2022年6月11日土曜日

育児の失敗は残酷だね

 

息抜きにネット掲示板を見ていたら、ある漫画家の児童虐待エピソードが話題になっていて、興味深い。とても残酷な話だが、関心をひく。

 

日本では第二次大戦後一貫して、育児の高度化が進行してきた。男女ともに教育水準があがり、人権意識が高まり、育児の文化は高度化してきた。

私が小学生だったころ、1980年代には、子どもへの体罰が問題視され、子どもの人格を尊重することが議論されるようになっていた。

2000年代、私が親になった頃は、子どもと同じ目線で話しかけるというスタイルが流行した。体罰を避け、怒鳴りつけることを避け、赤ちゃん言葉で話しかけることをやめ、幼少期から子供の人格を尊重するという育児だ。子どもを比較することや差別することを戒め、過干渉にならないように配慮し、塾や習い事はほどほどにしてぼんやりできる時間をつくるようにした。

 2020年を過ぎた現在は、おそらく私の頃よりももっとスマートな育児が行われているだろう。赤ちゃんを抱いている父親の姿も珍しいものではなくなった。育児の文化は急速に進化している。

 

だが、それがすべてではない。

育児の高度化は一般的な傾向として力強く進行しているとしても、その脇には、むごたらしい児童虐待・家庭崩壊の事例が散見される。育児文化の二極化。経済格差とは別の位相で進行する、育児の格差がある。

 経済の格差は、しばしばそれを正当化するために「優勝劣敗」や「淘汰」という言葉で表現される。進化論を曲解した「優生思想」になぞらえて、格差が正当化されることが多い。それに対して、育児文化の格差は進化論に喩えられることはない。崩壊家庭を指して「適者生存の法則だ」と表現する人はいない。

なぜか。なぜなら育児の成否という問題は、喩えるまでもなく、優勝劣敗だからである。育児文化が進化論と無縁だからではなく、反対に、育児が進化の過程そのものだからである。

口にするのもおそろしいほどに、育児の結果は残酷だ。児童虐待は連鎖し、人間を孤立させ、淘汰していく。人権意識が普及するにつれて、それを持たない者への淘汰圧力が強まる。他人の人格を尊重しない者や差別を肯定する者は、非婚化の圧力に押し流され、絶える。

これまで多くの女性が人権や反差別を唱えて活動をしてきたのは、彼女たちがたんに理念的なきれいごとを言いたいからではなくて、それが穏やかな家庭生活の条件になりつつあるからだ。子どもが健やかに成長し、幸せな結婚をし、健やかな孫の顔を見るために、人権意識は必要条件になっている。かつて直立二足歩行の猿人が四足歩行の猿人を淘汰していったように、現代では人権概念が人間の進化を方向付けている。

 

 

 いま話題になっている漫画家の事例は、経済的貧困を伴わない、純粋な文化の貧困を示しているために、人々の関心をひくものだ。

文化の貧困は、経済の貧困にも増して、むごたらしい。

かつて若者にもてはやされた「サブカルチャー」は、急速に、かわいそうなものになった。