2011年1月31日月曜日

1/29海賊研報告「マルチチュードと海賊」

 今年に入ってから新しい参加者が増えてきたが、今回は新たに3人の学部生が参加してくれた。飲み会が楽しい。
 さて今年二回目の海賊研究会は、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』(以文社)について議論した。学部生Y君がアントニオ・ネグリを勉強しているということで、レジュメを担当してもらった。そして、海賊研がいよいよネグリをやるってことで、早稲田大学博士課程の仲田くんが緊急参戦。仲田くんはいま栗原くん・佐々木さんと一緒に、ネグリとカザリーノの討議(『コモンを讃えて』)を翻訳しているそうで、今年の春に日本語版を出版する予定。約一年ずっと海賊ばっかり考えてきた我々と、一年以上もネグリの翻訳に取り組んできた仲田くんとで、なかなか鋭角な議論になったと思う。録音しておけばよかった。

 で、この日の議論を私なりに要約すると、マルチチュードと近代海賊を類比させることが妥当であるかどうか、その類比から何が得られるのか、何を得ようとしているのか、だ。
 仲田くんが厳密に指摘するように、マルチチュードとは、フォーディズムからポストフォーディズムへ、物質的生産から非物質的生産へとシフトした、後期資本主義に対応した概念(対応して定義すべき概念)である。かたや我々が研究する近代海賊は、植民地主義の本源的蓄積過程に対応して現れたものであって、植民地主義と〈帝国〉というベースの違いを無視してよいのか。マルチチュードと海賊をイコールで結ぶことは、マルチチュードと産業労働者(プロレタリアート)をイコールで結ぶのと同様の、みそも糞も一緒の議論になってしまうのではないか。なるほどまっとうな指摘である。

廣飯研究員の回答
 私からの回答はちょっと後回しにして、この日おもしろかったのは、廣飯(ひろいい)くんの回答である。どういう流れでそうなったのかは忘れてしまったが、廣飯研究員が出したこの日最高のパンチラインは、「ハーバーマス的な公共圏の議論ではない、まったく別の公共性やコモンの議論を始めること」「ハーバーマスにかわる、海賊的公共圏の思想」。この発言にはちょっと驚いた。彼ははっきりとは言わなかったが、私が勝手に先回りして要約すれば、「ハーバーマス的な公共圏の議論」とは、すなわち超国家的な〈帝国〉の一つの現れである、ということだ。ものすごく卑近な例で言えば、たとえばアメリカのサンデルセンセーの講義録が流行したり容認されたりという現象も、〈帝国〉だ。そういう諸々のくだらないことにムズムズしていたのだろう。廣飯研究員とは一年近くつきあってきたが、彼がこういうところに力点を置いているとは知らなかった。

非物質的生産と海賊
 さて、私からの回答。
 まず、マルチチュードは非物質的生産が商品経済の中心に位置するようになった時代の生産者である、という点。ここで私が近代海賊を参照するのは、彼らが物質的生産ではない行為(強盗、誘拐、詐欺、密貿易、狩猟)によって生計をたてていたところにある。物質的生産から排除され海賊化した者たちは、では何も生産しなかったのだろうか。そこに非物質的生産がなかっただろうか。近代海賊の非物質的生産の例として私が挙げたのは、ファッションである。人間が伝統や位階制秩序から離れて自分が着たいものを自分が着たいように着るという行為は近代の発明なのだが(そして現代では商品経済の中心を形成するのだが)、近代海賊は近代ファッション革命の前史を形成している。彼らは、身分の高い者のために作られた服を強奪し、自分が着たいように勝手に着てしまう。上級将校の軍服をまとうルンペンだ。美からもっとも遠いはずのならず者が、位階制秩序ではとうてい許されない別の美を実践し、別の美意識をたちあげてしまう。近代海賊はただ物質としての服を強奪しただけでなく、服によって表現される秩序をも盗んでいったのだ。この海賊的人文主義の実践は、位階制秩序に回帰する〈帝国〉の時代に、重要な示唆を与えるものだと思う。

ポストフォーディズムと海賊研究
 次に、フォーディズムからポストフォーディズムへの移行を経てマルチチュードが登場する、という点。これに対してはちょっと反則ぎみの回答なのだが、ポストフォーディズムの時代であるからこそ、このような海賊研究が可能になったということだ。
 「近代」の、フォーディズムの、物質的生産の時代(工業化時代)のパラダイムが終わろうとしている現在、我々の海賊研究はその転換のなかで始まっている。私がこのことを説明するための補助線として提起したのは、ロックカルチャーである。我々の海賊研究は、意識するにしろしないにしろ、ポストフォーディズム期のロックカルチャーを経由している。ロックカルチャーのレンズを通して、ロック的な視座から、遡及的に海賊を再構成しているのだ。それは例えばハリウッド映画の『パイレーツ・オブ・カリビアン』でジョニーデップたちが演じている海賊は、明らかにロック的な(あるいはパンク的な)パースペクティブで再構成された海賊像である。私が『パイレーツ・オブ・カリビアン』に興奮し、それ以前に作られた海賊映画(『海賊キッド』等)にまったく興奮しないのは、つまりフォーディズム期の海賊映画がつまらないと感じるのは、海賊を描く視点がフォーディズムだからである。これに対して、ジョニーデップの演技演出は、明らかにロック的で、ポストフォーディズム的である。そしてそうした視点をとってはじめて見えてくる海賊の姿がある。
 こうした動きはおそらく1980年代にもあって、たとえば網野善彦氏の海からみる日本史研究というのは、網野氏自身は国際共産主義運動(プロレタリアに祖国なし)という50年代的背景があって書かれたのかもしれないが、その読者は〈68年〉以後のやんちゃなロックカルチャーの世代にひろく受け入れられたのだ。あ、また言い過ぎた。最後の段は流してください。

おまけ



追記
 言うまでもないことだが、ここでロックカルチャーというのはジョン・ロックのことではなくて、第二次大戦後に英米圏ではじまった対抗文化のことである。セックスドラッグアンドロックンロールだ。それは資本主義によって制度化された標準的なプロテスタンティズムに対してプロテストした、ポスト・プロテスタンティズムと呼びうる思潮である。ロックカルチャーはプロテスタンティズムの価値を転倒させる。勤労の美徳をコケにし、倹約を罵り、契約や期待を裏切り、淫乱で、時計を持たない。宗派信徒団(セクト)を形成するのではなく、部族(バンド)を形成する。
 私なんかはこの思潮の影響を強く受けていて、フランスの大哲学者であるドゥルーズなんかもそういうロック的な基準でシンパシーをもって読んでしまう。ドゥルーズはインタビュー嫌いで有名で、「議論することになんか何の意味もない」と言っちゃうのだが(ちょ、哲学者がそれを言っちゃ)ドゥルーズのこういうところが痛快。どこのミュージシャンだよ、と。フランスにはマオ派とかラカン派とかいろいろと信徒団が形成されているらしいのだが、ドゥルーズが素晴らしいのは、「ドゥルーズ派」を形成せず、ただ「俺は犬が嫌い、犬と人間は最低の動物」というような意味不明だが心にのこるパンチラインを言いたい放題言って死んだ。ネグリにも似たところがあって、真面目な人の感情を逆撫でするような憎まれ口をわざわざ叩いて、自分から孤立するような振るまいが多数。「ネグリ派」が形成されないように必死になってるのだろう。