最近、いつ頃からか正確には言えないが、「アレルギー」という言葉を聴かなくなった。
もちろんアレルギーという言葉はある。だがここで「聴かなくなった」というのは、テレビとか低俗な評論家が一般大衆を断罪するときに口にしていた「アレルギー」である。「放射能アレルギー」とか。10年前ならば、二言目にはかならず「放射能アレルギー」という言葉が使われたものだ。しかし現在ではほとんど聴かない。
最大の理由は、アレルギーに対する理解が進んだからだろう。
毎年冬が終わる頃には花粉が充満し、大人も子供もアレルギー性鼻炎に悩まされる。花粉症になったことのある人は、いまでは多数派だ。スーパーで売られる加工食品には、アレルギー原因物質の表が明記されるようになっている。卵やそばで具合の悪くなる人がいるということを、いまではみんな知っている。アレルギー反応というものをなにかの幻想だとか、「甘え」だとか、克服すべき過剰反応だとか考える人間は、いなくなったのだ。
卵は、一般的には栄養価の高い食品である。しかしある人々にとっては、栄養ではなく毒になる。それはその人たちが幻想にとりつかれているからではないし、根性が足りないからでもない。こういうことが一般に理解されてくると、かつてのように「アレルギー」という断罪の仕方はできなくなってくる。そういう言い回しが、表面的にも含意としても誤用だということが明白だからである。「大衆は非科学的だ」と断罪する者が、実はもっとも科学から遠いということがばれてしまうことになる。
じつは私は『ゼロベクレル派宣言』を出版したあとに、「矢部は放射能アレルギーだ」と罵倒されることを覚悟していた。そうした攻撃を待ち構えてもいた。一言でも「アレルギー」と言いやがったらコテンパンに返り討ちにしてやろう、と。
しかしそんな想定はもう必要なかったのだ。
道徳的罵倒としての「アレルギー」は、もう死語になったのだ。