ひさしぶりにネグリ/ハートの『〈帝国〉』を読んでいる。やっぱいいねネグリは。いま、「1−3 〈帝国〉内部のオルタナティブ」を読んでいたのだが、実にいい。ちょっと長いけど引用する。
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1960年代から現在にいたるまで、長期間にわたって共産主義者・社会主義者・リベラル左翼を襲いつづけてきた危機の中で、批判的思考の大半は、資本主義の発達した支配諸国においても従属諸国においても、しばしば闘争のローカル化を政治的分析の足場にしながら、社会諸主体のアイデンティティや、国民的・地域的な諸集団のアイデンティティにもとづく抵抗の現場を再構成しようと試みてきた。そのような議論は、ときとして「場所に根ざした」運動ないし政治という見地から組み立てられたものであり、そこでは、場所(アイデンティティまたは根拠地として構想された)の境界が、グローバル・ネットワークの差異のない同質的な空間に対抗するものとして措定されているのである。
(中略)
その立場(ローカルなものに固執する立場)が間違ったものであるのは、何よりもまず、問題の提起の仕方がまずいからだ。問題を特長づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。
(中略)
問題として取り上げる必要があるのは、まさにローカル性の生産、すなわち、ローカルなものとして理解される諸々の差異とアイデンティティを創出し、再創出している社会的諸機械なのである。ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地からのみ理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。
(中略)
ローカルな抵抗という戦略は敵を誤認し、それによって敵を隠蔽してしまうのである。敵として指し示されるべきものは、私たちが〈帝国〉と呼ぶ、グローバルな諸関係からなる特定の体制にほかならない。もっと重要なことを付け加えるなら、ローカル性を防衛しようとする戦略が有害なのは、それが〈帝国〉の内部に実在する現実的なオルタナティブと解放への潜勢力を曖昧にしたり、ときには否定したりさえするものであるからなのだ。
(67,68)
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以上、引用おわり。
で、「ローカルな抵抗という戦略」は東京ではほとんどみられないのだが、それでも少し思い当たるフシはあって、「アイデンティティ」という用語を無造作にふりまわす類の反差別運動(の残滓)というのがある。うざいんだよね実際。おまえのくちぶりこそが自民族中心主義だよと注意しても、言われた本人は「自分は反差別」と信じきっているから手に負えない。民族問題や差別問題を考えるのはそいつの勝手だし大事なことかもしれないが、なんか妙にえらそうに左翼ヅラかましてるし、かといって矢面に立って闘うでもなし、人の背中でウジウジといいわけがましい内容を並べて士気を削いでくれる。傷つきやすくてあつかましい人間というのはいるものだが、そういう奴に「アイデンティティ」なんてムヅカしい言葉を教えたのは誰だ。どうすんだ、アレ。なんとかしてくれ。
と、いつになく愚痴っぽいことを書いてしまったが、わがANTIFAは、「アイデンティティ」みたいな学生くさい用語は使わない。そんな概念が差別をはね返す力になるとも思わない。あ、「わがANTIFA」というのは「俺のANTIFA」ってことね。この際はっきり言っておくが、差別と闘うときに、いわゆる「ポストコロニアル」風の言説を私が利用しないのは、それを知らないからじゃないからね。役に立たないと思ってるんだ。やめろとは言わないが、それはそれ、その人の趣味みたいなもので(悪趣味)、差別と闘う運動には関わりのないことだと考えている。
さて、話は冒頭にもどるが、なぜいま私がネグリを読み返しているかというと、次回の海賊研究会、『〈帝国〉』をやります。
1月29日(土) 15時〜 カフェ・ラバンデリアに集合。
おまけ(本文とは関係ありません)