2013年3月23日土曜日

3年目の心中事件


小学生男児が死亡 殺人で母親逮捕

22日夜、福島県二本松市のアパートの部屋で小学6年生の男の子が死亡しているのが見つかり、警察は、33歳の母親を殺人の疑いで逮捕しました。逮捕されたのは、福島県二本松市油井の無職、渡邉みゆき容疑者(33)です。警察によりますと、渡邉容疑者は22日午前6時ごろ、自宅アパートの部屋で長男で小学6年生の青空君(12)を殺害した疑いが持たれています。警察は、22日午後8時すぎ、渡邉容疑者が「子どもを殺した」と自首してきたことから自宅を確認したところ、寝室の布団の上で死亡しているのを見つけたということです。首にはロープのようなもので絞められたような跡があったということです。警察によりますと、渡邉容疑者は青空君と2人暮らしで、22日は小学校の卒業式だったということです。調べに対して、「息子を殺して自分も死のうと思っていた。息子を残して死ねなかった」と供述しているということで、警察は詳しいいきさつを調べています。(NHK 3月23日)


 かつてウーマンリブが盛んだった頃、ある女性活動家は「(連合赤軍事件の)永田洋子は私だ」と言ったそうだ。これは当時おおいにウケたようだ。最近では、ある少年事件について「酒鬼薔薇は自分だったかもしれない」と言うのが流行した。これも当時たくさんの駄文を生んだ。
 「○○は私だ」式の言い方は、私は嫌いだ。学級会みたいだから。私はこういうことは口が裂けても言わないとあらかじめことわっておいたうえで、いまあえて問いをたててみる。
 この心中事件に触れて、「渡辺容疑者は私だ」と言う者があらわれるだろうか。子供と無理心中をはかったひとりの女性について、シンパシーを表明する者があらわれるだろうか。
 それは、ない。
 彼女を公然と擁護する者はひとりもあらわれないだろう。
 では、渡辺容疑者にシンパシーを感じている者は一人もいないのだろうか。
 それも違う。多くの人間が、一言も発することなく、彼女に注目している。この沈黙と瞠目が、2013年現在の潜勢力だ。
 

2013年3月21日木曜日

3/16被曝社研報告




 3月1617日、名古屋市で被曝社会研究会の合宿をおこなった。参加者は10名。
今回は九州・関西の人が来られず、ほとんどが東京からの参加者で占められた。フリーター全般労働組合のメンバーや、洞爺湖サミットの抗議行動を準備したグループなど、これまで長く付き合ってきた仲間と再会し、ひさびさに声がかれるほど話した。
 一日目は、被曝労働についての討議。
 二日目は、先月発売した『被曝社会年報1』に関する討議。
 両日とも言いたい放題で、ともすれば奥歯にモノの挟まった状態に陥りがちな課題について、内容の濃い意見交換ができたと思う。
 



 最近、年をとったせいか、遠慮がなくなった。
 この二日間、ずいぶんなことを言ったと思う。労組の活動家に対しては「労働組合にはなにもできない」と言ったし、フェミニストに対しては「日本の女性学は原子物理学と同じ程度に御用学問」と言った。翌日に名古屋に駆けつけてくれた白石さん(フランス文学)に対しては、「いま主婦の存在を見据えない文学なんて文学じゃない」と言った。もう言いたい放題だ。

 なぜこんなことになっているのか自分でもよくわからないが、たぶん私が興奮している原因のひとつは、もっとも古い同志であり先生でもある山の手緑氏が研究会に参加してくれたからだろう。
 山の手緑は、『被曝社会年報』を酷評した。
「なんだこの惨状は」と言い、「ボロボロじゃないか」と言い、「けっきょく私が書かなきゃダメなのか」と言った。
 彼女はこの二年間沈黙していたが、いまようやく腰をあげる気になったようだ。
 これは大きな成果である。
 ていうか、おせーよ。
 はやくなんか書け。

2013年3月15日金曜日

被曝社研レジュメ2、放射線防護の争点 


明日、第二回被曝社会研究会です。

合宿です。

レジュメをもう一枚、早見表みたいなものをつくったので、参加者はざっと目を通しておいてください。防護に取り組んでいる人には釈迦に説法かもしれませんが、整理して眺めてみると、意外に忘れてた論点が出てきそうです。
以下、本文。
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  放射線防護の争点

. 問題となる主な核種
 

ヨウ素131(※)
 ベータ線(電子)を撃ちだし、それに伴ってガンマ線(電磁波)を放出する。
 崩壊後にキセノンになる。
 半減期8日。80日後に1024分の1まで減少。

