フランスの反核グループが私にインタビューをしたいということで、スカイプをつないで2時間ほど話をした。海外の活動家と議論して有益なのは、自分の考えていることが整理されていくことだ。外国人には、こちらがあたりまえに感じているニュアンスが伝わらない。問題の構図を明確なかたちで言葉にしなければ、何が起きているかを説明することもできない。これは子供に話をすることと似ているが、子供を相手にするよりもずっと抽象度の高い踏み込んだ議論ができるので、楽しい。外国人と話すことは、自分のためになる。
今日の議論で、私の口から出たのは、“残酷さ”という言葉だった。「私たちは現実の残酷さを受け入れるか否かで迷っている」と。自分でも驚いた。こんな言葉が自分の口から出てくるとは思わなかった。
彼らの質問はとてもシンプルなものだった。「なぜ汚染地域からの退避が遅々として進まないのか」というものだ。その要因はなにか。さまざまな事実をあげ、問題の構図を示し、状況を説明していった。しかしなにかが足りない。なにか言い残していると感じて、最後に、“残酷さ”という言葉が出た。
放射性物質の拡散は、大量の死者をうみだす虐殺行為である。それが1万人の規模なのか100万人の規模なのかはまだわからないが、これから多くの人々が理不尽な死に方をして、我々はそれを目の当たりにすることになる。放射能汚染は、残酷である。
そしてそれにもまして、移住は残酷な決断である。
私は事件が起きた2週間後に、東京から名古屋に移住することを決めた。私は私自身が率先避難者になることで、問題解決の方向性を提示したのだが、このことは同時に、これまで付き合ってきた東京の人々に死を予告する行為でもあった。「ボンヤリしていると死ぬぞ」と、宣告したのだ。それに応えてある人は「全員が移住できるわけではない」と言う。そして私は言う。「全員は生きられない」と。
フランス人は私の心理状態を指して「罪悪感」という言葉を出してきた。私は少し戸惑った。この表現は、不当だが、正しい。正しいが、不当だ。
私がこの事態に際して罪悪感をもつ理由はない。原子力政策を決定・推進したのは私ではないし、放射性物質を撒き散らしたのも私ではない。今回の原子力公害について私はもっぱら被害者である。まずはこの単純な事実を確認しておきたい。小出裕章にかぶれた爺婆が「原発を止められなかった私たちにも責任がある」とつぶやく。私は明確にそれを否定する。必要なのは自分が被害者であるという自覚と、被害者を結合する階級意識である。私たち被害者が、自責の念にかられたり罪悪感を抱いたりすることは、支配と被支配の敵対関係を曖昧にする倒錯であり運動破壊行為である。私は小出裕章を許さないし、反核運動は小出的傾向を排除しなくてはならない。
しかし。
私がこれまでこうしたことを歯切れよく語ってきたかというと、そうではない。小出に対する批判は2011年の秋の段階でおこなったが、それは、彼らの心理状態や共有されている感情それ自体を批判するものではなかった。そこまで踏み込んで言及するには、1年の時間がかかった。また、「移住するなら仲間と一緒に行きたい」という者に対して、「全員は生きられない、残るという者は置いていけ」と言うまで、2年の時間がかかった。
なぜ、こんなに時間がかかってしまったのか。罪悪感などというものから身を引き離して生きてきた私が、こんなにも長い時間を費やしてしまった。歯切れよく語るには躊躇するなにかがあった。足元につきまとうなにかがあった。それを「罪悪感」というなら、もしかしたらそうなのかもしれない。
しかし私は断固として否認する。そして「罪悪感」という言葉にかえて、“残酷さ”と言う。
私は、あるいは私たちは、起きている事態の残酷さに怯え、足がすくんだのだ。
今日スカイプで話したフランスの活動家は、ドゥボールやポスト・シチュアシオニストの流れをくむ人たちだったので、「復興」政策のスペクタクルについて踏み込んだ議論ができた。短いがとても濃密な時間だった。おそらく来年は、私が直接フランスに行って話すことになるだろう。若い活動家たちは、日本の活動家の意見を求めている。それは現場からの実態報告ということにとどまらない。爆心地で生まれたあたらしい思想枠組みと、新たな対抗戦略を、求めている。責任は重大である。考えるべきことがありすぎる。
私と山の手緑はいまこの作業を開始している。たいへんな大仕事だ。この作業に加わりたいという人、または、作業に立ち会って間近で見たいという人は、名古屋に来てほしい。