2012年11月30日金曜日

「復興」がもたらす低開発



 福島県の児童の健康調査が行われている。ここで注目したいのは、福島県では児童の尿検査が行われていなかったことだ。この件について福島県がおこなった釈明は、放射線濃度を検査するゲルマニウム半導体検出器は福島産牛肉の検査のためにふさがっていて使えなかった、というものだ。福島県の検査機関は、児童の健康状態よりも、牛肉が商品として流通できるかどうかを優先していたのである。

 このことを福島県行政の不備として捉えるのは間違いである。これはたまたま起きてしまった行政上の不備や過失ではなくて、「復興」にあらかじめ書きこまれた政策判断である。なぜなら政府がとりくむ「復興」とは、福島県民一般にたいする救済ではないからである。政府にとって重要なのは商品経済(金融経済)の救済であって、児童の生存権など二の次なのだ。「復興」政策による事業投資が、福島県民すべてに救済の手を差し伸べると考えるのは、まったくお花畑の発想である。それは、IMFと世界銀行が困窮したアフリカ人を救済すると考えるのと同じぐらい馬鹿げたことだ。
「復興」政策は、福島県の児童を救済するのではなく、重大な負荷をかける。尿検査はできません、というかたちで。「福島は元気です」と言うために。これは逆説ではない。開発投資が低開発をもたらすということは、第三世界のいくつもの事例で報告されてきたことだ。この一般的な経済法則からみて、「復興」政策の標的となった福島県民は今後ますます困窮させられ、権利を剥奪されていくだろう。

「食べて応援」とか言ってる阿呆は、自分の食べた福島産牛肉が、どのような犠牲のうえにつくられたものか、よく考えてみるがいい。おまえらはこどもの生き血を吸ったのだ。

2012年11月29日木曜日

二つの共感、二つの社会




 放射線防護活動をめぐって、とくに農産物等の食品流通をめぐっては、しばしば生産者と消費者とが対立する構図が持ち出されてきた。
つまり、「復興」政策とそれに追従する生産者・流通業者は、汚染地域での生産活動維持のために、消費者に汚染食品を売ろうとする。東北・関東の一次産業のために「食べて応援」というやつだ。食品流通のために検査基準は甘くされ、「少しぐらいなら大丈夫」というような「放射能安全神話」に傾倒する。
対して消費者は、関東・東北・中部地方の食品を排除することに専念している。私のように「ゼロベクレル」を要求するわけだ。
復興派とゼロベクレル派は、原子力政策への怒りという点では共通しているのだが、放射線防護活動においては対立する。両者の対立は偽の対立であるというのはそのとおりかもしれないが、それはずっと後になってから言えることだ。いま放射線防護に臨むとき、汚染物質の流通にどういう態度をとるかを選ばなくてはならない。市民活動と社会運動は、この対立のどちらにつくのかではっきりと色分けされることになる。
共感の二つの対象がある。被害にあった生産者に対する共感、そして、汚染のつけを押し付けられる消費者への共感。
二つの共感をわけているのは、性別役割分業に基づくものだという説がある。つまり、身体と生存にたいする責任意識を持たない男性と、身体と生存に責任意識をもつ女性との違いだ。これは非常に大きな要素だ。(この点については、『現代思想』7月号「被曝不平等論」で触れた)。しかし、ここではもう少し別の角度で問題を再構成してみたい。

放射線防護活動は、何かを放棄しなくてはならない。生産活動と身体の安全のどちらをも補償することは困難で、汚染地域の住民はどちらかを放棄するという選択を迫られる。日本社会は、汚染地域の住民に何かを放棄することを要求することになる。
どちらを放棄しても死者が出る。土地を奪われて経済的にも社会的にも追い詰められた人々は、そのうちの何人かを亡くすことになる。土地に残り、放射性物質を浴び続ける生活を続けたとき、やはり何人かを亡くすことになる。どちらの選択がより多くの死者を出してしまうかを天秤にかけて考えるという問題ではない。これは、究極的には正義に関わる問題である。今後の社会にとって誰のどのような権利が擁護されるべきか、社会は誰のための社会であるべきか、という問題である。

二つの共感はそれぞれ、誰のどのような権利を擁護しようとしているのか。生産者への共感とは、生産活動の諸権利、財産権、小地主への共感である。消費者への共感とは、生存権と自由への共感である。小地主と、嫁。どちらの切実さに共感するのか。制度的に構築された経済資本・社会資本の諸権利を護持したいと考えるのか、それとも、制度から排除された自由な者、ただ生きている者(プロレタリアート)の生存を護持したいのか。
放射線防護における二つの共感は、小地主・小ブルジョアジーの諸権利に共感するのか、自由プロレタリアートの生存のはかなさに共感するのかという、階級意識のとりかたの問題である。それは放射能拡散後の社会を、誰のための社会にするのかというビジョンに直結している。
だから、ゼロベクレルを要求する消費者を、たんなる「エゴイスト」と捉えるべきではない。彼女たちの要求は、現存の社会諸制度に浸透した小ブル的傾向への憎悪を潜在させているのである。