トリチウム(水素3、三重水素)
 ベータ線を撃ちだす。
 崩壊後ヘリウムになる。
 半減期12年。120年後に1024まで減少。
 水に混入する。

セシウム134(※)
 ベータ線を撃ちだし、それに伴ってガンマ線を放出する。
 崩壊後にバリウムとなる。
 半減期2年。20年後に1024分の1まで減少。
 カリウムを含有する食品に混入。

セシウム137(※)
 同上。
 半減期30年。300年後に1024まで減少。
 カリウムを含有する食品に混入。

ストロンチウム89
 ベータ線を撃ち出す。ガンマ線は出さない。
 崩壊後にイットリウムになる。イットリウムはベータ崩壊し、ジルコニウムになって安定する。
 半減期50日。500日後に1024分の1まで減少。
 カルシウム食品に混入する。

ストロンチウム90
 同上。
 半減期28年。280年後に1024分の1まで減少。
 カルシウム食品に混入する。

放射性銀(銀106m、銀108m、銀111
 ガンマ線を放出する。
 銀111は崩壊後にカドミウムになる。
 貝類に濃縮する。
 
プルトニウム239
 アルファ粒子を撃ちだす。
 崩壊後にウラン235になる。
 半減期24千年。24万年後に1024分の1まで減少。

ウラン235
 アルファ粒子を撃ちだす。
 半減期7億年。70億年後に1024分の1まで減少。

アクチニウム系列(ウラン235の娘核種)
 プルトニウム239を起点に鉛207で安定するまで、アルファ崩壊とベータ崩壊を重ねていく。ビスマスや放射性鉛などから測定することができる。(別表参照)

)の核種は、現在の土壌検査・食品検査で測定されているもの。


. 測定をめぐる争点

 空間線量率の問題1
 現在、公的機関が行っている空間線量率計測では、シンチレーション方式の機器が採用されている。この方式は、ガンマ線を検出するが、ベータ線を検出しない。空間中に飛び交うベータ線(飛距離1m~1.7m)は、数値に反映されず無視された状態である。ウクライナ等で使用されるガイガーミュラー管方式(ガイガーカウンター)では、ベータ線とガンマ線を両方カウントするが、日本政府はこの種の機器を排除した。

 空間線量率の問題2
 公的に発表される空間線量率は、CPM(カウント毎分)ではなく、「マイクロシーベルト毎時」という単位で統一されている。しかし、換算につかわれる「検出効率」などの係数は統一されておらず、国やメーカーによって異なっている。検出器が検知したCPMから「マイクロシーベルト毎時」へと換算する過程で、数値の操作ができてしまう。
 福島県に設置された地上モニタリングポストでは、市民団体がおこなった計測値の約半分の数値しか表示していないという結果が出ている。

 空間線量率の問題3
 現在の汚染環境は、線源(放射性物質)が密閉・固定された状態ではない。線源の粒子がモザイク状に分布し、これがさらに、移動・希釈・蓄積という動態をつくっている環境である。このなかで、ある地点の「空間線量率」を計測しても、そこからわかることや言えることは少ない。サンプリングという方法自体に疑問符をつけざるをえない。

 食品検査の問題1
 シンチレーションスペクトロメータやゲルマニウム半導体検出器は、ガンマ線を放出する核種しか把握していない。ガンマ線を放出しないストロンチウムやアルファ線核種については放置されている。

 食品検査の問題2
 現在ある測定機材が、おもにセシウムしか測れないため、農産物ではセシウムのロンダリングが組織的に行われている。農地にカリウム肥料を投入し、セシウムの移行を低減させるように、自治体や農協が指導している。このことでセシウム以外の核種の汚染は見えなくなっている。

 食品検査の問題3
 空間線量率の問題と同様に、サンプリングという方法自体に疑問符がつく。汚染の分布と動態が少しわかってくれば、サンプル抽出の際にそれを外すことができるようになる。とくに農産物については、商品とサンプルと自家消費分を分けるのは容易である。

 食品検査の問題4
  粉、液体、練り物などの加工食品、「陰膳」調査(一食まるごと調査)等は、希釈効果によって汚染を見えなくする。検出限界の性能は機材によって異なるが、市民測定所の能力では3Bq/kgまで確認するのが精一杯である。これをぎりぎり下回るレベルで、汚染された国産小麦や加工食品が流通している。


 人体の検査
 ホールボディーカウンターはシンチレーション検出器なので、ガンマ線を拾うだけである。ストロンチウムは把握できない。表面汚染と内部汚染を分けているかどうかも怪しい。また、患者を長時間拘束することは難しいので、検出限界は高い(甘い)。
 尿検査はきちんと体制を整えればストロンチウムを調べられる可能性がある。しかし骨に蓄積してしまった分についてはわからない。
 髪の毛には体内の重金属が排出されるので、ここからウランやアクチニウム系列の物質を把握できるかもしれない。


