今年に入ってから新しい参加者が増えてきたが、今回は新たに3人の学部生が参加してくれた。飲み会が楽しい。
さて今年二回目の海賊研究会は、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』(以文社)について議論した。学部生Y君がアントニオ・ネグリを勉強しているということで、レジュメを担当してもらった。そして、海賊研がいよいよネグリをやるってことで、早稲田大学博士課程の仲田くんが緊急参戦。仲田くんはいま栗原くん・佐々木さんと一緒に、ネグリとカザリーノの討議(『コモンを讃えて』)を翻訳しているそうで、今年の春に日本語版を出版する予定。約一年ずっと海賊ばっかり考えてきた我々と、一年以上もネグリの翻訳に取り組んできた仲田くんとで、なかなか鋭角な議論になったと思う。録音しておけばよかった。
で、この日の議論を私なりに要約すると、マルチチュードと近代海賊を類比させることが妥当であるかどうか、その類比から何が得られるのか、何を得ようとしているのか、だ。
仲田くんが厳密に指摘するように、マルチチュードとは、フォーディズムからポストフォーディズムへ、物質的生産から非物質的生産へとシフトした、後期資本主義に対応した概念(対応して定義すべき概念)である。かたや我々が研究する近代海賊は、植民地主義の本源的蓄積過程に対応して現れたものであって、植民地主義と〈帝国〉というベースの違いを無視してよいのか。マルチチュードと海賊をイコールで結ぶことは、マルチチュードと産業労働者(プロレタリアート)をイコールで結ぶのと同様の、みそも糞も一緒の議論になってしまうのではないか。なるほどまっとうな指摘である。
廣飯研究員の回答
私からの回答はちょっと後回しにして、この日おもしろかったのは、廣飯(ひろいい)くんの回答である。どういう流れでそうなったのかは忘れてしまったが、廣飯研究員が出したこの日最高のパンチラインは、「ハーバーマス的な公共圏の議論ではない、まったく別の公共性やコモンの議論を始めること」「ハーバーマスにかわる、海賊的公共圏の思想」。この発言にはちょっと驚いた。彼ははっきりとは言わなかったが、私が勝手に先回りして要約すれば、「ハーバーマス的な公共圏の議論」とは、すなわち超国家的な〈帝国〉の一つの現れである、ということだ。ものすごく卑近な例で言えば、たとえばアメリカのサンデルセンセーの講義録が流行したり容認されたりという現象も、〈帝国〉だ。そういう諸々のくだらないことにムズムズしていたのだろう。廣飯研究員とは一年近くつきあってきたが、彼がこういうところに力点を置いているとは知らなかった。
非物質的生産と海賊
さて、私からの回答。
まず、マルチチュードは非物質的生産が商品経済の中心に位置するようになった時代の生産者である、という点。ここで私が近代海賊を参照するのは、彼らが物質的生産ではない行為(強盗、誘拐、詐欺、密貿易、狩猟)によって生計をたてていたところにある。物質的生産から排除され海賊化した者たちは、では何も生産しなかったのだろうか。そこに非物質的生産がなかっただろうか。近代海賊の非物質的生産の例として私が挙げたのは、ファッションである。人間が伝統や位階制秩序から離れて自分が着たいものを自分が着たいように着るという行為は近代の発明なのだが(そして現代では商品経済の中心を形成するのだが)、近代海賊は近代ファッション革命の前史を形成している。彼らは、身分の高い者のために作られた服を強奪し、自分が着たいように勝手に着てしまう。上級将校の軍服をまとうルンペンだ。美からもっとも遠いはずのならず者が、位階制秩序ではとうてい許されない別の美を実践し、別の美意識をたちあげてしまう。近代海賊はただ物質としての服を強奪しただけでなく、服によって表現される秩序をも盗んでいったのだ。この海賊的人文主義の実践は、位階制秩序に回帰する〈帝国〉の時代に、重要な示唆を与えるものだと思う。
ポストフォーディズムと海賊研究
次に、フォーディズムからポストフォーディズムへの移行を経てマルチチュードが登場する、という点。これに対してはちょっと反則ぎみの回答なのだが、ポストフォーディズムの時代であるからこそ、このような海賊研究が可能になったということだ。
