2022年6月5日日曜日

ノート 映画『ロッキー』を観て

 


 1976年の『ロッキー』から2006年の『ロッキー FINAL』まで、シリーズ6作品を観た。

 シリーズを貫いているテーマは、スポーツによる共同体の構築、あるいは、擬製の共同性を構築する夢だ。

一作目では、30歳になるまで鳴かず飛ばずだった貧しい独身男性ロッキーが、同じく20代後半まで男と縁のなかった引っ込み思案の女性エイドリアンにプロポーズをする。二人はともに貧しく、将来の見通しはない。この映画に登場する人々は、みな貧しい。周辺化された人種の下層プロレタリアである。イタリア系、アフリカ系、アイルランド系、ユダヤ人。アングロサクソン系は一人もいない。それでも白人であるロッキーや義兄ポーリーやコーチのミッキーは、1950年代であれば豊かなアメリカ的生活にキャッチアップできたかもしれない。しかし1970年代の彼らに「黄金の50年代」は無縁だ。ロッキーは結婚をして家庭を持つことを夢見るが、それは簡単なことではない。

二作目『ロッキー2』では、エイドリアンが出産し、ロッキーは父親になる。しかし仕事はなく、収入は不安定で、先の見通しはない。ロッキーは自分の稼ぎで家族を養うという50年代モデルの家庭を夢見るが、それをまかなうだけの収入がない。家族三人で路頭に迷うかという状態のなかで、ロッキーはリングにのぼる。

『ロッキー2』で試合に勝利したロッキーは、世界チャンピオンとなり金持ちになる。だが、チャンピオンとして派手な生活をおくれたのはほんの数年だけ、すぐに若い挑戦者に追い落とされてしまう。30代半ばのロッキーがベルト奪回をかけて闘うのが、三作目『ロッキー3』(‘82)だ。ここでは、ボクシングスタイルの改造が試みられる。これまでハードパンチと耐久力だけで闘ってきたロッキーは、新しいトレーナーの下で、アフリカ系ボクサーのようなアウトボクシングを身につけるのである。「イタリアの種馬」で名をはせたロッキーが、アフリカ系ボクサーと融合する。「人種の違いをこえる」ことで、ロッキーはフィラデルフィア市の共同体を代表するボクサーになる。そして『ロッキー4』(‛85)では、ソ連邦からやってきたロシア人ボクサーとの対決によって、アメリカ合衆国を代表するボクサーとなる。

 

 『ロッキー』シリーズは、回を重ねるたびに、ある神話に収斂していく。

スポーツは、階級と人種を融和させ共同体を結束させる力がある、という神話だ。

ただしそれは、常識をはずれた異常な強度(労働強度)に身を投げ込むことを要求する。トレーニングがハードであるというだけでなく、人体を破壊されながら意識を保ちつづける耐久力が必要だ。ロッキーの忍耐強さは、イタリア的ではない。ロッキーはボクシングによって、プロテスタント以上にプロテスタント的な禁欲主義に改造されていくのである。

階級の克服、人種の融和、新しい共同性の構築は、激しい労働強化によって実現する。この映画は、たんにワークアウトやボディビルを流行させたというだけではない。この作品の基調となっているメッセージは、あらゆる夢を実現する第一の条件は、労働強化であるということだ。70年代の不況と新自由主義の精神を、よく表現していると思う。