 呼吸内部被曝の問題
 汚染地域やがれき焼却地域で懸念されている呼吸内部被曝は、ほとんど調査も研究もされていない。今後はアスベスト被害の研究などから学ぶことになるだろう。

 アルファ線核種とトリチウム
 プルトニウム、ウラン、アクチニウム系列の放射性物質は、ほとんど無視されている。
 トリチウムは「人体に影響がない」とされているが、実際にはたんに研究されたことがないというだけの話である。トリチウムという物質は核融合爆弾の核心部分であるため、公開されている情報が非常に少ない。

2013年3月12日火曜日

おそろしいけどおもしろいこと


 最近、洋上を移動している震災漂流物の映像とか、大気中を移動するPM.5の予測映像とかを見ると、おもしろいなぁと思う。
 かたまりで移動するんだよね。バラけるんじゃなくて、かたまるんだ。
 こういうバラバラな小さなものがかたまりをつくっていくことを、「散逸構造」って言うのかな。よくわからないが。

 放射性物質の拡散について希釈だとか薄まるとか言っている学者が、ずいぶん素朴な人々だと感じる。
 素朴を通り越して迷信なんだが。

「追悼」がすべっている




3月11日。
「追悼」行事とローソクナショナリズムが盛り上がらない。
求心力の低下は著しい。
まあ、無理だわな。

 東京電力福島第一原発は、現在も放射性物質のガスを噴出し続けている。東電の発表では毎時1000万ベクレル(推計)。東北・関東にはいまも火の粉が降り注いでいるのだ。鎮火もできていないまだ災害が継続している状態で、「2年がたった」と言って、なんの意味があるのか。

 放射能汚染災害は、まだ始まったばかりだ。
小手先でごまかせるものではない。

2013年3月8日金曜日

医療機関がパンクする


救急搬送:受け入れ、25病院から36回拒否 埼玉の75歳死亡 

 埼玉県久喜市で119番通報した高齢男性(75)が1月、県内外の25病院から計36回、救急受け入れを断られ、約3時間後に到着した県外の病院で死亡したことが分かった。久喜地区消防組合消防本部は「休日における迅速な搬送が課題。各病院との連携を深めたい」と話している。 同消防本部によると、男性は1人暮らしで、休日の同月6日午後11時25分、「胸が苦しい」と呼吸困難を訴えて119番通報。救急隊員が近隣の各病院に受け入れが可能か照会したところ、「医師不足のため処置が困難」「ベッドが満床」などの理由で断られ続けた。 男性が最終的に茨城県境町の病院に搬送された時には、通報から約3時間が経過しており、病院内で死亡が確認された。 総務省消防庁によると、救急医療機関が重症患者の受け入れを3回以上拒否したケースは1万7281回(11年)。同庁の担当者は久喜市の事例について、「36回は多い方だ」としている。201335日 毎日新聞)

 昨年からさまざまな感染症の流行が話題になっている。RSウィルス、マイコプラズマ肺炎、インフルエンザ、ノロウィルス、溶連菌、結核、風疹、等々、例年よりも患者数が多くなっている。おそらくこれに加えて、脳梗塞、心臓疾患、白内障、骨折患者も増えているはずだ。
 福島県では、調査した児童から10人の甲状腺ガン患者が見つかっている。これを県内の児童人口全体にあてはめると、現在300人ほどのガン患者がいるだろうと推測されている。
 関東平野も他人事ではない。
 「レベル7」の事故は、医療機関をパンクさせる。ウクライナでは国内の医師が足りなくなり、外国に医療支援を要請し、子供たちをキューバに移送している。いま日本でもそれが始まりつつある。深夜に救急受け入れを拒否され立ち往生することは、珍しくないことになるのだろう。
 ここで生きられなかったひとりの人間について、どこの誰かは知らないが、それでも少しだけ心を痛めるぐらいの情をもつべきなのだが、状況はそれを許さないほどエスカレートしていくだろう。
 そうして我々は、人の死に無関心になる。




追記
 そういえばファシストの石原慎太郎も入院しているらしい。こいつのケースは詐病である。病気でもないのに注目されたいだけで入院した、一種の心の病である。精神がたるんでいるのだ。一週間ほど滝に打たれれば治る。都民のためにベッドを明け渡すべきだ。

