2016年6月27日月曜日

歴史をねじまげる老害問題

『既成概念をぶちこわせ』のまえがきに、編者のひとり杉村昌昭氏はこう書いている。

 本書を企画するきっかけは、編者のひとり境毅氏が、若い人たちが「社会運動」の歴史をあまり知らないので、若い人たち向けの「社会運動事典」のようなものをつくれないかという相談をしに、昨年夏私のもとを訪れたことである。

 境毅とは、関西の老活動家である。長年「榎原均」という筆名で書いていたから、その名前の方がわかる人が多いと思う。

 で、問題はこの「社会運動事典」に掲載されている「デモ活動」という項目である。Tという著者が書いた「デモ活動」の文章はこうだ。
 大勢の人たちがデモに参加したのは、1960年の安保闘争にはじまる。この時は労働組合は、動員費が支払われた組織動員であったが、学生運動の方はクラス討論を積み上げて、学生大会でストライキやデモ参加決議をあげて参加し、学生自治会が運動の中心であった。安保条約改定の強行採決以降、この運動はより一層広範な人々の担うところとなり、原水爆禁止運動から始まっていた市民運動の人たちも運動に参加した。安保闘争後デモに人が来なくなり、運動が停滞していた時に、ベトナム反戦運動を呼びかけたベ平連がこの安保闘争末期の市民運動を復活させ、そして再び1970年に反政府運動は昂揚し、労働者は反戦青年委員会の運動、学生は全共闘運動を起こし、また武装闘争も取り組まれた。しかし、当時のデモ参加者たちは、デモが終わると、デモが終わると日常生活に戻り、秩序のうちに回収されていた。それもあって、その後2011年の原発事故までは、大規模なデモはみられなくなっていた。
 あのね。
 一文一文が、すべてまちがい。
 書き出しにある「1960年の安保闘争にはじまる。」、これは重大なまちがい。最後にある「その後2011年の原発事故までは、大規模なデモは見られなくなっていた。」、これもまちがい。社会運動史の断片を切り取っているというだけでなく、嘘まで書いている。ひどい文章だ。
誰が書いたのか知らないが、よくこんなものをボツにしないで通したな。まったく呆れてものが言えない。このTという学生が本当に実在するかどうかわたしは知らないが、この特殊な歴史観は普通の学生じゃないだろう。ウィキペディアを見てコピー&ペーストしたら、こういうストーリーにはならない。ただものを知らない学生が書いたというのではこういう文章にはならない。
これは、特殊な老害左翼が学生の耳元に珍説を吹き込んだか、二人羽織で書いたかの、どちらかだ。ていうか、これ、ほとんど榎原均だろ。
やってくれたな。

 わたしはこの「事典」の共著者として、二つの項目を書いている。で、よくわからない老害の自己宣伝に付き合わされてしまった形だ。なんで私や山の手緑や、太田さんや天野さんが、共産主義者同盟の特殊な歴史観の、そのなかでも劣悪な部分に付き合わされなければならないのか。こういうものを放置すると私の評判に傷がつくので、はっきり言っておくが、この「デモ活動」という項目は書き直しだ。0点だ。
まず戦後の公安条例の成立とその契機となった阪神教育闘争について勉強するべきだ。大衆デモが60年安保闘争から始まるなんて珍説は、とんでもない自民族中心主義だ。自民族中心主義による歴史修正だ。


