静岡県島田市の市長が、震災ガレキを燃やそうとしている。ガレキ焼却に反対する市民が島田市に集結している。
問題にされているのは2点。
1、被災地からガレキを移送すること
2、ガレキを燃やすこと
問題の中心は、震災ガレキを燃やすことだ。ガレキ焼却とは、低レベル放射性廃棄物の焼却濃縮である。原発のなかでは、汚染された衣服やウエスを焼却して分量を圧縮する作業が行われている。こういう作業のもっと大規模なものを一般のごみ焼却場でやらせようというのだ。これは市民が反対しないほうがおかしい。
環境省と市長は、とにかく被災地からガレキを動かしたいと言う。であれば、焼却ではない方法を考えるべきだ。いつまでも焼却にこだわっているからガレキが動かせないのだ。これは痛みを分かち合うとか分かち合わないとかいう問題ではない。これ以上誰も被曝させてはいけない。現在の技術水準を考慮すれば、どこの焼却場であれ、ガレキを燃やしてはいけない。
どうせ結末は見えているのだから言うが、震災ガレキは福島県双葉郡に移送して、積み上げて、飛散防止の塗料をかけておくしかない。すでに双葉郡の一部自治体はその意向を示しつつある。
2012年2月17日金曜日
2012年2月16日木曜日
まだらめが謝った
斑目委員長陳謝“安全指針に瑕疵”
国の原子力安全委員会の班目春樹委員長は、国会に設置された原発事故調査委員会に参考人として出席し、原発の安全対策を示した国の指針について「瑕疵(かし)があったことは、はっきり認めざるをえない。おわびする」と陳謝したうえで、見直しを進める考えを示しました。
15日に開かれた国会の原発事故調査委員会には、国の原子力安全委員会の班目春樹委員長と、原子力安全・保安院の寺坂信昭前院長の2人が参考人として出席しました。
この中で班目委員長は、原発の安全対策を示した国の指針について「いろんな意味で瑕疵があったことは、はっきり認めざるをえない。津波に対する十分な記載がなかったり、すべての電源の喪失も『長時間考えなくてもいい』とされていた。原子力安全委員会を代表しておわびする」と述べたうえで、見直しを進める考えを示しました。
また、班目氏は、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」と呼ばれるシステムのデータの扱いについて「迅速に公開されていたらもっとうまく避難できたというのは、全くの誤解だ。しかし、データの公開は早い時期にされてしかるべきものだった」と述べました。
一方、原子力安全・保安院の寺坂前院長は、政府の原子力災害対策本部の議事録が作成されていなかったことについて「事故発生当時の事務局長として、大変申し訳ないと思っている。概要的なものは途中からは残されているので、復元する作業を行っている」と述べました。
国会の原発事故調査委員会のあと、黒川委員長は記者会見し、「班目氏が、原発の安全対策を示した国の指針が不十分であったことを認めるなど、今後の調査に向けて極めて参考になるヒアリングだった。緊急時の備えが、極めて出来ていなかった。原発事故を引き起こした日本としては、国際的に認識されるような安全基準をつくる責務がある」と述べました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120215/k10013043211000.html
謝ってすむ問題ではない。しかし原子力安全委員会が自らの罪を認めたという事実は大きい。国の原子力行政がきわめて疑わしいものであることが、公にされたわけだ。経産省は大飯原発の再稼働を企んでいるが、住民説明会はまずこの点で紛糾するだろう。つまり、充分な対策をとれなかった無能の組織が、もういちど安全性テストをする資格があるのかということだ。どんな蓋然的根拠があって彼らが原発の安全性を評価できるのか。「仏の顔も三度まで」というが、放射能拡散は二度も三度もゆるされない。
2012年2月13日月曜日
『3・12の思想』(以文社)
やっとゲラ校正が終わった。今日いれた。
3月に以文社から発売します。
書名は『3・12の思想』。
「3・12」というのは誤植ではなくて、放射能拡散が始まった日付ということで、「3・11ではない、3・12の話をしよう」というコンセプトで話しました。大阪の杉村昌昭さんの仕事場で、年末年始二日間かけて収録したロングインタビューです。でもインタビューだけでは分量が足りないので、かなり加筆して、この3週間は加筆分を書くためにこもっていました。
今週末には印刷所に入れるということなので、順調にいけば3月初旬に配本になると思います。
では、冒頭のさわりだけ公開。
3月に以文社から発売します。