「近代」の、フォーディズムの、物質的生産の時代(工業化時代)のパラダイムが終わろうとしている現在、我々の海賊研究はその転換のなかで始まっている。私がこのことを説明するための補助線として提起したのは、ロックカルチャーである。我々の海賊研究は、意識するにしろしないにしろ、ポストフォーディズム期のロックカルチャーを経由している。ロックカルチャーのレンズを通して、ロック的な視座から、遡及的に海賊を再構成しているのだ。それは例えばハリウッド映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』でジョニーデップたちが演じている海賊は、明らかにロック的な(あるいはパンク的な)パースペクティブで再構成された海賊像である。私が『パイレーツ・オブ・カリビアン』に興奮し、それ以前に作られた海賊映画(『海賊キッド』等)にまったく興奮しないのは、つまりフォーディズム期の海賊映画がつまらないと感じるのは、海賊を描く視点がフォーディズムだからである。これに対して、ジョニーデップの演技演出は、明らかにロック的で、ポストフォーディズム的である。そしてそうした視点をとってはじめて見えてくる海賊の姿がある。
こうした動きはおそらく1980年代にもあって、たとえば網野善彦氏の海からみる日本史研究というのは、網野氏自身は国際共産主義運動(プロレタリアに祖国なし)という50年代的背景があって書かれたのかもしれないが、その読者は〈68年〉以後のやんちゃなロックカルチャーの世代にひろく受け入れられたのだ。あ、また言い過ぎた。最後の段は流してください。
おまけ
追記
言うまでもないことだが、ここでロックカルチャーというのはジョン・ロックのことではなくて、第二次大戦後に英米圏ではじまった対抗文化のことである。セックスドラッグアンドロックンロールだ。それは資本主義によって制度化された標準的なプロテスタンティズムに対してプロテストした、ポスト・プロテスタンティズムと呼びうる思潮である。ロックカルチャーはプロテスタンティズムの価値を転倒させる。勤労の美徳をコケにし、倹約を罵り、契約や期待を裏切り、淫乱で、時計を持たない。宗派信徒団(セクト)を形成するのではなく、部族(バンド)を形成する。
私なんかはこの思潮の影響を強く受けていて、フランスの大哲学者であるドゥルーズなんかもそういうロック的な基準でシンパシーをもって読んでしまう。ドゥルーズはインタビュー嫌いで有名で、「議論することになんか何の意味もない」と言っちゃうのだが(ちょ、哲学者がそれを言っちゃ)ドゥルーズのこういうところが痛快。どこのミュージシャンだよ、と。フランスにはマオ派とかラカン派とかいろいろと信徒団が形成されているらしいのだが、ドゥルーズが素晴らしいのは、「ドゥルーズ派」を形成せず、ただ「俺は犬が嫌い、犬と人間は最低の動物」というような意味不明だが心にのこるパンチラインを言いたい放題言って死んだ。ネグリにも似たところがあって、真面目な人の感情を逆撫でするような憎まれ口をわざわざ叩いて、自分から孤立するような振るまいが多数。「ネグリ派」が形成されないように必死になってるのだろう。
2011年1月31日月曜日
2011年1月25日火曜日
わがANTIFA
ひさしぶりにネグリ/ハートの『〈帝国〉』を読んでいる。やっぱいいねネグリは。いま、「1−3 〈帝国〉内部のオルタナティブ」を読んでいたのだが、実にいい。ちょっと長いけど引用する。
ーーーーーーーーー
1960年代から現在にいたるまで、長期間にわたって共産主義者・社会主義者・リベラル左翼を襲いつづけてきた危機の中で、批判的思考の大半は、資本主義の発達した支配諸国においても従属諸国においても、しばしば闘争のローカル化を政治的分析の足場にしながら、社会諸主体のアイデンティティや、国民的・地域的な諸集団のアイデンティティにもとづく抵抗の現場を再構成しようと試みてきた。そのような議論は、ときとして「場所に根ざした」運動ないし政治という見地から組み立てられたものであり、そこでは、場所(アイデンティティまたは根拠地として構想された)の境界が、グローバル・ネットワークの差異のない同質的な空間に対抗するものとして措定されているのである。
(中略)
その立場(ローカルなものに固執する立場)が間違ったものであるのは、何よりもまず、問題の提起の仕方がまずいからだ。問題を特長づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。
(中略)
問題として取り上げる必要があるのは、まさにローカル性の生産、すなわち、ローカルなものとして理解される諸々の差異とアイデンティティを創出し、再創出している社会的諸機械なのである。ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地からのみ理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。