ばかものが。

2016年6月19日日曜日

『RADIO KY』 しばき隊暴行事件についての所感

ひさしぶりにRADIO KY を収録しました。
今回は、関西のしばき隊関係者が起こしたリンチ事件(DV事件)について。







2016年5月27日金曜日

『伊藤野枝伝』をいただきました

栗原くんから献本をいただきました。ありがとう。




『村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝』栗原康著 岩波書店

本の内容については、言及を控えます。
かわりに、現代のフェミニズムについて私が考えていることを書いて、書評にかえます。



 フェミニズムは近代思想の中でもっとも危険な思想です。それはラディカルであると同時にポピュラーであり、諸科学を包摂する理論的な大きさを備えています。
にもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、フェミニズムほど誤解やデマゴギーにさらされてきた思想はありません。フェミニズムに関する人々の理解のほとんどは、デマと短絡とレッテル貼りで構成されていると言っても言い過ぎではない。フェミニストがおこなってきた活動の成果と、一般に流布している「フェミニズム」のイメージは、おどろくほど乖離しています。フェミニストの研究成果が正面から評価されることは少なく、反対に、その成果への心理的抵抗と否認が「フェミニズム」の通俗化を推し進める主たる要因となってきたということがあるのです。


 まわりくどい言い方はやめて、ざっくばらんに。
 第一次世界大戦以降、社会はおおきく変化してきました。なかでも最も大きな変化を遂げてきたのは女性です。女性の役割、社会的地位、生活様式、イデオロギーは、ダイナミックに変化してきました。近現代の社会史を考えるときに、女性のありかたがどのように変化してきたかを無視することはできません。いや、社会史のほとんどは女性史に置き換えることができると言っても言い過ぎではありません。
 そこでまず率直に認めるべき事実は、女性とは歴史的存在であるということです。女性は不変の存在ではなく、時代の変化の前衛に位置し、現代の現代性を先鋭的に表示している、ということです。
 たとえば私が「主婦」と書くとき、それは、現代の主婦です。私がフォーディズムとポストフォーディズムの労働力編成の変化について論じるとき、そこには現代のもっとも現代的な主婦が含まれています。「マルチチュード」や「アンテルプレケール」という概念についてもそうです。現代社会のもっとも現代的な様相を体現しているのは、女性であり主婦である。だから、現代資本主義を分析しようとするときに、「ポストフォーディズム」や「認知資本主義」といった概念を検討するのと同じだけの情熱をもって、現代の女性、現代の主婦に、目を向けるべきなのです。議論の中心にするべきは、彼女たちが体現する現代性です。
 卑近な話をすれば、私はもういまさら20世紀のような「ブルジョア家族モデルにおける専業主婦」みたいな終わった話はしたくないのです。時代はどんどん変化していて、資本蓄積の様態も、主婦の様態も、日々更新されているのだから。昭和のフォーディズム時代の「専業主婦」なんてものは、いまどきそうとう珍しいものになっていて、そんな懐かしいモデルを前提にして「主婦」はどうのこうのと言われても、困る。そんな議論は、わら人形をいじっているのと変わらない。論外です。たとえるなら、ケインズ主義経済学の「トリクルダウン」モデルが失効したように、「専業主婦」の標準モデルは失効しています。いつまで昔の話をしているんだ、ということです。
 議論されるべきは、主婦が体現する現代性です。それは現代という時代をきちんと見るということでもあります。


 さて、いま若い研究者によって『伊藤野枝伝』が書かれて、なぜそれが書かれているのか。そこでなにが読まれていて、読まれるべきなのか。
 私なりに控えめに言うならばそれは、女はめちゃくちゃだ、ということです。
現代日本には6000万人の女がいて、そのすべてがめちゃくちゃだとは言いませんが、そうとう多くの女性たちが、伊藤野枝のような猛々しさをもって生きている。為政者に向かって「お前は権力をもっているが、私より弱い」と言い放つ。そういうありかたは特異なものに見えて、実はとてもありふれた態度でもあるということです。
 私はいま深夜のファミリーレストランで原稿を書いていますが、私の席にコーヒーを配膳するウエイトレスの中年女性がどんな暮らしをして何を考えているのか、私は知らない。彼女が伊藤野枝であったとしても、まったく不思議ではない。そういうことは充分にありうることです。彼女が仕事帰りに何を想うかということを、私は知ることができないが、無関心ではいられない。そこには、この社会を根底から揺るがすポテンシャルが内蔵されているからです。