2012年11月28日水曜日

「連合」の解体・再編へ




滋賀県の嘉田知事が、元民主党議員をまとめ、「日本未来の党」をたちあげた。次の選挙の争点は、「原子力政策の是非」一色になるだろう。

この選挙に際して、「連合」が分裂することは明らかだ。いや、分裂させなくてはならない。「連合」に対するネガティブキャンペーンを繰り返し、可能なかぎり切り崩していくべきだ。

「連合」は労働者・市民すべてに敵対した、と繰り返し言おう。

2012年11月25日日曜日

人間バーベキュー




民主党の宣伝カーが、何者かによって焼かれた。
何者によるものかは判明していないし、その動機もわかっていないが、私はこの攻撃を支持する。

少し以前であったら、このような攻撃は、「民主政治を脅かす政治テロ」と弾劾されたかもしれない。しかし放射能拡散後の現在では、そういう声はあがらない。もしそういう声があがっても、誰も真剣にとりあわない。なぜなら、すでにこの2年弱のあいだ、政府によるテロリズムが始まってしまっているからである。
 東北・関東では、生きた人間が静かに焼かれている。外部からはガンマ線に焼かれ、内部からはアルファ線とベータ線を撃ちこまれている。

生きたこどもを炙る人間バーベキューだ。

 車を燃やすぐらい、何の罪にもならない。

2012年11月24日土曜日

被曝と性選択




 年明けに『被曝社会年報』(仮題)というアンソロジーを出版する。
現在の「被曝する/させる社会」を考えるということで、30代の書き手を中心に声をかけて論集としてまとめる。もう半分ほど原稿が集まった。版元は、『ゼロベクレル派宣言』でもお世話になった新評論。

 この論集で私は、「受忍・否認・錯覚 ―― 閾値仮説の何が問題か」という文章を出した。
ここでまず確認したのは、被曝線量というものは誰も正確に知ることができないということだ。現在の測定技術では、自分がどれだけ被曝したのかを知る手だてがない。たとえばヨウ素131は、短時間に崩壊して大きな被曝線量を与えるものだが、これは放出から80日後には消えてしまっているので測定できない。ヨウ素131をどれだけ浴びたか(吸い込んだか)は、福島第一の推定放出量と、地域への推定流入量と、各々の行動記録から推定するしかない。また、ストロンチウムは体内に蓄積されて残っているが、これはγ線を放出しない核種だから、ホールボディカウンタのようなシンチレータで測ってもなにもわからない。
放射性物質には、ヨウ素131のような「消えた核種」と、ストロンチウムのような「見えない核種」があって、それらもろもろあわせたトータルの被曝線量は、よくわからない。それらは実測できないため、あやふやな推量に委ねるしかないのである。

 被曝線量が正確にわからないということは、言い換えれば、ある人が被曝したかどうかを正確に判定することはできない、ということだ。これは完全に推測の領域に属している。その推測の領域で、各々の行動記録が反芻される。20113月にどこにいたか、4月にどこにいたか、汚染食品をどれだけ排除したか、居住地域、親の階層、職種やスポーツなどの慣習行動、そして病歴。私たちは自分自身の身体に、疑念を抱きながら生きることになる。

 本文では書かなかったことだが、今後予想される問題は、結婚差別と非婚化である。現在の20代、10代、その次の世代、と代を重ねるごとに、被曝者の結婚は困難になっていくだろう。これまでのような無邪気さは失われ、不安と差別が増大する。それは表立って口にされることではない。水面下で進行するものだ。性選択と再生産の文化は、ほんの少しだけ、しかし決定的に、書き換えられてしまうことになる。
 
 


2012年11月21日水曜日

さかもと未明の被曝症状



テレビ番組などでコメンテーターとしても活躍するマンガ家のさかもと未明さん(47)が雑誌「Voice」に寄せた「再生JALの心意気」と題した記事が、ネット上で物議を醸しているそう。
同記事は、さかもとさんが今夏に搭乗したJAL国内線の飛行機の中で起きた出来事を記したもの。記事によれば、彼女は機内に同乗していた1歳くらいの乳 児が泣き叫んでいたことに耐えられず「ブチ切れて」しまい、 「もうやだ、降りる、飛び降りる!」と、着陸準備中にもかかわらず席を立ち、出口に向かって走り始めたのだそう。そしてさらに、乳児の母親に「お母さん、 初めての飛行機なら仕方がないけれど、あなたのお子さんは、もう少し大きくなるまで、飛行機に乗せてはいけません。赤ちゃんだから何でも許されるというわけではないと思います!」と告げたとのこと。

(以下略)


11月20日 excite.ニュース 


http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20121120/Hotmama_p-46187.html