(中略)
ローカルな抵抗という戦略は敵を誤認し、それによって敵を隠蔽してしまうのである。敵として指し示されるべきものは、私たちが〈帝国〉と呼ぶ、グローバルな諸関係からなる特定の体制にほかならない。もっと重要なことを付け加えるなら、ローカル性を防衛しようとする戦略が有害なのは、それが〈帝国〉の内部に実在する現実的なオルタナティブと解放への潜勢力を曖昧にしたり、ときには否定したりさえするものであるからなのだ。
(67,68)
ーーーーーーーーーーー
以上、引用おわり。
で、「ローカルな抵抗という戦略」は東京ではほとんどみられないのだが、それでも少し思い当たるフシはあって、「アイデンティティ」という用語を無造作にふりまわす類の反差別運動(の残滓)というのがある。うざいんだよね実際。おまえのくちぶりこそが自民族中心主義だよと注意しても、言われた本人は「自分は反差別」と信じきっているから手に負えない。民族問題や差別問題を考えるのはそいつの勝手だし大事なことかもしれないが、なんか妙にえらそうに左翼ヅラかましてるし、かといって矢面に立って闘うでもなし、人の背中でウジウジといいわけがましい内容を並べて士気を削いでくれる。傷つきやすくてあつかましい人間というのはいるものだが、そういう奴に「アイデンティティ」なんてムヅカしい言葉を教えたのは誰だ。どうすんだ、アレ。なんとかしてくれ。
と、いつになく愚痴っぽいことを書いてしまったが、わがANTIFAは、「アイデンティティ」みたいな学生くさい用語は使わない。そんな概念が差別をはね返す力になるとも思わない。あ、「わがANTIFA」というのは「俺のANTIFA」ってことね。この際はっきり言っておくが、差別と闘うときに、いわゆる「ポストコロニアル」風の言説を私が利用しないのは、それを知らないからじゃないからね。役に立たないと思ってるんだ。やめろとは言わないが、それはそれ、その人の趣味みたいなもので(悪趣味)、差別と闘う運動には関わりのないことだと考えている。
さて、話は冒頭にもどるが、なぜいま私がネグリを読み返しているかというと、次回の海賊研究会、『〈帝国〉』をやります。
1月29日(土) 15時〜 カフェ・ラバンデリアに集合。
おまけ(本文とは関係ありません)
ーーーーーーーーー
1960年代から現在にいたるまで、長期間にわたって共産主義者・社会主義者・リベラル左翼を襲いつづけてきた危機の中で、批判的思考の大半は、資本主義の発達した支配諸国においても従属諸国においても、しばしば闘争のローカル化を政治的分析の足場にしながら、社会諸主体のアイデンティティや、国民的・地域的な諸集団のアイデンティティにもとづく抵抗の現場を再構成しようと試みてきた。そのような議論は、ときとして「場所に根ざした」運動ないし政治という見地から組み立てられたものであり、そこでは、場所(アイデンティティまたは根拠地として構想された)の境界が、グローバル・ネットワークの差異のない同質的な空間に対抗するものとして措定されているのである。
(中略)
その立場(ローカルなものに固執する立場)が間違ったものであるのは、何よりもまず、問題の提起の仕方がまずいからだ。問題を特長づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。
(中略)
問題として取り上げる必要があるのは、まさにローカル性の生産、すなわち、ローカルなものとして理解される諸々の差異とアイデンティティを創出し、再創出している社会的諸機械なのである。ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地からのみ理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。
(中略)
ローカルな抵抗という戦略は敵を誤認し、それによって敵を隠蔽してしまうのである。敵として指し示されるべきものは、私たちが〈帝国〉と呼ぶ、グローバルな諸関係からなる特定の体制にほかならない。もっと重要なことを付け加えるなら、ローカル性を防衛しようとする戦略が有害なのは、それが〈帝国〉の内部に実在する現実的なオルタナティブと解放への潜勢力を曖昧にしたり、ときには否定したりさえするものであるからなのだ。
(67,68)
ーーーーーーーーーーー
以上、引用おわり。