 こういうことを書くと、極端にロマン主義的な主張だと受け止められるかもしれませんが、そうではありません。
 歴史を参照してみてください。日本の近代思想を飛躍的に前進させたのは、いまから百年前の「大正デモクラシー」です。「大正デモクラシー」の出発点となったのは、1918年の米騒動です。米騒動の起点となったのは、富山の漁村の「女一揆」です。
富山の「女一揆」が日本中の人々に教えたのは、米はあるということ、米は商社によって買い占められているということでした。この啓蒙から「大正デモクラシー」が始まります。彼女たちは下層階級にある無学な主婦でしたが、当時のどんな知識人よりも簡潔に雄弁に、資本主義社会の仕組みを人々に教えたのです。これは知識人はあまり認めたがらない事実ですが、日本の近代思想・民主化運動は、下層の女たちの直接行動によって開始され、爆発的に普及したのです。日本は啓蒙主義思想の希薄な後発国ですが、それでもかろうじて人権概念が普及するにいたったのは、米騒動のおかげです。女がめちゃくちゃに暴れたから、われわれは人権概念を知るにいたったのです。
 伊藤野枝はそんな時代に生きためちゃくちゃな女の一人です。伊藤野枝は一人ですが、一人ではない。無数の「伊藤野枝」がいたし、現在もいるのです。



2016年5月5日木曜日

放射線防護講座のページを新設

YOUTUBEで公開している『中学生からの放射線防護講座』全10回を、一箇所にまとめておきました。

放射線防護講座
http://thoughtofantirad.blogspot.jp/


一回の動画を15分程度でまとめているので、大人の初学者にもおすすめします。

転載・拡散など歓迎です。

2016年4月27日水曜日

原子力とその家臣団



 熊本大地震の対応に関連して、日本共産党は震源地の南にある九州電力・川内原発を停止させることを国に要求した。
 対して、労働組合のナショナルセンター『連合』を支持母体にする民進党は、共産党と同じく川内原発の停止を要求しようとしたが、結局とりさげた。
 川内原発で働く九州電力の社員たちは、その多くが電力総連の組合員であり、『連合』傘下にある労働者である。地震によって原発がスクラムした場合、あるいはベントを必要とした場合、あるいはもっと手の付けられない過酷事故に見舞われた場合、その対応にあたるために高線量被曝の死線をさまようのは電力総連の労働者たちであるわけだが、『連合』はそうした事態を事前に承認してしまったことになる。『連合』は組合員の生命を国にあずけてしまったわけだ。


 ロベルト・ユンクの名著『原子力帝国』では、フランスの電力会社でおきた事例を挙げて、原子力産業が労働者のストライキ権を失効させてしまったことを指摘している。
 原子力発電所の労働者は、他の部門の労働者と同様にさまざまな要求をすることができる。しかし、要求を通すための切り札であるストライキ権を彼らは行使できない。一般的な事業所であれば、労働の停止は事業の停止である。ストライキは誰も傷つけない無血の暴力である。しかし原子力発電所のストライキはそうではない。それは無血ではなく自爆的な暴力となってしまう。いったん原子炉に核燃料が装荷されてしまったら、かたときも目を離してはならない。誰かが常にモニターし、炉心の温度を制御していなければならない。核燃料は常に暴走の危機をはらんでいるからだ。フランスでは、原子炉の管理に関わる労働者が組合中執のストライキ指令をうけて、決行するか否かを検討し、結局ストライキを断念した。電力労働者のストライキは、原子力発電所を除外して実行された。それまで万能だと考えられていたストライキ戦術は、電力部門の一角で覆されてしまったのである。原子力労働は、近代的な労働概念から逸脱し、その破滅を予告する。


 石炭、石油、原子力というエネルギー政策の変遷を、労働者権力の可能性の歴史として振り返ってみよう。

 石炭エネルギーは、人間の労働力に強く依存する。石炭は、労働者がいなければ採掘することができない。炭鉱主は労働者と交渉しなければならないし、ときには労働者に譲歩しなければならない。労働組合運動の原型は、炭鉱労働者がつくりだしたものだ。

