甲状腺のう胞のエコー検査を受けてきた。半年前に発見されたのう胞はいまも消えていないのだが、悪性の特徴もみられないので、引き続き経過観察ということになった。
最近妙に筆が進むので、今日もだらだら書いてみる。今日はちょっとリラックスして、タバコの話。
放射線防護をやっているとタバコについてどうのこうの言われることがある。放射能は警戒しているのにタバコはいいんですか、というような。まあそういうときは「私はヘビースモーカーなので、これ以上の有害物質は許容できないんです」と答えるのだが、私としてはこれ以上にない明快な回答だと思うのだが、まだちょっとひっかかっている人もいるようなので、今日は説明的に書いてみる。
放射線防護をやっているとタバコについてどうのこうの言われることがある。放射能は警戒しているのにタバコはいいんですか、というような。まあそういうときは「私はヘビースモーカーなので、これ以上の有害物質は許容できないんです」と答えるのだが、私としてはこれ以上にない明快な回答だと思うのだが、まだちょっとひっかかっている人もいるようなので、今日は説明的に書いてみる。
もしかしたら誤解されているかもしれないが、実は防護派の人々は、タバコをやめましょうなんてことは言わない。そういうことにメクジラをたてる集団ではない。放射線防護派はとくに潔癖な集団ではないし、道徳的に厳格だったりもしない。人それぞれで、はっきり言って、ゆるい。けっこう自由。
で、私のような喫煙者かつ防護派の人間に対して、タバコは健康に悪いとかどうのこうの言いたがるのは、実は放射線防護に無関心な人や反感を持っている人だ。
なぜこういうことになっているかというと、これは歴史を遡ればよくわかる。
嫌煙運動が登場するのは、チェルノブイリ事件の後である。チェルノブイリ事件以前、人々はとくにタバコを問題にすることなく、放射能を問題視していた。ちょっと想像してみてほしいのだが、チェルノブイリとか、反原発とか、反トマホーク(核ミサイル)だとか、もっと以前には、火力発電所建設反対やさまざまな反公害運動や原水禁運動の人々は、実は、タバコをくわえながらやっていたのである。
当時の人々の「意識が低かった」からなのだろうか? チェルノブイリ以前の反核運動・反公害運動は「意識が低く」て、チェルノブイリ後の運動は「意識が高い」ということなのだろうか? 違う。90年をさかいに、運動(の一部)が「環境運動」に歪められ、道徳化したのだ。
チェルノブイリ事件はかつてないほどの広域で一般的な危機を生み出した。当時の反原発運動の特徴は、都市に暮らす一般的な主婦が、異議申し立てに立ち上がったということである。だれもかれもが当事者として、問題に深くコミットしようとする。このとき危機を鎮圧する戦術として採用されたのは、ひとりひとりに道徳的な内省を迫り、問題に関わる資格を問うことだ。例えば、電気を使っているのは家庭である、と。洗濯機やエアコンで電力を使っているのはあなたたちだ、と。だから電気を「湯水のように」使っている人間が問題に口を出す資格はないのだ、と。これは論理的には成立しないたんなる恫喝だったのだが、威力は絶大だった。日本人は、お人好しで格好つけだから、こういうことを言われるとつい黙ってしまう。この道徳的内省を迫る戦術のバリエーションのひとつが、タバコである。
一部の「環境運動」は、嫌煙運動に便乗してしまった。これは、反公害運動と労働運動の切断を促す効果を生んだ。なぜなら労働者はタバコを手放さないし、なにより道徳が嫌いだからである。
ちなみにこのとき東京では、中曽根内閣が策定した「四全総」が端緒につき、都市再開発が始まっていた。東京の90年代に起きていたのは、インテリジェンスビルの建設ラッシュと、クリーンで「アメニティ」な感じの空間再編であり、この新しい空間はタバコを吸わない労働者を要求していたのである。その要求は2000年代には条例化される。
で、話を戻すが、労働者が反原発運動や消費者運動に対して「小ブル的」という印象を持ってきたのは、理由がないわけではない。一部の「環境運動」に見られる道徳的態度が、伝統的な労働者文化である喫煙を攻撃したからである。都市空間の禁煙化開発(私物化)における、「払い下げ」の役割を、一部の「環境運動」が担ってしまったのである。われわれの文化を「民間活力」に売り渡したのだ。われわれ労働喫煙階級が「エコ」とか言ってる人間を憎むのは当然である。
これは本当は誤解なのだが、実は反原発運動の活動家にはけっこう喫煙者がいてそこらへんはけっこう柔軟なのだが、しかし出来の悪い部分ほど目立ってしまうということはあって、タバコに目くじらをたてることが運動のルールであるかのように印象づけられてしまったのである。
チェルノブイリ事件を契機に拡大した意識改革は、不幸なかたちで反転し、防衛的で道徳的な態度を生み出した。これは運動の発展ではなく、退行である。現在から振り返ってみれば嫌煙運動とは、チェルノブイリ事件が引き起こした危機に蓋をしたのである。そうして、タバコを吸っている人には「資格がない」、タバコをやめることが「意識が高い」という、私に言わせれば倒錯としか思えないイデオロギーを(一部で)生みだした。まあ裾野の広い大衆運動だから、いろんな人がいるのはしょうがないのだが、しらけるんだよな実際。いいよ。タバコが嫌なのはわかったよ。しかし、東京電力の資金援助うけて環境祭りやってたやつには、ガタガタ言われたくねえんだよな。東電に金もらって「アース」だの「エコロジー」だのって、完全に転倒してるだろう。俺のタバコより、そっちのほうが問題だろ。偽エコロジストが偉そうにすんなってんだ。
いや、愚痴を言い出すときりがないのでやめる。
総括的に言うと、喫煙を問題にしたい人というのは、なんであれ他人の「資格」を問いたい人だ。ようは、ビクついているのだ。素行を正してちゃんとしないと発言の「資格」がないと思い込んでいるのだ。
そういう人はいつも釈明におわれているお人好しでかわいそうな人だから、私はあまり真面目にとりあわない。徐々に権利意識を獲得していくうちに、ブレなくなると思う。