で、「ローカルな抵抗という戦略」は東京ではほとんどみられないのだが、それでも少し思い当たるフシはあって、「アイデンティティ」という用語を無造作にふりまわす類の反差別運動(の残滓)というのがある。うざいんだよね実際。おまえのくちぶりこそが自民族中心主義だよと注意しても、言われた本人は「自分は反差別」と信じきっているから手に負えない。民族問題や差別問題を考えるのはそいつの勝手だし大事なことかもしれないが、なんか妙にえらそうに左翼ヅラかましてるし、かといって矢面に立って闘うでもなし、人の背中でウジウジといいわけがましい内容を並べて士気を削いでくれる。傷つきやすくてあつかましい人間というのはいるものだが、そういう奴に「アイデンティティ」なんてムヅカしい言葉を教えたのは誰だ。どうすんだ、アレ。なんとかしてくれ。
と、いつになく愚痴っぽいことを書いてしまったが、わがANTIFAは、「アイデンティティ」みたいな学生くさい用語は使わない。そんな概念が差別をはね返す力になるとも思わない。あ、「わがANTIFA」というのは「俺のANTIFA」ってことね。この際はっきり言っておくが、差別と闘うときに、いわゆる「ポストコロニアル」風の言説を私が利用しないのは、それを知らないからじゃないからね。役に立たないと思ってるんだ。やめろとは言わないが、それはそれ、その人の趣味みたいなもので(悪趣味)、差別と闘う運動には関わりのないことだと考えている。
さて、話は冒頭にもどるが、なぜいま私がネグリを読み返しているかというと、次回の海賊研究会、『〈帝国〉』をやります。
1月29日(土) 15時〜 カフェ・ラバンデリアに集合。
おまけ(本文とは関係ありません)
2011年1月22日土曜日
黒い彗星★救援会の大集会
直前ですが、次の日曜日、集会で司会をやります。
お誘い合わせのうえご来場ください。
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「12.4 黒い彗星★救援会」報告集会
ANTIFA LA COMETA NEGRA
▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲
日時 ☆ 2011年1月23日(sun)18:00〜20:30
会場 ☆ 渋谷区神宮前隠田区民会館 1F集会場 http://www.ieepa.com/onden.htm
(原宿駅6分、千代田線・副都心線 明治神宮前駅2分)
2010年12月4日渋谷マルイシティ前にて排外主義デモに非暴力で単身抗議した「黒い彗星」。西村修平らレイシスト集団にフルボッコされた上に渋谷署は「黒い彗星」を不当逮捕(怒)。異例の早期釈放・不起訴をかちとったものの「黒い彗星」への人権侵害、誹謗中傷はいまも続いています。「12.4 黒い彗星★救援会」は「黒い彗星」こと崔檀悦(チェ・ダンヨル)を断固支持します。排外主義が勢いを増す日本社会の縮図といえる本事件を改めて検証し「黒い彗星」の完全無罪を訴えます。また、朝鮮民主主義人民共和国への制裁政治や朝鮮学校の「無償化」排除といった文脈からも「12.4渋谷」について話し合いましょう。
プログラム ☆ 救援会より事件概要・映像検証・ご協力へのお礼、黒い彗星&弁護士よりメッセージ、激励トーク ほか
出演 ☆ 崔檀悦(チェ・ダンヨル)、萩尾健太弁護士(はぎお・けんた)、pippo、渋谷望(しぶや・のぞむ)、米津篤八(よねづ・とくや)、柏崎正憲(かしわざき・まさのり)、常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)
司会 ☆ 矢部史郎(やぶ・しろう)
参加費 ☆ 無料
撮影 ☆ 生中継します http://www.ustream.tv/user/yanagibashimishio
予備 http://www.ustream.tv/channel/antifalacometanegra-in-japan
会場内での写真撮影希望者は受付時にお申し込みください
その他 ☆ 受付での必要事項の記入をお願いいたします
取材につきましてはなるべく事前にメールにてお申し込みください。別途調整いたします
警察関係者の入場、会場内・外での集会妨害行為、無断撮影は一切おことわりします
主催 ☆「12.4 黒い彗星★救援会」 schwarzerkomet<@>gmail.com ※< > 外してください
ブログ:http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/
おまけ
--------------------
追記
もろもろ告知するのを忘れていたのだが、「12・4黒い彗星★救援会」では、国際連帯声明を発表している。
