2015年10月13日火曜日

タモリがめんどうくさくなっている

タモリとマツコデラックスという二人のテレビタレントが、缶コーヒーのキャンペーンかなにかでトークショウをやっているのだが、これが、驚くほどグダグダである。
配信してはいけないレベルのつまらなさ。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151006/MaidigiTv_43158.html


高齢化のためか、被曝症状によるものか。

東京がはつらつとしていた時代が終わるのだと感じた。



2015年10月7日水曜日

さよなら銀河系


 新宿ゴールデン街のバー「銀河系」が、今月いっぱいで閉店する。
店主の伊藤清美さんから手紙をいただいた。


 「銀河系」は、1970年代に大野さんという人が始めたお店だ。アナキストの松田政男氏が開店資金を準備し、店の名を「銀河系」と命名したという。私がこの店に出入りするようになったのは2002年以降なので、全盛期の銀河系を知っているわけではない。私が知っているのは、大野さんから伊藤さんに引き継がれたあとの、二代目銀河系だ。


 私が初めてこの店に連れていかれたのは、30歳を少し過ぎたころ。アメリカがアフガニスタンに侵攻し、日本では有事法制にたいする反対運動が行われていたころだ。
 銀次という先輩に、大事な話があると呼び出された。
銀次は、東京のアナキストなら知らない者はいない、凶暴で面倒くさいタイプのアナキストだ。彼は80年代に山谷の日雇い労働運動に加わり、暴力団金町一家との戦闘をくぐってきた武闘派である。ベルリンの武闘派左翼「アウトノーメ」のスタイルを日本に紹介したのは、この男だ。黒いパーカーを着たアナキスト集団というスタイルは、現在では見慣れたものになったが、90年代にそんなトッポイ恰好をして歩いているのは、銀次とそれ系統の若いアナキストだけだった。銀次とはようするに、私の先輩である。
 私の先輩と言っても、大学の先輩というのではない。銀次は高校を中退して、大学に進学しなかった。大学に行くのではなく、労働運動のなかで、アナキストの思想を鍛錬してきた人だ。私もそうだ。私も高校を中退して、独学で現代思想を学んできた。松田政男氏もそうだ。松田氏は高校卒業後すぐに共産党の労働組合オルグとして働き、50年代の「神山派」を経て、共産党除名後にアナキストになった人だ。松田氏、銀次、私は、大学教育とは無縁な労働者アナキストの系統である。
 話を戻す。
 最初に銀次に呼び出され銀河系に連れていかれたときは、とても緊張した。緊張しすぎて酒の味なんてわからない。おっかないアナキストの先輩に、肩が触れ合うほどの至近距離で、「大事な話」を聞かされるのである。薄暗いバーの店内でサングラスをしているヤクザのようなオッサン、腰には三段伸縮パイプを携行、しかも頭の中身はアナキストだから、口から出てくる言葉と概念がいちいち物騒なのだ。
 銀次の用件はとてもシンプルだった。「最近グッドウィルとかフルキャストとか派遣業者の奴らが調子にのってんだよ。ガツンとやってヘコましてやらなきゃいかん。組合をつくって闘うから、おまえも加われ。」
 丁重にお断りした。組合をつくるのはいいとして、銀次と一緒にやるのはとても考えられない。それはいやだ。お断りした。一発二発なぐられるのは覚悟したが、この日は意外にもあっさりした反応で、無傷で帰ることができた。

 銀次先輩のお話を丁重にお断りしたあと、私は何人かの友人に労働組合の結成をもちかけた。そのなかで、高橋くんと安里くんという二人の大学生が、一緒にやろうと言ってくれた。三人で、学生・若年労働者のおかれた状況について討議する会をもった。2002年の冬だった。このとき「フリーター全般労働組合」の準備会がスタートした。いまから13年前の、もう、すっかり昔話だ。