書名は『3・12の思想』。
「3・12」というのは誤植ではなくて、放射能拡散が始まった日付ということで、「3・11ではない、3・12の話をしよう」というコンセプトで話しました。大阪の杉村昌昭さんの仕事場で、年末年始二日間かけて収録したロングインタビューです。でもインタビューだけでは分量が足りないので、かなり加筆して、この3週間は加筆分を書くためにこもっていました。
今週末には印刷所に入れるということなので、順調にいけば3月初旬に配本になると思います。
では、冒頭のさわりだけ公開。
はじめに
二〇一一年三月一二日、私は娘を連れて、東京をあとにしました。 前日の三月一一日、東日本大震災——津波の恐るべき被害が徐々に明らかになっていくなか、夕方のNHKのニュースで「福島第一原発が電源を失い冷却機能を喪失した」と報道されます。この報道に接して、私は、これはまずいことになるなあと思いました。おそらく原子炉容器は破壊されるだろう、と。そこでまず近所の薬局に行きました。安定ヨウ素剤が必要だと考えたのです。しかしまったく不勉強だったんですが、薬局では安定ヨウ素剤というものは売っていないんですね。しかたがないので、うがい薬のイソジンで代用することにしました。それから私は一晩考えて、翌朝、愛知県の実家に娘を避難させることにしました。 私は放射性物質の放出を予想し、十二日の午前の段階で東京からの退避を決めました。ただ正直に言うと、私はもう少し軽い事故になるだろうと思っていたのです。二〇〇七年に中越沖地震が起きたとき、東京電力・柏崎刈羽原子力発電所は火災を起こしました。あのときのような状態になるのではないかと予想したのです。福島第一原発は一日か数日か一時的に放射性物質を放出し、東京にも多少の放射性ヨウ素が到達するだろう、と。もちろん、多少とはいえ放射性ヨウ素を子供に浴びさせてしまうわけにはいかないので、娘だけ一時的に避難させることにしたのです。朝、電車はダイヤが乱れて遅れていましたが、なんとか昼前に東京駅にたどりつきました。東京から名古屋までは新幹線が順調に動いていました。昼過ぎには名古屋駅に到着して、実家の母親に娘を預けて、そうして私は東京に戻るつもりだったのです。ところが、私が東京に戻ろうとすると娘がむずがるわけです。心細かったんでしょうね。前日の地震のショックもあったので、一人で残されるのは嫌だったんでしょう。そういうわけでちょっと時間をかけて娘に事情を話して、諭しているときに、テレビ画面のなかで原発が爆発したんです。
十二日の午後です。もう、声も出ないほど驚きました。建屋が爆発したんです。建屋というのは、国や電力会社が言ってきた「五重の壁」の最後の壁です。どんな深刻な事故が起きても最後は厚いコンクリートの壁で閉じ込めるんだと言ってきた、その最後の壁が、木っ端みじんに吹き飛んでしまった。こうなると、放出なんていうレベルではない。終わったな、と思いました。
この一連の出来事を人々は「三・一一」という日付で呼んでいます。
そうなんです。いろんな出来事が、ほんの一日のあいだに、怒涛のように押し寄せてきた日です。あの日自分がどこにいて、何時にどこに行って、何を考え、誰と何を話し合ったかということを、いまでも詳細におぼえています。そのときに受けた衝撃や、その日の判断が、自分の人生にとって非常に重要な転機になった。そういう決定的な日です。
しかし、どうなんでしょうか。ここで、巨大地震から放射能拡散まですべてをまとめて「三・一一」と呼んでしまって、それでよいのでしょうか。ここに私はなにか乱暴なものを感じてもいます。一口に「三・一一」というだけではすまないのではないか。「三・一一」と言ってしまったときに、何か大事なものをとりこぼしてしまうのではないか。もう少していねいに、じっくりと考えようじゃないか、と。
放射能を拡散させた東京電力は、なにからなにまで津波のせいにするかもしれません。しかしそれは火事場泥棒というものであって、本当は、問題となる事柄をもっと厳密に、慎重に、きりわけていかなくてはならないのです。私たちを悩ませている諸問題を、どこからどこまでを、問題として把握していくのか。問題をどのようなものとして捉えていくのか。そうした議論のベースとなる見取り図を、正確に捉えておきたい。
そう考えるなかで、あるとき「三・一二」という日付が頭に浮かんだのです。私たちにとって本当に決定的であったのは、三月一二日なのではないか、と。
今回私が話すのは、「三・一一」ではない、「三・一二」の話をしようと思います。
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