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110115/1295099460
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371
ぜひ賛同連帯表明を。
お誘い合わせのうえご来場ください。
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「12.4 黒い彗星★救援会」報告集会
ANTIFA LA COMETA NEGRA
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日時 ☆ 2011年1月23日(sun)18:00〜20:30
会場 ☆ 渋谷区神宮前隠田区民会館 1F集会場 http://www.ieepa.com/onden.htm
(原宿駅6分、千代田線・副都心線 明治神宮前駅2分)
2010年12月4日渋谷マルイシティ前にて排外主義デモに非暴力で単身抗議した「黒い彗星」。西村修平らレイシスト集団にフルボッコされた上に渋谷署は「黒い彗星」を不当逮捕(怒)。異例の早期釈放・不起訴をかちとったものの「黒い彗星」への人権侵害、誹謗中傷はいまも続いています。「12.4 黒い彗星★救援会」は「黒い彗星」こと崔檀悦(チェ・ダンヨル)を断固支持します。排外主義が勢いを増す日本社会の縮図といえる本事件を改めて検証し「黒い彗星」の完全無罪を訴えます。また、朝鮮民主主義人民共和国への制裁政治や朝鮮学校の「無償化」排除といった文脈からも「12.4渋谷」について話し合いましょう。
プログラム ☆ 救援会より事件概要・映像検証・ご協力へのお礼、黒い彗星&弁護士よりメッセージ、激励トーク ほか
出演 ☆ 崔檀悦(チェ・ダンヨル)、萩尾健太弁護士(はぎお・けんた)、pippo、渋谷望(しぶや・のぞむ)、米津篤八(よねづ・とくや)、柏崎正憲(かしわざき・まさのり)、常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)
司会 ☆ 矢部史郎(やぶ・しろう)
参加費 ☆ 無料
撮影 ☆ 生中継します http://www.ustream.tv/user/yanagibashimishio
予備 http://www.ustream.tv/channel/antifalacometanegra-in-japan
会場内での写真撮影希望者は受付時にお申し込みください
その他 ☆ 受付での必要事項の記入をお願いいたします
取材につきましてはなるべく事前にメールにてお申し込みください。別途調整いたします
警察関係者の入場、会場内・外での集会妨害行為、無断撮影は一切おことわりします
主催 ☆「12.4 黒い彗星★救援会」 schwarzerkomet<@>gmail.com ※< > 外してください
ブログ:http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/
おまけ
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追記
もろもろ告知するのを忘れていたのだが、「12・4黒い彗星★救援会」では、国際連帯声明を発表している。
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110115/1295099460
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371
ぜひ賛同連帯表明を。
2011年1月19日水曜日
1/8海賊研報告 「フック船長はなぜフックなのか」
わが海賊研究会のコモダ研究員が、なんと大学に合格しました。おめでとう。いちど大学を卒業したコモダくんですが、大学院に進むのではなく、もういちど学部生をやるのだそうです。大学が好きなんだね。
で、コモダくんが受験勉強のついでに用意してくれたレジュメが、『Life Under The Jolly Roger』(Gabriel Kuhn)の抄訳。23ページ。てレジュメ23ページかよっ。多すぎない? ちょっとこれ多すぎない? 受験勉強さぼって海賊の本ばっかり読んでたんじゃないの? ちがうの? べつにいいけどさ合格したから。どんな脳みそしてんだよと。
さて、1月8日の研究会は『Life Under The Jolly Roger』を読む。ジョリー・ロジャー(Jolly Roger)というのは、カリブ海賊以降に使われた有名な海賊旗。黒地に白く骸骨が描かれたあの黒旗だ。
