4)汚染地域のインフラ事業(ゴミ処理・下水処理・公園整備)
この部門は放射性物質の蓄積・濃縮が明確に予測されるため、厳重な放射線防護対策が適用される。組合員であれば労災認定も比較的容易だろう。ここでは個別的な問題よりも、被曝社会全体の中ではたす役割が問題になる。
公共部門の組織労働者は、被曝労働の中でもっとも防護されるグループだ。外部被曝線量が比較的高いため、厳重な内部被曝対策(全面マスク等)が適用される。健康被害は比較的少なく抑えられるだろう。これは、内部被曝問題を無視して安全性を主張したい科学者(しきい値仮説の信奉者)にとって、絶好のモデルケースになる。このグループの健康調査からは、理想的な統計が得られる。被曝労働の中では特殊で理想的な環境から得られたデータが、被曝労災問題全体の議論に参照されることになる。実際には、下請けのトラック運転手やリサイクルプラントの派遣労働者が不充分な防護環境で働いていたとしても、それらは統計に反映しないように切り離すことができる。キレイな部分だけ書類にまとめ、裁判資料に提出することができるのである。
この部門の労働者は、被曝労働に動員されるだけでなく、被曝隠しのデータ作成に動員されることになる。問題は、具体的な労働条件である以上に、自らの人体情報が被曝を強要する社会の正当化に使われることをよしとするのか否かである。すぐれて思想的な態度決定を迫られる部門である。
5)汚染地域の一般的屋外作業
放射能拡散後、千葉県の自動車のフィルターからアルファ線核種が検出されている。ウランかプルトニウムまたはその両方が、自動車に吸気されていることがわかっている。
汚染地域における運送業、宅配、行商、教育労働等は、被曝労働となっている。これらのグループは、放射性物質を労働の対象としていないから、ほとんど防護対策が為されない。農業者や土木労働者は土を意識して働くが、子供にサッカーを教える体育教員はグラウンドの土埃を意識しない。まったく無防備な状態で放射性物質に接している。
ここでは労働者だけが危険にさらされているのではなく、そのサービスの受け手も危険にさらされている。したがって、従来的な安全衛生や労働災害の概念で権利を主張することは難しいと感じられている。
たとえばある学校で、汚染地域への修学旅行が実施されたとき、教員も児童もともに危険にさらされるわけである。このとき、児童が旅行に動員されるのを横目で見ながら、「私は日光には行きません」とはなかなか言いづらいものがある。仮に言ったとして、その論拠を「労働者の権利だ」と言うのはもっとむずかしい。そういう教員がいたら私は全面的に応援したいが、一般的には場違いで反社会的な主張として退けられてしまうだろう。
ここでは労働者の権利を主張し要求することが、労使間の個別的な交渉課題ではなくなっている。それは社会総体を問いただし、社会全体と敵対しかねない、一般的な課題として浮上する。教育労働者が職場で放射線防護措置を要求するということは、すなわち、「この学校はまるごと児童福祉法違反です」と言うのに等しい。ピザの宅配人が放射線防護対策を要求するということは、「実はお客さんが食べているのはピザじゃなくてピカです」と言うのに等しい。じゃあどうしろというのかと問われたとき、だしうる回答は、「学校を信用するな、子供を預けるな」とか、「無防備に外食してると被曝するぞ」とか、そういう次元の話に行き着いてしまう。教員が「学校なんか信じるな」と言う局面とは、これは、労働者の自己否定である。
かつて、大昔、労働運動は労働者の自己否定を追求するものとしてあったが、現在の労働運動はそうではない。労働組合は社会に埋め込まれ、支配の補完装置となっている。労働者の反被曝要求は孤立し、組合から排除されるだろう。
しかし、この権利意識が今後もずっと孤立したままでいるかどうかは、わからない。可能性はある。