 銀河系に初めて連れていかれたときは生きた心地がしなかったが、その翌年には自分の足で店に通うようになっていた。
 二代目の店主の伊藤清美さんが、安い料金で飲ませてくれたということもある。しかしそれ以上に、銀河系という店の魅力が大きかった。
伊藤さんの魅力であり、飲んでいる客の魅力だ。
客の顔ぶれはさまざまだった。演劇人、映画人、アーティスト、文筆業、編集者、新聞記者、大学人、赤軍派、中国派、アナキスト、詩人。有名人もいれば、裏方もいた。成功した人もいれば、挫折した人もいる。ひとクセもふたクセもある大人が集まって、酒を飲んでいた。そしてみんな、暴力の匂いをさせていた。

 そう。銀河系という店には、暴力の匂いがあった。暴力、と言っても、いつも客同士で殴りあっているということではない。そうではなくて、人間の姿勢である。たとえ相手が何者だろうと馬鹿なことを言いやがったら殴るぞ、という姿勢があった。それは、松田政男氏や東郷健氏のような長老クラスから、私のような新入りの若造まで、それぞれ経験も課題も違っていたが、だれもが自分の言葉の奥底に暴力を蓄えていた。
自分の暴力だけを頼りに、ピンで立っていた。
だからあんなに穏やかに、落ち着いて、酒を飲むことができたのだ。
 


 もうひとつ、思い出話。
 2006年に私は2冊目の本を出して、そのころは『VOL』という思想誌の創刊に編集委員として加わってもいて、これからみんなで売り出して勝負をかけるぞ、というときだった。
 朝日新聞の夕刊に、新人の書き手を紹介するコーナーがあって、そこから取材の話が来た。著書と人物を写真入りで紹介してくれるという。ありがたい話だ。ありがたい話なのだが、その取材の前日に、私はヘソを曲げて取材をキャンセルしてしまった。ドタキャンである。
 きっかけは、ある事件報道だった。秋田県の北端にある藤里町というところで、母子家庭の母親が娘を殺してしまったという事件があった。この事件では、新聞社や週刊誌やテレビ局が容疑者の住む町営住宅に押しかけ、その後「メディアスクラム」と呼ばれて問題視されるほどの過熱報道があった。
 容疑者が逮捕された翌日、新聞各紙の一面には彼女の全身写真が掲載された。一面トップである。朝日新聞も他紙と同様に、容疑者の写真を大きく一面に掲載した。これを見て、ブチッと切れた。もう我慢できなかった。朝日新聞に電話をして、事件報道と人権についてごちゃごちゃ言って、さいごに「あんたんところの取材なんか金輪際うけねえよ」と言ってしまった。
 朝日の記者は怒ったし、本をつくってくれた担当編集者はもっと激怒した。それはそうだ。これから売り出さなきゃいけないのに、宣伝の取材を断るなんてありえない話だ。『VOL』の仲間も冷ややかだった。みんな呆れて口を聞いてくれない。まあ、それはそうだ。これからいろんなメディアに出張っていかなきゃいけないのに、新聞社とケンカしてなんになるのか。
 私もさすがにおとなげなかったかもしれない。と、反省する感じになっていたところに、銀河系の常連客仲間が私を見つけてうれしそうに言った。「おいおめえ、朝日新聞の取材ことわったらしいじゃねえか! やるじゃねえか! 見直したぜ!」と。
 無責任と言えば無責任だ。悪友と言えば悪友だ。まあ、こういう感じだ。ひとの事情も知らないでまったく無責任に激励してくれる悪友というのは、一人ぐらいはいてもいいのではないかと思う。
 バカな意地をはってやらかしたときに、「知ってるよ、お前はバカなアナキストだもんな」と笑ってくれる人が、銀河系にいた。
 なつかしい思い出だ。


2015年10月2日金曜日

RADIO KY


東京から来た若い組合活動家に、「最近は書いてないんですか」と聞かれた。

そういえば、最近は紙媒体に書いてないね。
東京の某出版社で本の企画を進めていたが、結局ぽしゃった。
「話を詰めたいから名古屋に来てよ。社長も来てよ。」と言ったら、見事に来なかったね。
書き手をなめてんだよな。
まあいいや。


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RADIO KY

氷河期ユニオンの小島くん(K)と、矢部(Y)がしゃべってます。音楽はなし。しゃべるだけ。