著者のガブリエル・クーン(Gabriel Kuhn)はストックホルム在住のアナキスト。1972年生まれというから、もう20年ぐらい経験を積んで脂ののった活動家/研究者だ。スウェーデンには「海賊党」という冗談みたいな名前の政党があって、ユーロ議会に代議員を送り出しているらしいのだが、おそらくそうした社会運動と関わりながら海賊研究が為されているのだろう。
本書が扱うのは、カリブのバッカニアからパイレーツまでの「海賊の黄金期」。17世紀初頭から1730年までの海賊だ。史料的に目新しい事実はほとんどないが、その分析の枠組みをどう設定するかというところで、試みという以上の成果をあげている。フーコーやドゥルーズ/ガタリの概念を通して、近代海賊の思想史的位置づけをはかる。ちょっと感動する労作だ。
脳みそのリミッターが切れたコモダ研究員が23ページにもおよぶ長大なレジュメを書いてくれちゃったので、研究会は新年からみっちり勉強することになった。もちろんここではすべてを紹介できない。
今回も研究会の一部を紹介するのだが、私がとくに感動したのは、海賊と障害についての項だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3.8. Eye Patches,Hook Hands,and Wooden Legs: Piracy and Disability
3章8節 眼帯、フック、棒切れの足
they [pirates] render it [disability] as proof of manliness,courage,and audacity.
海賊たちは障害を男らしさ、勇気、肝っ玉の証拠だとみなした。(81)
While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)
Article number six (...) under Captain George Lowther promised not only compensating payment for "he that shall have the misfortune to lose a limb" but also to "remain with the company as long as he shall think fit." (81) (Captain Johnson)
ジョージ・ラウザー船長下の第6条が約束していたのは、「単に手足を失うという不幸をこうむったもの」に対する補償支払いだけでなく、「とどまりたいと思う限り仲間でいられる」ということであった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
片目を失った者、手がフックになっている者、片足を木の棒で支えている者がいる。海賊を戯画化したイラストでは、こうした障害が必ず描きこまれている。そうした海賊が実際にいて、それはひょっとすると女海賊と同じくらい稀なことだったかもしれないが、義眼・義手・義足の海賊は確かに存在して、見る者に強烈な印象を叩き付けたのだろう。
こうしたばらつきのある不安定な身体は、近代海軍ではありえないことだ。近代の軍隊には兵役検査があって、義眼はともかく義手や義足はまず船に乗れない。人間の規律・訓練を急速に整備していった近代化の過程に沿って言えば、彼らは排除されるべき「不潔な身体」というべきかもしれない。近代海軍が人間の身体を規格化させていたとき、かたや近代海賊は規格外の「不潔な身体」が集まるはきだめであった。障害、巨漢、異様な髭、アル中、黒人、男装した女、異様な大声、入れ墨、変な英語(ピジン語)、盗品をちぐはぐにあわせた奇抜なファッション。フック船長のフックとは、これら「不潔な身体」を象徴するものなのだと思う。
我々が海賊を現実的なものと考えるとき、あるいは海賊を非現実的なものとして退けるとき、どちらにおいてもこの障害をまとった身体が関わっている。障害は「弱さ」なのか、それとも海賊たちが考えたように「強さの証」なのか。障害が「弱さ」であるとするならば、では「強い」とは何なのか。では、力とはなんなのか。
ことは人間と生命の本質に関わる重大なものだから、もういちど引用する。
While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)
これはやばい。涙が出るほど感動した。
追記
