2022年6月25日土曜日

最高裁まるでネトウヨ判決

 


 原発事故人権侵害訴訟愛知・岐阜(名古屋高裁)のもろもろの作業がひと段落して、少し休憩できる時間ができたので、手短に書く。

 6月17日に最高裁で下された4訴訟の判決(生業、群馬、千葉、愛媛)は、お粗末の一言だ。

菅野博之裁判長は、数多くの論点を無視し、結論に結び付けられそうな証拠の断片をつぎはぎして、国の法的責任はないとした。

 ここで菅野博之が行っているのは、「チェリーピッキング」と呼ばれる誤謬である。「チェリーピッキング」とは、自分の結論にとって有利なものだけを選別してつまみとる、というやり方である。私たちが日常で目にしているネット右翼連中の常とう手段だ。徳も知性もない、権力を誇示しているだけの駄文だ。小論文なら0点だ。

 

11年もの時間をかけて数万の人々が血のにじむ努力をしてきた裁判にたいする最高裁の応答は、ネトウヨの駄文であった。笑うに笑えない。

この国の司法は、菅野博之というネトウヨに乗っ取られた。

 

 

2022年6月11日土曜日

育児の失敗は残酷だね

 

息抜きにネット掲示板を見ていたら、ある漫画家の児童虐待エピソードが話題になっていて、興味深い。とても残酷な話だが、関心をひく。

 

日本では第二次大戦後一貫して、育児の高度化が進行してきた。男女ともに教育水準があがり、人権意識が高まり、育児の文化は高度化してきた。

私が小学生だったころ、1980年代には、子どもへの体罰が問題視され、子どもの人格を尊重することが議論されるようになっていた。

2000年代、私が親になった頃は、子どもと同じ目線で話しかけるというスタイルが流行した。体罰を避け、怒鳴りつけることを避け、赤ちゃん言葉で話しかけることをやめ、幼少期から子供の人格を尊重するという育児だ。子どもを比較することや差別することを戒め、過干渉にならないように配慮し、塾や習い事はほどほどにしてぼんやりできる時間をつくるようにした。

 2020年を過ぎた現在は、おそらく私の頃よりももっとスマートな育児が行われているだろう。赤ちゃんを抱いている父親の姿も珍しいものではなくなった。育児の文化は急速に進化している。

 

だが、それがすべてではない。

育児の高度化は一般的な傾向として力強く進行しているとしても、その脇には、むごたらしい児童虐待・家庭崩壊の事例が散見される。育児文化の二極化。経済格差とは別の位相で進行する、育児の格差がある。

 経済の格差は、しばしばそれを正当化するために「優勝劣敗」や「淘汰」という言葉で表現される。進化論を曲解した「優生思想」になぞらえて、格差が正当化されることが多い。それに対して、育児文化の格差は進化論に喩えられることはない。崩壊家庭を指して「適者生存の法則だ」と表現する人はいない。

なぜか。なぜなら育児の成否という問題は、喩えるまでもなく、優勝劣敗だからである。育児文化が進化論と無縁だからではなく、反対に、育児が進化の過程そのものだからである。

口にするのもおそろしいほどに、育児の結果は残酷だ。児童虐待は連鎖し、人間を孤立させ、淘汰していく。人権意識が普及するにつれて、それを持たない者への淘汰圧力が強まる。他人の人格を尊重しない者や差別を肯定する者は、非婚化の圧力に押し流され、絶える。

これまで多くの女性が人権や反差別を唱えて活動をしてきたのは、彼女たちがたんに理念的なきれいごとを言いたいからではなくて、それが穏やかな家庭生活の条件になりつつあるからだ。子どもが健やかに成長し、幸せな結婚をし、健やかな孫の顔を見るために、人権意識は必要条件になっている。かつて直立二足歩行の猿人が四足歩行の猿人を淘汰していったように、現代では人権概念が人間の進化を方向付けている。

 

 

 いま話題になっている漫画家の事例は、経済的貧困を伴わない、純粋な文化の貧困を示しているために、人々の関心をひくものだ。

文化の貧困は、経済の貧困にも増して、むごたらしい。

かつて若者にもてはやされた「サブカルチャー」は、急速に、かわいそうなものになった。

 

 

 

 

2022年6月5日日曜日

ノート 映画『ロッキー』を観て

 


 1976年の『ロッキー』から2006年の『ロッキー FINAL』まで、シリーズ6作品を観た。

 シリーズを貫いているテーマは、スポーツによる共同体の構築、あるいは、擬製の共同性を構築する夢だ。

一作目では、30歳になるまで鳴かず飛ばずだった貧しい独身男性ロッキーが、同じく20代後半まで男と縁のなかった引っ込み思案の女性エイドリアンにプロポーズをする。二人はともに貧しく、将来の見通しはない。この映画に登場する人々は、みな貧しい。周辺化された人種の下層プロレタリアである。イタリア系、アフリカ系、アイルランド系、ユダヤ人。アングロサクソン系は一人もいない。それでも白人であるロッキーや義兄ポーリーやコーチのミッキーは、1950年代であれば豊かなアメリカ的生活にキャッチアップできたかもしれない。しかし1970年代の彼らに「黄金の50年代」は無縁だ。ロッキーは結婚をして家庭を持つことを夢見るが、それは簡単なことではない。

二作目『ロッキー2』では、エイドリアンが出産し、ロッキーは父親になる。しかし仕事はなく、収入は不安定で、先の見通しはない。ロッキーは自分の稼ぎで家族を養うという50年代モデルの家庭を夢見るが、それをまかなうだけの収入がない。家族三人で路頭に迷うかという状態のなかで、ロッキーはリングにのぼる。

『ロッキー2』で試合に勝利したロッキーは、世界チャンピオンとなり金持ちになる。だが、チャンピオンとして派手な生活をおくれたのはほんの数年だけ、すぐに若い挑戦者に追い落とされてしまう。30代半ばのロッキーがベルト奪回をかけて闘うのが、三作目『ロッキー3』(‘82)だ。ここでは、ボクシングスタイルの改造が試みられる。これまでハードパンチと耐久力だけで闘ってきたロッキーは、新しいトレーナーの下で、アフリカ系ボクサーのようなアウトボクシングを身につけるのである。「イタリアの種馬」で名をはせたロッキーが、アフリカ系ボクサーと融合する。「人種の違いをこえる」ことで、ロッキーはフィラデルフィア市の共同体を代表するボクサーになる。そして『ロッキー4』(‛85)では、ソ連邦からやってきたロシア人ボクサーとの対決によって、アメリカ合衆国を代表するボクサーとなる。

 

 『ロッキー』シリーズは、回を重ねるたびに、ある神話に収斂していく。

スポーツは、階級と人種を融和させ共同体を結束させる力がある、という神話だ。

ただしそれは、常識をはずれた異常な強度(労働強度)に身を投げ込むことを要求する。トレーニングがハードであるというだけでなく、人体を破壊されながら意識を保ちつづける耐久力が必要だ。ロッキーの忍耐強さは、イタリア的ではない。ロッキーはボクシングによって、プロテスタント以上にプロテスタント的な禁欲主義に改造されていくのである。

階級の克服、人種の融和、新しい共同性の構築は、激しい労働強化によって実現する。この映画は、たんにワークアウトやボディビルを流行させたというだけではない。この作品の基調となっているメッセージは、あらゆる夢を実現する第一の条件は、労働強化であるということだ。70年代の不況と新自由主義の精神を、よく表現していると思う。