV/h という数値を見たとき、多くの人は「微量」と感じてしまう。しかしそんな私たちの感覚に医学的根拠はない。0.16μSV/hは安全だという科学者はいない。ただ重汚染地域と比較すれば相対的に低いというだけのことであって、それをもって勝手に「微量」とみなしているにすぎない。

 この錯覚は、ある政治的態度と結合することで揺るぎないものになる。だれも自分が被害者であるとは認めたくないのだ。会津地方の住民は「汚染被害は中通りまでだ」と信じようとするし、首都圏の住民は「汚染被害は東葛地域までだ」と信じようとする。誰もが自分の住む地域を「軽微な汚染」とみなしたいと考えていて、その信念は数値を比較することによってどこまでも可能になってしまう。この錯覚を支えている政治的態度とは、つまるところこうだ。
「放射能汚染の被害にあったかわいそうな人々がいて、それは私ではない誰かだ。」
 自分が被害者であることを認めない態度、これはたんに気休めであるというだけでなく、差別である。おしつけである。これから東京電力との難渋な闘いが始まる。すでに始まっている。この勝機の見えない長い長い困難な闘いを、自分以外の「誰か」に(「福島」に)押し付けて、自分はその戦列に加わらず傍聴席から眺めようとタカをくくっているわけだ。いま「福島」に生じている軋轢や混乱や絶望を、自分とは別の世界の出来事として眺めている。しかしそんな都合のいい特等席は存在しない。仙台も東京も松本も名古屋も大阪も福岡も、福島のように混乱するべきなのだ。

「みなし微量」は錯覚である。
 それは被害者の弱い心につけこんでくる。
 己のうちに巣食う「みなし微量」を払拭せよ。

 

2014年1月1日水曜日

「移住元年」


 今年は、社会の解体がはっきりと顕在化する年になるでしょう。
 このことは不可避です。もうごまかしはききません。



 NHKの年末恒例の歌番組では、大勢の歌手がステージに並び、復興の歌「花は咲く」を合唱しました。「いつか生まれる君に~」と。妊産婦に被曝を強要しながら、「いつか生まれる~」とうたうのです。
テレビタレントが並び「ふるさとに帰ろう~」と歌う。帰還を断念させられた者たちが新しい土地で苦闘しているさなかに、「ふるさとに帰ろう~」と。

 地獄に落ちろ。
 全員、地獄に落ちろ。

 私が問題にしているのはNHKだけではありません。あの場で歌ったもの全員が有罪です。問題はこの国の「復興」政策でありつつ、その嘘を知りながら政策におもねる人間たちです。「復興」政策に協力翼賛した者はすべて、その失敗と殺戮の責任を負い、人殺しとして断罪されるべきです。



 放射能汚染は社会を解体させます。
 多くの人々が、自分は被曝しても被害はないと信じています。自分は高齢だから問題ない、と。そこまではいいとして私が驚くのは、彼らが「自分に被害はない」と信じた直後に、身近にいる若者や女性の防護をすっかり忘れてしまったことです。「社会」だとか「組織」だとか偉そうにのたまう人間たちが、部下や後輩をまもる責任を忘れ、組織的な防護対策をネグレクトした。そして組織というものの無力さと偽善をごまかすために、汚染問題に口を閉ざしたのです。

 我々がわずかでも信じていた社会は、すでに解体しました。もういちどゼロからやり直しです。

 今年は移住を組織します。
 自分の信じられる社会を構成し、もういちど社会を生きるために。