2013年3月7日木曜日

『海賊のユートピア』発売は4月下旬か




 ピーター・ランボーン・ウィルソン著、菰田信介訳『海賊のユートピア』が遅れている。
 いま担当編集者に問い合せたら、4月下旬ごろ発売になるという。編集者が体調を崩して仕事が難航しているらしい。それもこれもすべて放射能をばらまいた東京電力の責任である。事件の影響は身体だけではない。精神的にもいっぱいいっぱいでウツみたいになっている人間も多いのである。無能のエセ科学者どもがやらかした不始末のために、生産性ガタ落ちだ。とんでもない営業妨害だ。いや、私に印税が入るわけではないが。

 ところで「ユートピア」と言えば、昨年よく売れて話題になった『災害ユートピア』。
 あれは、なんだったのか。
 いや、ダメな本だとは全然思わない。ただ、放射能汚染が問題になっているあの時期になぜあんなに売れていたのかということは、ちょっと考えておく必要がある。当時はシーベルトとかベクレルとかの勉強で忙しかったから、あんまり水を差すようなことも言わなかったが、災害じゃなくて公害でしょう。「災害ユートピア」じゃなくて「公害ユートピア」でしょう、ってそんなものありえないし。
 まあ、もう過ぎたことだから言わない。

 来月発売予定の『海賊のユートピア』は、いま本当に読んで欲しい、とても意義深い本です。人民のエクソダスです。鬱々としたヨーロッパなんか捨ててしまえと海に飛び出して、その勢いあまってヨーロッパの歴史ごと変革してしまった(かもしれない)「裏切り者たち」のお話。しびれます。

ノート被曝労働(4,5)




4)汚染地域のインフラ事業(ゴミ処理・下水処理・公園整備)

 この部門は放射性物質の蓄積・濃縮が明確に予測されるため、厳重な放射線防護対策が適用される。組合員であれば労災認定も比較的容易だろう。ここでは個別的な問題よりも、被曝社会全体の中ではたす役割が問題になる。
 公共部門の組織労働者は、被曝労働の中でもっとも防護されるグループだ。外部被曝線量が比較的高いため、厳重な内部被曝対策(全面マスク等)が適用される。健康被害は比較的少なく抑えられるだろう。これは、内部被曝問題を無視して安全性を主張したい科学者(しきい値仮説の信奉者)にとって、絶好のモデルケースになる。このグループの健康調査からは、理想的な統計が得られる。被曝労働の中では特殊で理想的な環境から得られたデータが、被曝労災問題全体の議論に参照されることになる。実際には、下請けのトラック運転手やリサイクルプラントの派遣労働者が不充分な防護環境で働いていたとしても、それらは統計に反映しないように切り離すことができる。キレイな部分だけ書類にまとめ、裁判資料に提出することができるのである。
 この部門の労働者は、被曝労働に動員されるだけでなく、被曝隠しのデータ作成に動員されることになる。問題は、具体的な労働条件である以上に、自らの人体情報が被曝を強要する社会の正当化に使われることをよしとするのか否かである。すぐれて思想的な態度決定を迫られる部門である。





5)汚染地域の一般的屋外作業

 放射能拡散後、千葉県の自動車のフィルターからアルファ線核種が検出されている。ウランかプルトニウムまたはその両方が、自動車に吸気されていることがわかっている。
 汚染地域における運送業、宅配、行商、教育労働等は、被曝労働となっている。これらのグループは、放射性物質を労働の対象としていないから、ほとんど防護対策が為されない。農業者や土木労働者は土を意識して働くが、子供にサッカーを教える体育教員はグラウンドの土埃を意識しない。まったく無防備な状態で放射性物質に接している。
 ここでは労働者だけが危険にさらされているのではなく、そのサービスの受け手も危険にさらされている。したがって、従来的な安全衛生や労働災害の概念で権利を主張することは難しいと感じられている。
 たとえばある学校で、汚染地域への修学旅行が実施されたとき、教員も児童もともに危険にさらされるわけである。このとき、児童が旅行に動員されるのを横目で見ながら、「私は日光には行きません」とはなかなか言いづらいものがある。仮に言ったとして、その論拠を「労働者の権利だ」と言うのはもっとむずかしい。そういう教員がいたら私は全面的に応援したいが、一般的には場違いで反社会的な主張として退けられてしまうだろう。
 ここでは労働者の権利を主張し要求することが、労使間の個別的な交渉課題ではなくなっている。それは社会総体を問いただし、社会全体と敵対しかねない、一般的な課題として浮上する。教育労働者が職場で放射線防護措置を要求するということは、すなわち、「この学校はまるごと児童福祉法違反です」と言うのに等しい。ピザの宅配人が放射線防護対策を要求するということは、「実はお客さんが食べているのはピザじゃなくてピカです」と言うのに等しい。じゃあどうしろというのかと問われたとき、だしうる回答は、「学校を信用するな、子供を預けるな」とか、「無防備に外食してると被曝するぞ」とか、そういう次元の話に行き着いてしまう。教員が「学校なんか信じるな」と言う局面とは、これは、労働者の自己否定である。
 かつて、大昔、労働運動は労働者の自己否定を追求するものとしてあったが、現在の労働運動はそうではない。労働組合は社会に埋め込まれ、支配の補完装置となっている。労働者の反被曝要求は孤立し、組合から排除されるだろう。
 しかし、この権利意識が今後もずっと孤立したままでいるかどうかは、わからない。可能性はある。