障害が肝っ玉の証拠だとみなされたのは、それが勇敢に戦った結果であるからというだけではない。片手を失ってもなお戦闘に向かうずぶとさあつかましさが、勇気や力ということの定義の核心に関わっているのだ。全体を部分へと分節し部分を全体へと構成する近代的な身体観に対して、海賊フックの身体はそれを否定する。全体は部分の総和ではない。片手をもぎとられようが神の怒りを買おうが、力それ自体は損なわれるものではない。著者のガブリエル・クーンはこれを「野生の身体」と呼んでいるが、私はそれよりも「もうひとつの正統な近代」と呼びたい。無限の空間(海)に対峙した人々は、人間の無限の力を確信していて、海洋的人文主義とでも呼ぶべき新たな身体観を獲得したのだ。あ、言い過ぎた。
で、コモダくんが受験勉強のついでに用意してくれたレジュメが、『Life Under The Jolly Roger』(Gabriel Kuhn)の抄訳。23ページ。てレジュメ23ページかよっ。多すぎない? ちょっとこれ多すぎない? 受験勉強さぼって海賊の本ばっかり読んでたんじゃないの? ちがうの? べつにいいけどさ合格したから。どんな脳みそしてんだよと。
さて、1月8日の研究会は『Life Under The Jolly Roger』を読む。ジョリー・ロジャー(Jolly Roger)というのは、カリブ海賊以降に使われた有名な海賊旗。黒地に白く骸骨が描かれたあの黒旗だ。
著者のガブリエル・クーン(Gabriel Kuhn)はストックホルム在住のアナキスト。1972年生まれというから、もう20年ぐらい経験を積んで脂ののった活動家/研究者だ。スウェーデンには「海賊党」という冗談みたいな名前の政党があって、ユーロ議会に代議員を送り出しているらしいのだが、おそらくそうした社会運動と関わりながら海賊研究が為されているのだろう。
本書が扱うのは、カリブのバッカニアからパイレーツまでの「海賊の黄金期」。17世紀初頭から1730年までの海賊だ。史料的に目新しい事実はほとんどないが、その分析の枠組みをどう設定するかというところで、試みという以上の成果をあげている。フーコーやドゥルーズ/ガタリの概念を通して、近代海賊の思想史的位置づけをはかる。ちょっと感動する労作だ。
脳みそのリミッターが切れたコモダ研究員が23ページにもおよぶ長大なレジュメを書いてくれちゃったので、研究会は新年からみっちり勉強することになった。もちろんここではすべてを紹介できない。
今回も研究会の一部を紹介するのだが、私がとくに感動したのは、海賊と障害についての項だ。
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3.8. Eye Patches,Hook Hands,and Wooden Legs: Piracy and Disability
3章8節 眼帯、フック、棒切れの足
they [pirates] render it [disability] as proof of manliness,courage,and audacity.
海賊たちは障害を男らしさ、勇気、肝っ玉の証拠だとみなした。(81)
While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)
Article number six (...) under Captain George Lowther promised not only compensating payment for "he that shall have the misfortune to lose a limb" but also to "remain with the company as long as he shall think fit." (81) (Captain Johnson)
ジョージ・ラウザー船長下の第6条が約束していたのは、「単に手足を失うという不幸をこうむったもの」に対する補償支払いだけでなく、「とどまりたいと思う限り仲間でいられる」ということであった。
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片目を失った者、手がフックになっている者、片足を木の棒で支えている者がいる。海賊を戯画化したイラストでは、こうした障害が必ず描きこまれている。そうした海賊が実際にいて、それはひょっとすると女海賊と同じくらい稀なことだったかもしれないが、義眼・義手・義足の海賊は確かに存在して、見る者に強烈な印象を叩き付けたのだろう。
