福島県の児童の健康調査が行われている。ここで注目したいのは、福島県では児童の尿検査が行われていなかったことだ。この件について福島県がおこなった釈明は、放射線濃度を検査するゲルマニウム半導体検出器は福島産牛肉の検査のためにふさがっていて使えなかった、というものだ。福島県の検査機関は、児童の健康状態よりも、牛肉が商品として流通できるかどうかを優先していたのである。
このことを福島県行政の不備として捉えるのは間違いである。これはたまたま起きてしまった行政上の不備や過失ではなくて、「復興」にあらかじめ書きこまれた政策判断である。なぜなら政府がとりくむ「復興」とは、福島県民一般にたいする救済ではないからである。政府にとって重要なのは商品経済(金融経済)の救済であって、児童の生存権など二の次なのだ。「復興」政策による事業投資が、福島県民すべてに救済の手を差し伸べると考えるのは、まったくお花畑の発想である。それは、IMFと世界銀行が困窮したアフリカ人を救済すると考えるのと同じぐらい馬鹿げたことだ。
「復興」政策は、福島県の児童を救済するのではなく、重大な負荷をかける。尿検査はできません、というかたちで。「福島は元気です」と言うために。これは逆説ではない。開発投資が低開発をもたらすということは、第三世界のいくつもの事例で報告されてきたことだ。この一般的な経済法則からみて、「復興」政策の標的となった福島県民は今後ますます困窮させられ、権利を剥奪されていくだろう。
「食べて応援」とか言ってる阿呆は、自分の食べた福島産牛肉が、どのような犠牲のうえにつくられたものか、よく考えてみるがいい。おまえらはこどもの生き血を吸ったのだ。