2013年3月6日水曜日

ノート被曝労働(1~3)



来週末、名古屋で被曝社会研究会合宿がおこなわれる。
その準備のために、被曝労働について考えを整理している。
以下はそのノートだが、順次公開して共有しておきたい。
最終的に研究会のレジュメとしてまとめたいと思う。
以下、本文。

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被曝労働にどう対峙するか

1)福島第一原発の収束作業
2)汚染地域の除染作業
3)汚染地域の土木・建築作業
4)汚染地域のインフラ事業(ゴミ処理・下水処理・公園整備)
5)汚染地域の一般的屋外作業


1 福島第一原発の収束作業の特徴は、作業の有効性が不明確であることである。事故後の施設の状態は把握し難く、対処の方法も明確になっていない。すべてが未知の領域である。
チェルノブイリ原発の収束作業では労働者と兵士あわせて80万人が動員されたが、当時の指揮官は、「ほとんどの作業が意味のないものだった」と述懐している。多くの労働者兵士は意味のない作業のために被曝させられた。これは労働というよりも戦争に近い事態である。人権の極端な制限、使い捨て、「兵士の命は馬より安い」という状態が復活している。戦争であれば停戦や講和が可能だが、ここではそれもない。戦争よりも絶望的な事態だ。
 収束作業に対して労働運動が取るべき基本的態度は、作業の無人化の要求である。戦争を拒否するのと同じ理由で、「収束作業の拒否」を運動の軸にするべきである。
 日本では、日露・日中・太平洋戦争で死んだ兵士を靖国神社に祀り「英霊」化している。今後は収束作業の死者を「英霊」化する策動にも強く警戒しなければならない。

2 汚染地域の除染作業は、「復興」政策の要である。
一部地域では住民の退避措置と同時に除染が試みられているが、ほとんどの地域では退避措置なき除染作業が行われている。多くの除染作業は、住民を退避させないために行われている。
 「復興」政策は、長期的には破綻することがあきらかである。しかし政府と金融資本は急激なフクシマ危機を望んでいないから(フクシマの不良債権化はこれまで経験した債務危機を超えるだろう)、徐々にソフトランディングさせるために時間を稼いでいる。したがって現行の除染事業にもとめられる「実績」とは、汚染が低減できたか否かとは関係がない。「汚染の低減」は汚染評価を操作することによって可能だからである。では除染事業は何を「実績」とするかといえば、事業の「費用対効果」であり、「効果」があらかじめ決まっている場合、単純に費用の最小化をはかることになる。除染作業が充分な安全対策を施されないのは、そもそもこの事業が費用の最小化だけを求めているからである。
 チェルノブイリで行われた「意味のない作業」は、多くの除染作業を含んでいる。安全対策が杜撰な状態で、大量の労働者が重汚染地域に動員される。この部門が今後の被曝被害を押し上げる最大のグループになるだろう。

3、汚染地域の土木・建築労働者は、被害の補償をもっとも取りにくいグループだ。
日本の土木建築業は重層的下請け構造によって、雇用を流動化させ使用者責任を曖昧にする、脱法的性格をもっている。また、汚染地域が広大で、岩手県から静岡県まで膨大な労働者が働いている。彼らの健康被害は充分に検証されることなく最後まで放置されるだろう。
現実には2つの争点がありうる。一つは、退避措置や注意喚起を怠った使用者元請けに対して、労働災害の補償を求めること。もう一つは、労働災害としてではなく一般的な公害訴訟に組み込むかたちで、国や自治体の責任を問うことである。
いずれにしろ必要なのは、呼吸内部被曝の解明と、クリアランス制度によって流通した汚染建材の実態把握である。