こうしたばらつきのある不安定な身体は、近代海軍ではありえないことだ。近代の軍隊には兵役検査があって、義眼はともかく義手や義足はまず船に乗れない。人間の規律・訓練を急速に整備していった近代化の過程に沿って言えば、彼らは排除されるべき「不潔な身体」というべきかもしれない。近代海軍が人間の身体を規格化させていたとき、かたや近代海賊は規格外の「不潔な身体」が集まるはきだめであった。障害、巨漢、異様な髭、アル中、黒人、男装した女、異様な大声、入れ墨、変な英語(ピジン語)、盗品をちぐはぐにあわせた奇抜なファッション。フック船長のフックとは、これら「不潔な身体」を象徴するものなのだと思う。
我々が海賊を現実的なものと考えるとき、あるいは海賊を非現実的なものとして退けるとき、どちらにおいてもこの障害をまとった身体が関わっている。障害は「弱さ」なのか、それとも海賊たちが考えたように「強さの証」なのか。障害が「弱さ」であるとするならば、では「強い」とは何なのか。では、力とはなんなのか。
ことは人間と生命の本質に関わる重大なものだから、もういちど引用する。
While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)
これはやばい。涙が出るほど感動した。
追記
障害が肝っ玉の証拠だとみなされたのは、それが勇敢に戦った結果であるからというだけではない。片手を失ってもなお戦闘に向かうずぶとさあつかましさが、勇気や力ということの定義の核心に関わっているのだ。全体を部分へと分節し部分を全体へと構成する近代的な身体観に対して、海賊フックの身体はそれを否定する。全体は部分の総和ではない。片手をもぎとられようが神の怒りを買おうが、力それ自体は損なわれるものではない。著者のガブリエル・クーンはこれを「野生の身体」と呼んでいるが、私はそれよりも「もうひとつの正統な近代」と呼びたい。無限の空間(海)に対峙した人々は、人間の無限の力を確信していて、海洋的人文主義とでも呼ぶべき新たな身体観を獲得したのだ。あ、言い過ぎた。
2011年1月8日土曜日
2011年の海賊研究会
もろもろ忙殺されて事前告知するのを忘れていましたが、海賊研究会の新年一発目は、今日です。
菰田研究員の報告で、
Gabriel Kuhn著 『Life Under the Jolly Roger』
をやります。
著者のGabriel Kuhnという人はあまりよく知りませんが、たぶん若い人。この本も昨年出版されたばかりです。内容は、ニーチェ〜クラストル〜ドゥルーズ/ガタリというラインで海賊のアナキズムを論じるという、ある意味ど真ん中の論文。われわれ海賊研の関心領域と、もろかぶってます。コメントに、『世界システムと女性』で知られるC.V.ヴェールホフが文章を寄せているというのも興奮します。期待大。
海賊研究会 第15回
1月8日(土) 15時〜
新宿のカフェ・ラバンデリアにて。
研究会の後は、新年の飲みだね。集合。
おまけ
菰田研究員の報告で、
Gabriel Kuhn著 『Life Under the Jolly Roger』
をやります。
著者のGabriel Kuhnという人はあまりよく知りませんが、たぶん若い人。この本も昨年出版されたばかりです。内容は、ニーチェ〜クラストル〜ドゥルーズ/ガタリというラインで海賊のアナキズムを論じるという、ある意味ど真ん中の論文。われわれ海賊研の関心領域と、もろかぶってます。コメントに、『世界システムと女性』で知られるC.V.ヴェールホフが文章を寄せているというのも興奮します。期待大。
海賊研究会 第15回
1月8日(土) 15時〜
新宿のカフェ・ラバンデリアにて。
研究会の後は、新年の飲みだね。集合。
おまけ
2011年1月4日火曜日
正月については何も言いたくない
正月は悲しい。
ただテレビだけが賑やかに声をあげている。
我々は慣習に従って「あけましておめでとうございます」と言うが、本当は逃げ出したい気分でいっぱいだ。
生命を奪う厳しい冬がくる。
この日、我々が身を寄せ合い笑顔をふりまくのは、残酷な摂理の暴力を前に心底うろたえているからだ。
正月については何も言いたくない。
ただテレビだけが賑やかに声をあげている。
我々は慣習に従って「あけましておめでとうございます」と言うが、本当は逃げ出したい気分でいっぱいだ。
生命を奪う厳しい冬がくる。
この日、我々が身を寄せ合い笑顔をふりまくのは、残酷な摂理の暴力を前に心底うろたえているからだ。
正月については何も言いたくない。
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