活動の合間に昔の映画を観ている。
1978年公開の『ゾンビ』(dawn of the dead)は、何度みても飽きない。
この作品のヒットによって、ゾンビ映画が多数つくられ、一つのジャンルを形成するまでになっているのだが、やはり、78年の『ゾンビ』が最高傑作だと思う。
最近のゾンビは、たんなるモンスター映画になってしまっていて、ゾンビという存在がもつ哀しみが描かれていない。ゾンビが走ったり道具を使ったりするというのは、最低だ。何もわかっていない。ゾンビを走らせてはいけない。ゾンビは、走る活力を失っているからゾンビなのであって、だから恐ろしいのだ。「ゾンビは走れない」という設定は、この作品が描こうとする状況にとって絶対に必要なものだ。
『ゾンビ』は人間の危機と悲哀の物語である。ある日突然死者の世界が始まろうとするときに(dawn of the dead)、かつて信じられていた人間の尊厳が失われてしまうという危機と、悲哀である。これは歩く死者から身を護るというだけの映画ではない。ここで描かれているのは、人間の信念が崩壊し無効化されていくイデオロギーの危機である。
人間はゾンビの脳を破壊して殺さなくてはならない。ゾンビはただ生者を食らうだけの存在だからである。ゾンビは人間を食らうことで新たなゾンビを生み出し、増殖していく。彼らによって人間の社会活動は崩壊させられてしまう。生産も、消費も、交通も通貨も崩壊していく。こうした状況で人間に残された唯一の課題は、ゾンビを殺戮し、生存のための物資を確保することだ。
ショッピングモールに辿り着いた人間は、バリケードでモールを封鎖し、店内のゾンビを皆殺しにし、建物と物資を占有する。陳列されている食品と水、おびただしい量の商品は、すべてタダで手に入る。彼らは商品経済からも労働からも解放された世界を手に入れる。いや、彼らだけではない。ゾンビが充満する世界では、すべての人間が労働から解放される。人間に残された唯一の労働は、尽きることなく現れるゾンビを殺戮することだ。
終わりのない殺戮によって人間は正気を失っていく。だが、それだけではない。本当の危機は、人間のもつ活力と英知が殺戮と排除に使われる以外にないという状況である。建物を占拠した人間も、駐車場を徘徊するゾンビも、どちらも生産的な労働を失っている。ここで描かれているのは、労働から解放されたディストピアであり、そのイデオロギー的危機だ。
ゾンビは走ることができない、つまり、労働を担うための活力と速度を失っている。その姿は、ゾンビと対峙する人間たちの不能状態を鏡映しにしたものだ。ここで暗示されるのは、産業労働が自動化され大量の失業者がはきだされ、「ポスト工業化社会」に向かっていく時代の、イデオロギー的危機である。
何も買うことができないのにショッピングモールに蝟集するゾンビの姿に、私たちは感情移入する。大衆消費社会の時代とは、誰もが失業しうる時代であり、産業労働者の地位が崩れはじめた時代だ。この転換期の悲哀を描くために、ゾンビは走れないのである。
人々の意図に反して労働が廃絶された世界で、それでもショッピングモールは煌々と光を放ちつづける。そのエネルギー源は、人間の生産活動によるものではない。ハリスバーグの原子力発電所から電力が供給されるのだ。
石炭の時代、炭鉱労働者たちが構築していった民主主義と尊厳は、原子力の時代に過去のものになった。