補足1


権利意識の喪失について

 被曝社会において、労働者がはっきりとした権利意識を持つことは必要なことである。しかし、労働者の権利意識の徹底は、これまで以上の困難さを伴う。
 まず若年労働者においては、長く続いてきた慢性的失業状態によって、諦念の感情が支配的になっている。近年のユニオン運動や反貧困運動は、若年層の権利意識に働きかけるよう尽力してきたが、まだスタートラインにたったばかりである。自暴自棄になっている若者は多い。彼らは確実に被曝する。
 つぎに、関東・東北では、汚染の強度が財産の存否に関わるほどになっているから、当該住民は、私有の不動産や債権、無形の社会資本(コネ)と経済的諸権利を、質に取られている状態である。福島県と隣接県では、「復興」政策にはっきりと異論を唱えることのできない労働者・農民が数多くいるだろう。彼らは、「復興」に翼賛してしまうために、労働階級全体の利益と対立する役割を果たすことになる。
 被曝による労災認定は、被曝線量5mSVの水準を過去の判例で勝ち取っているが、汚染地域の労働者・農民はこの成果を覆し、被曝労災問題をなし崩しにしてしまうだろう。
 最後に、非汚染地域の労働者は、「日本再生」の国民意識に呑み込まれ、階級意識を眠らせている。福島県での医療検査が事実上棚上げにされていることを知りつつも、労働組合やナショナルセンターが自ら野戦病院を建設することはない。なぜなら、被曝者の(被曝労働者の)健康調査は、金融資本と労働階級の対立を鋭く表面化させるからである。またこのことは、構造的にルンペン化した汚染地域労働者との思想闘争を必然化させることになる。
日本労働者にそこまでの根性はない。みんなにいい顔したいだけの善人たちだからだ。

2013年3月2日土曜日

日本の主婦




 放射線防護活動の特異性について、みんなもっと驚くべきだと書いたが、その続きを書いてみる。なんか筆が進むなあ。脳の具合がおかしいのかな。まあいい。

汚染食品に対する不買行動はとどまるところをしらないわけだが、この力の背景には、日本の食文化がおおきく関わっているように思う。
海外旅行をしたことのある人ならわかると思うのだが、あ、海外といってもリゾート旅行じゃなくて都市観光なのだが、海外に行って思うのは、日本の食卓はすごいということだ。普通の家庭の食卓が驚異的である。なにがすごいかといって、国際色が豊かで、民族料理に拘束されず、バラエティーに富んでいる。和食はもちろん、中華料理に、ヨーロッパの料理に、インドカレーまで作ってしまう。普通の家なのに。海外でこんな国はなかなかないと思う。
10年ほど前に韓国に行ったとき、現地で知り合った若者のアパートに転がり込んで寝泊まりしていたのだが、彼らは中華料理を知らなかったし、イタリア料理も知らなかった。韓国人はほとんど毎日韓国料理を食べているのである。ヨーロッパの若者たちも食べ物を知らなかった。ちょっと小腹がすいたから何か食べようと思ったら、まあケバブ。ケバブしかない。アメリカ人の食事もバラエティに富んでいるわけではない。ニューヨークは世界中の人種が集まっている街だが、その割にはいろいろない。寿司は食べ慣れていたが。
 世界の人は、世界の食べ物をあんまり知らない。もしかすると、自宅で普通に餃子を作ったりしているのは、中国人と日本人だけなのではないだろうか。あと、自宅でパエリアを作ったりしているのは、スペイン人と日本人だけではないだろうか。そして、自宅で餃子を作った翌日にパエリアを作っちゃったりするのは、世界中見回しても日本の主婦だけではないだろうか。
日本の食卓の国際主義は驚異的である。その分、それをつくる主婦の知識が、ハンパではない。赤味噌、白味噌、醤油、ポン酢にとどまらず、豆板醤、テンメン醤、オイスターソースを使い分け、外国のハーブやスパイスも貪欲に取り入れ、もちろんナンプラーも普通に知っている。職業的な料理人ではない。普通の家庭の主婦が、このレベルなのだ。

 何を言いたいかというと、いま厚生労働省が「食べ物と放射性物質のはなし」というおかしなリーフレットをつくってスーパーで撒いているわけだが、こういう無駄なあがきはやめろということだ。
もう、そういうの無駄だから。だって知性のスケールがぜんぜん違うんだから。
食品に関して日本の主婦がもっている知識と意欲はけたちがいなのである。どんな食材も彼女たちにとってはワンオブゼムにすぎない。この人たちが放射能汚染を問題にした時点で、もう勝負は決まっていたのだ。

タバコについて




 甲状腺のう胞のエコー検査を受けてきた。半年前に発見されたのう胞はいまも消えていないのだが、悪性の特徴もみられないので、引き続き経過観察ということになった。
 最近妙に筆が進むので、今日もだらだら書いてみる。今日はちょっとリラックスして、タバコの話。