 感情の抑制が効かなくなるのは、脳の被曝症状である。
 放射線防護をおろそかにするとこういう人間になってしまう(個体差あり)。
 ゼロベクレル派の人たちを、「ヒステリー」とか「放射脳」とか言って馬鹿にしていると、自分がヒステリーになってしまうというブーメラン現象。

 これは他人事ではない。会議やSNSなどで感情的になっている人はいないか、自分はキレやすくなっていないか、注意しよう。

補足
 ここで誤解を避けるために説明的に書くが、私はさかもと未明の行状を非難しているのではない。逆である。この件について、私は彼女を擁護したいと思う。
 この一件が、もしも放射能拡散事件より前に起きていたら、私は大喜びで、鬼の首を取ったように、さかもとの反社会的人格を非難しただろう。しかし、放射能拡散事件が起きて以後は、そういう単純な図式にはならない。なぜなら、彼女も、私も、そしてこれを読んでいる多くの人も、みな被曝しているからである。
 人体に侵入した放射性物質は、さまざまな臓器にはいりこみ、機能を破壊していく。被曝症状は、その人間のもっとも弱い部分から噴出する。甲状腺、心臓、腎臓、すい臓、膀胱、生殖器、皮膚、そして、脳。
 おそらく脳にあらわれる被曝症状こそが、もっとも理解されず、孤立をまねく被害である。例えば「原爆ぶらぶら病」は、病気ではなく、働く意志のない怠け者であるとして、人格的な問題として断罪されてしまう。そうして被爆者たちは社会から排除されてしまう。
 だから、さかもと未明のやった醜態について言うと、これをもっぱら彼女の人格的な問題として語るのは、間違いなのである。放射能汚染という背景を考慮せずになされる彼女への非難は、もっとも見えにくい被曝者差別になり、社会的排除になる。
 彼女のやった醜態は、脳という臓器にあらわれた被曝症状なのかもしれない、と想像してみるべきなのだ。

2012年11月17日土曜日

いわゆる「第三極」について




東京都政を放り出した石原慎太郎が、極右平沼と共闘し、いわゆる「第三極」の合流を呼びかけている。
与党の民主党、最大野党の自民党、そしてそのどちらでもない「第三極」の形成ということなのだろうが、ちょっとおかしい。
現状の議席数や政治主張からみて、第三極と呼びうるのは「国民の生活が第一」だろう。常識的に考えて。
脱原発・反TPPを要求する「国民の生活が第一」が、「みどりの風」や社民党や「新党大地・真民主」とブロックを形成し、さらに課題によって共産党と連携するというのが、普通に考える意味での第三極だ。
石原慎太郎のような原発も賛成、TPPも賛成というチンピラ右翼が、よくも第三極を自称するものだ。こいつはたんに自民党の第五列にすぎない。「第三極」を自称すること自体、悪質なデマゴギーだ。

というような初歩的なツッコミもなく、ただ石原のホラ話を垂れ流しているだけの政治報道とは何なのか。東京の記者たちはもうすっかり脳が被曝してしまったのか。そうして福島も放射能汚染も忘却されてしまうのか。

2012年11月4日日曜日

国連人権理事会が勧告


 
「福島住民の健康の権利守れ」 国連人権理事会が勧告
 【ジュネーブ=前川浩之】日本の人権政策について、各国が質問や勧告(提案)ができる国連人権理事会の日本審査が終わり、2日、各国による計174の勧告をまとめた報告書が採択された。福島第一原発事故について、住民の健康の権利を擁護するよう求める勧告が盛り込まれた。
 普遍的定期審査(UPR)と呼ばれ、加盟国すべてに回る。日本は2008年以来2回目で、討論には79カ国が参加。法的拘束力はないが、日本は来年3月までに勧告を受け入れるかどうかを報告するよう求められる。
 福島事故をめぐり、オーストリアだけが「福島の住民を放射能の危険から守るためのすべての方策をとる」よう求めた。日本は、11月中に健康の権利に関する国連の特別報告者の調査を受け入れると表明した。
(11月3日 朝日新聞デジタル)

 今次の放射能拡散事件について、国連人権理事会は、住民の健康の権利をまもるよう日本政府に勧告した。政府は今月中に国連の調査を受け入れるとしている。
 これがどんな成果を上げるのかは未知数だが、住民の健康をおびやかす人権侵害事件が起きているということは、もう議論の余地はないだろう。
 この間、「福島の再生なくして日本の再生なし」としてきた復興政策が、重大な人権侵害事件であったことがはっきりする。また、政府の「食べて応援」キャンペーンに加担して、汚染食品を流通させ、生産させ、消費させてきた生活協同組合は、重大な人権侵害行為を行ったのだということがはっきりする。
 自分たちの経済的事情から住民の健康を犠牲にしてきた者を、名指しする段階にはいる。