TPP協議の是非をめぐって、マスメディアの論調の大勢は、推進に傾いているようだ。他人の財布に平気で手を突っ込む泥棒エコノミストたちが、みんなで盗めば怖くない式の自由化推進論を展開している。不快だ。
これからここで検討したいと思うのは、ネオリベ(泥棒)がどのようにナショナリズムに依拠しているかという問題である。まず例文を読んでもらおう。11月8日付、「ロイターコラムニスト田巻一彦」という署名での記事だ。
TPP対応で菅首相の指導性に疑問符
ここから一部を抜粋しよう。
「政府は来年10月をメドに国内農業の保護や改革を目指した行動計画をまとめる方針だが、そこまでTPP参加の決断を先送りしては、TPP交渉に入れぬまま”置き去り”にされるリスクが高まる。そうなれば日本経済にとっては大打撃で「長期低落」から「没落」の危険に直面してしまう。菅首相はトップの責任で来年春までに参加の決断をするべきだ。」
さて、「置き去り」、「日本経済」、「大打撃」、「没落」という言葉が踊る。こうした見立てがまるで自明であるかのようにして危機アジりをしているわけだが、どれも根拠が薄弱で、主観の域を出ない。ほとんど「言ってるだけ」のスローガンじみた「分析」なのだが、なかでももっとも曖昧で判然としないのが、「日本経済」とは何かということである。
「日本経済」とは、何なのか。それは「日本人」が関わる経済なのか、それとも「日本企業」が関わる経済なのか、あるいは「日本市場を舞台にした経済」なのか。その「日本経済」に輪郭はあるのか、あるとしたらどこからどこまでが「日本経済」だと考えるのか。いま危機感をもって声をあげている農家と地方経済は、彼らの言う「日本経済」に入っているのか、いないのか。いったい「日本経済」とは誰の金の話なのか、まずはそこをはっきりさせないことには、議論にならないはずだ。現在の自由化推進論は、エコノミストがただ自分たちの利権のために「日本経済」を勝手に僭称していると言われてもしょうがない状態である。
「日本経済」という論法は、ありがちだがとても危険で有害な論法である。これはたとえば霊感商法が高額な墓石を売りつけるときに、家族の話を持ち出すようなものだ。「家族によくないことが起きるかもしれない」と、霊感商法は言うのだ。真面目な人間は、自分のことだけでなく、自分の家族が平穏無事であってほしいと願っている。当然だ。「家族なんかどうなったっていい」というヤクザ者は、そうそういない。だから、家族の話を持ち出してそれとなく脅されれば、異常に高額な墓石を買ってしまう人もいるわけだ。
「日本経済」という脅し文句は、真面目な人ほどよく効いてしまう。書いている本人が日本経済のことなど少しも考えていなかったとしても、だ。よく思い出してほしいのだが、自由化・規制緩和を推進したネオリベエコノミスト竹中平蔵は、アメリカに籍を置いて日本の所得税住民税をバックレていた人間である。この手の泥棒エコノミスト連中が、日本経済の将来を真面目に考えたり、少しでも責任を負おうとしているとは、とうていありえない話である。そして、日本の経済に責任を負おうという意識がないからこそ彼らは、威勢のよい危機アジりと「改革」スローガンを、慎重さのかけらもなく号令できるのである。
あるいはこれは欺瞞(他人だけでなく自分を含めて欺くこと)なのかもしれない。エコノミストは「日本経済」という空疎な言葉を信じていないというだけでなく、同時に、「日本経済」という切り出し方以外に言葉を持たず、それなしには経済を見据えることができないという、彼ら自身の認識の限界を示しているのかもしれない。だとすればそれは経済学の問題である以前に、世界認識の問題、ナショナリズムの問題であると言えるだろう。
はっきりさせておくが、「日本経済」などというものは存在しない。仮にあったとして、それは一つではない。奴らの言う「日本経済」と、我々が生きて意識している「日本経済」は、まったく別物である。
そもそも「日本経済」などといういい加減で不明確な言葉を使うから、事態が見えなくなってしまうのだ。これはまるで自民党残党の市民右翼たちが、「我々日本人が」と勝手に「日本人」を代表したあげく、その言葉の定義の不明確さによって自縄自縛に陥り、何一つ有効な議論を提起できないでいるような、あのヘタクソぶりを想起させるものだ。この市民右翼たちには、「日本人」などといういい加減な言葉を使うな、と言っておく。また同様に、泥棒エコノミストたちに対しては、「日本経済」なんていい加減な言葉を振り回して悦に入ってんじゃないぞ、と言っておこう。
「日本経済」「日本人」。はあ。こんな脅し文句にすぎない気分だけの言葉に、いつまでも取り合っているわけにはいかない。「ナショナリズムは意識を眠らせる」という教科書どおりの話、イロハのイだ。繰り返し言うが、奴らの言う「日本経済」と、我々が生きて意識している「日本経済」は、まったく別物である。銀行・財界の経済があり、我々の生活の経済があり、奴らに譲るものなどなにひとつない。それだけの話だ。