 放射線防護をやっているとタバコについてどうのこうの言われることがある。放射能は警戒しているのにタバコはいいんですか、というような。まあそういうときは「私はヘビースモーカーなので、これ以上の有害物質は許容できないんです」と答えるのだが、私としてはこれ以上にない明快な回答だと思うのだが、まだちょっとひっかかっている人もいるようなので、今日は説明的に書いてみる。

 もしかしたら誤解されているかもしれないが、実は防護派の人々は、タバコをやめましょうなんてことは言わない。そういうことにメクジラをたてる集団ではない。放射線防護派はとくに潔癖な集団ではないし、道徳的に厳格だったりもしない。人それぞれで、はっきり言って、ゆるい。けっこう自由。
で、私のような喫煙者かつ防護派の人間に対して、タバコは健康に悪いとかどうのこうの言いたがるのは、実は放射線防護に無関心な人や反感を持っている人だ。

なぜこういうことになっているかというと、これは歴史を遡ればよくわかる。
 嫌煙運動が登場するのは、チェルノブイリ事件の後である。チェルノブイリ事件以前、人々はとくにタバコを問題にすることなく、放射能を問題視していた。ちょっと想像してみてほしいのだが、チェルノブイリとか、反原発とか、反トマホーク(核ミサイル)だとか、もっと以前には、火力発電所建設反対やさまざまな反公害運動や原水禁運動の人々は、実は、タバコをくわえながらやっていたのである。
 当時の人々の「意識が低かった」からなのだろうか? チェルノブイリ以前の反核運動・反公害運動は「意識が低く」て、チェルノブイリ後の運動は「意識が高い」ということなのだろうか? 違う。90年をさかいに、運動(の一部)が「環境運動」に歪められ、道徳化したのだ。
 チェルノブイリ事件はかつてないほどの広域で一般的な危機を生み出した。当時の反原発運動の特徴は、都市に暮らす一般的な主婦が、異議申し立てに立ち上がったということである。だれもかれもが当事者として、問題に深くコミットしようとする。このとき危機を鎮圧する戦術として採用されたのは、ひとりひとりに道徳的な内省を迫り、問題に関わる資格を問うことだ。例えば、電気を使っているのは家庭である、と。洗濯機やエアコンで電力を使っているのはあなたたちだ、と。だから電気を「湯水のように」使っている人間が問題に口を出す資格はないのだ、と。これは論理的には成立しないたんなる恫喝だったのだが、威力は絶大だった。日本人は、お人好しで格好つけだから、こういうことを言われるとつい黙ってしまう。この道徳的内省を迫る戦術のバリエーションのひとつが、タバコである。
一部の「環境運動」は、嫌煙運動に便乗してしまった。これは、反公害運動と労働運動の切断を促す効果を生んだ。なぜなら労働者はタバコを手放さないし、なにより道徳が嫌いだからである。
ちなみにこのとき東京では、中曽根内閣が策定した「四全総」が端緒につき、都市再開発が始まっていた。東京の90年代に起きていたのは、インテリジェンスビルの建設ラッシュと、クリーンで「アメニティ」な感じの空間再編であり、この新しい空間はタバコを吸わない労働者を要求していたのである。その要求は2000年代には条例化される。
で、話を戻すが、労働者が反原発運動や消費者運動に対して「小ブル的」という印象を持ってきたのは、理由がないわけではない。一部の「環境運動」に見られる道徳的態度が、伝統的な労働者文化である喫煙を攻撃したからである。都市空間の禁煙化開発(私物化)における、「払い下げ」の役割を、一部の「環境運動」が担ってしまったのである。われわれの文化を「民間活力」に売り渡したのだ。われわれ労働喫煙階級が「エコ」とか言ってる人間を憎むのは当然である。
これは本当は誤解なのだが、実は反原発運動の活動家にはけっこう喫煙者がいてそこらへんはけっこう柔軟なのだが、しかし出来の悪い部分ほど目立ってしまうということはあって、タバコに目くじらをたてることが運動のルールであるかのように印象づけられてしまったのである。
チェルノブイリ事件を契機に拡大した意識改革は、不幸なかたちで反転し、防衛的で道徳的な態度を生み出した。これは運動の発展ではなく、退行である。現在から振り返ってみれば嫌煙運動とは、チェルノブイリ事件が引き起こした危機に蓋をしたのである。そうして、タバコを吸っている人には「資格がない」、タバコをやめることが「意識が高い」という、私に言わせれば倒錯としか思えないイデオロギーを(一部で)生みだした。まあ裾野の広い大衆運動だから、いろんな人がいるのはしょうがないのだが、しらけるんだよな実際。いいよ。タバコが嫌なのはわかったよ。しかし、東京電力の資金援助うけて環境祭りやってたやつには、ガタガタ言われたくねえんだよな。東電に金もらって「アース」だの「エコロジー」だのって、完全に転倒してるだろう。俺のタバコより、そっちのほうが問題だろ。偽エコロジストが偉そうにすんなってんだ。