 石油エネルギーは、労働者に依存しない。石油採掘は労働力の動員を必要としない。かわりに、採掘権を占有する政治力・軍事力に強く依存する。アメリカ合衆国が近代的な労使関係を発達させることなく反共産主義体制を貫いてきたこと、また、自国企業の権益のためならば外国での軍事行動もためらわないことは、石油エネルギー時代の支配原理を体現したものだ。

 原子力エネルギーは、労働者を奴隷化する。原子力産業に関わる労働は、暴力団の強い関与を疑われたり、地縁・血縁を通じた氏族的支配関係を疑われたりする。原子力労働は、一般的な労働とは違うものだと人々はみなしている。この直感は正しい。
 石炭採掘が労働集約型産業の典型であったのに対して、原子力産業はその対極に位置する技術集約型産業である。技術集約型産業の力の源は、情報の占有と操作にある。技術集約型産業は秘密を管理し、対外的には嘘、印象操作、意味のない議論によって権益を維持する。秘密と嘘が、収益を実現するエンジンである。このとき労使関係とは、たんなる労働力商品の売買という明解で素朴なものではない。会社は、労使の区分を許容しない私党としての性格を強めていく。原子力モデルの労使関係は、成員の全てを秘密と嘘の共犯関係に巻き込んでいく私党的統治に向かう。ここで労働者が動員され搾取されるのは、筋力や技能や集中力ではなく、私党化した会社への忠誠心である。忠誠心は、前近代的でありもっとも現代的でもある、資本蓄積の原理である。

 原子力発電とその汚染をめぐる科学論争は、天動説と地動説の論争のような不毛さに満ちている。この論争に際して、労働組合がまったくなんの役割も果たさないでいるのは、こういうことがあるからだ。天動説はたんに誤った信念というだけでなく、ひとつの権益である。電力会社の社員たち、そして電力総連は、一つの国が滅びるかどうかという重大な局面にあっても会社への忠誠心を手放さない。炭鉱時代の労働者たちが、会社から自立した自我を保持していたのに対して、原子力時代の会社員は近代的自我を放棄している。彼らは私党に仕える家臣団のように、奴隷的労働を美化するのである。

 『連合』は電力総連を切り離すか解体するかしなければならない。この反社会的労働組合と共闘していたのでは、労働運動の大義は失われてしまう。人民の一般的意志から分離したところで労働運動を維持できると考えるなら、それは重大な誤謬だ。電力総連と民社協会に未来はない。早々に切り捨てるべきだ。




2016年4月16日土曜日

九州のみなさん、旅行をしましょう


 熊本大地震は、震度6の余震が続く強度の高い群発地震になっています。現在の震源は熊本市周辺ですが、今後の震源がこの範囲に収斂するとは限りません。東日本大震災の例を見れば、震源は動きます。

 九州電力は、鹿児島県の川内原発を停止させません。国も原発を停止させません。
 こうなれば、いまとりうる最善の選択は、川内原発から200km圏の住民が、予防的に退避しておくことです。
 原発がおかしくなってから動き出すのでは遅いのです。5年前の福島では、退避が間に合わず病院で亡くなられた患者が多数出ています。原発がベントしてしまったら、もう逃げる時間はほとんどありません。車にガソリンを給油している間に放射性物質を浴びせられることになります。

 先行的に予防的に200km圏外に退避しておくこと。これはけっして非現実的な妄想ではありません。福島の経験から得られたきわめて現実的な教訓です。
 とりあえず3日ほど九州から退避して、何もなければ戻ればいいのです。ちょっと小旅行をするつもりで、本州方面に退避しましょう。この旅は、5年前の東日本住民がどのような経験をしたのかを知る疑似体験の旅になるでしょう。

 森くん、ピンクさん、外山とその一派、九州に暮らす友人の皆さん、本州に退避してください。
 私のうちは名古屋ですが、5人ほど受け入れ可能です。