いや、愚痴を言い出すときりがないのでやめる。
総括的に言うと、喫煙を問題にしたい人というのは、なんであれ他人の「資格」を問いたい人だ。ようは、ビクついているのだ。素行を正してちゃんとしないと発言の「資格」がないと思い込んでいるのだ。
そういう人はいつも釈明におわれているお人好しでかわいそうな人だから、私はあまり真面目にとりあわない。徐々に権利意識を獲得していくうちに、ブレなくなると思う。


2013年3月1日金曜日

家族という残像




少し前の話になるが、『はだしのゲン』の著者、中沢啓治氏が亡くなった。
いまあらためて『はだしのゲン』を読み直してわかったのだが、この自伝的作品が描いているのは、家族の再生と解体のプロセスである。
原爆投下直後から東京に旅立つまで、ゲンはつねに人間の助け合いに努め、あらたな家族の再生を模索する。生き残った家族だけでなく、あらたに出会った人々も交えて、懸命に生活の再建に取り組んでいく。この部分だけを見れば、これは焼け野原で獲得されたユートピアの物語である。
しかしゲンの試みは最終的に挫折する。被爆地帯の家族は長続きしない。ある者は原爆症に倒れ、ある者は広島を離れ連絡が取れなくなる。最後にはゲンも広島をあとにする。この作品は、被爆者にとって家族は可能かという問いに始まり、離散によって終わるのである。

放射能は家族を解体する。人々はバラバラに解体され、分子状になる。
ここでわざわざ「分子」と書くのは、これが通常考えられている「個人」とは違うからだ。「個人」はその背景に家族をもち、家族に支えられている。たとえば「ブルジョア個人主義」というときの「個人」は、孤立した存在ではなく、妻や子を前提にした個人である。ブルジョア個人主義にとって家族とは、わざわざ言うまでもないあたりまえの存在である。
しかし、分子化された人間にとってはそうではない。分子化された人間にとって、家族とは磐石ではなく、あるのかないのか疑わしい不確かなものとしてある。
マルグリット・デュラス脚本の映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』もこのことを描いている。広島に一時滞在しているフランス人女性が、広島で出会った男とつかの間の情事に耽る。それは彼女が恋に落ちたからではないし、好色だからでもない。人間が分子状に解体され離散が永続するという環境を、彼女は生きているのだ。


放射能を前にして、家族は無力で疑わしいものになった。
例えば、福島県の汚染地帯に暮らす家族がそうだ。
以前、「復興がもたらす低開発」という項で書いたが、福島県では児童の健康調査が遅々として進まず、事実上棚上げにされている。医師の流出も止まらない。児童の人権の中でももっとも基本的な権利である保健衛生が、政策によって公然と放棄される。いつかは退避措置をとらなければならないにしても、「一挙に行うことは難しい」から、徐々に段階的にソフトランディングしていく、その時間稼ぎのための費用を児童の体に払わせている。
このとき、福島県に暮らす親と子、祖父母と孫の関係が、「家族」と言えるかどうかは、自明ではない。それは今後の健康被害統計の多寡に左右されることになる。ある家族が家族であったかどうかは、福島県立医大と放医研の公式発表に委ねられるわけだ。
汚染地帯のある家族が、「離れ離れに暮らしたくない」と言うとき、それは、「家族の絆が強い」からではない。むしろいま起きているのは反対のことであって、家族がかつての自明性を失い、なにかの残像に過ぎないものになりつつあるから、「離れ離れになりたくない」のである。
残酷な話だ。

いまわかりやすく福島県を例にしたが、問題は福島県にとどまらない。厚生労働省が100Bq/kgという基準で汚染食品を流通させているあいだ、全国の家庭でこの危機が経験されることになる。放射線防護派の不買運動が高い緊張感を維持しているのは、巷間言われるような「母性」だのなんだのではない。そういう不正確なレッテル貼りは、事態の性格を見誤る。いま起きているのは、家族の自明性が失われ、人間が分子状に解体・再編されるプロセスである。放射能は家族を解体し、社会の新しい単位を要求するのである。
ここを希望としなければならない。家族の終焉にうなだれたあとに、分子状の生を開始するのだ。この悲惨な状況の中で主導性を獲得するために、積極的に家族の解体を明らかにしよう。「無防備に放射能くったやつがヨイヨイになっても、私はぜったい面倒なんか見ないぞ」と、親に、舅に、言うべきだ。