明日は海賊研究会。
ピーター・ランボーン・ウィルソン(別名ハキム・ベイ)の『Pirate Utopias』(ピラテ・ユートピアス)を読んで、レジュメを書かなきゃいけないのだが、もう英文読むの疲れた。ので、少し休憩。日本語を書く。
海賊研究会はけっこうやばい。なにがやばいかというと、海賊の歴史は資料が少なくまだ未開拓の分野なので、一歩まちがえば妄想大会になってしまう。7月下旬の研究会報告から抜粋すると、次のようになる。
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海賊研究の方法的問題
海賊の歴史は古く、おそらく有史以前から海賊が存在したことは疑いない。しかし海賊の歴史研究には大きな困難がつきまとう。海賊行為はその本性からして非公然的であり、存在の秘匿が生命線である。そのため、海賊の存在を証しだてる遺跡は残されず、文書等の記録も少ない。部分的に記録された証言の類も、真実か虚偽か検証することができない。あるときは摘発を逃れるためになりを潜め、あるときは自分が行った行為を他人になすりつけ、またあるときは、相手を威嚇するために実際よりも話を大きくする。海賊は同時代の人々を欺くためにさまざまな工夫を凝らし、実際に欺いてきたのだから、後代の我々がその真の姿を知ることはさらに難しいのである。
こうした単純で強力な理由から、海賊の歴史研究は実証主義の方法を断念させられることになる。遺された証拠や明らかにされた事実からだけでは、海賊の姿は見えてこない。海賊に関わる記録はすべて疑わしい。そしてそれにもかかかわらず、我々は海賊の存在を疑わない。海賊が神話ではなく人類史の重要な一部であることを疑わないのである。
海賊研究は、歴史の領域と伝説の領域との両側に足を置き、検証できるものと検証しえないものをまたいでしまうことになる。したがって海賊研究は、歴史をめぐる方法的立場を慎重に選ばなくてはならないし、新しい方法的立場を大胆に希求しなくてはならない。
(2010/07/17 矢部)
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たとえばいま読んでいる『Pirate Utopias』では、モロッコの大西洋岸にある「サレ」(Salé)という街が登場する。サレは現在のモロッコの首都ラバトに隣接する古い街なのだが、地中海側のアルジェリアやチュニジアやバーバリーに比べ、残っている記録が少なく謎が多い。サレもまた他の北アフリカ諸地域と同じく、レネゲイド(キリスト教を捨てたヨーロッパ人)の海賊の巣窟となっていたらしいのだが、P・L・ウィルソンは、17世紀頃にサレに実在した「海賊共和国」が重要なのだと言う。すでにこのあたりから眉唾なのだが、P・L・ウィルソンがものすごいのは、このレネゲイドたちが建設した「サレ海賊共和国」は、その直後に始まるイギリス清教徒革命に思想的モデルを与えた、という説なのである。それだけではない。独立革命後のアメリカのコモンウェルスや大革命後のフランス共和制が二院制を採用するのは、「サレ海賊共和国」の二院制を原型にしているのだ、と。これには驚いた。「海賊共産主義」なんてものを唱えている私だが、翻訳しながらあっと声をあげた。民主主義の原型が海賊! どはずれた構想力! 「やられた!」って感じだ。
伝説のための闘い
さて話は変わるが、かつて私が敵対していた「在特会」「主権回復を目指す会」について、これにどう対処するかについて、いまさらながら立場を明確にしておきたい。
京都朝鮮初級学校に対する襲撃から、彼ら右翼に対する法的措置(民事訴訟)と現場実力行動が組織されてきた。それに加えて刑事事件としても立件されたことで(京都・徳島)、彼らの組織実体はもうガタガタのフラフラである。ただし問題は残る。事件をめぐるこの間の報道に見られるように、彼らのデマ(在日の特権というデマ)はいまだ是正されていないのが実情である。こんごの課題は、彼らの散布したデマをどうやって片付けるかである。
デマに対抗・是正する方法として、消極的批判と積極的批判が考えられる。
1、消極的批判は、彼らの唱える「在日特権」なるものが、事実ではないこと、根拠の無い思い込み、錯誤に基づく都市伝説であることを明らかにする。
2、積極的批判は、彼らの唱える「在日特権」なる問題の設定が、凡庸で退屈なこと、志が低いこと、人間が小さいことを明らかにする。
賢明な読者はもうオチが見えてしまったと思うが、海賊研究を志す私としては、2の積極的批判を展開するべきだと考えている。
我々のような階級は、正統な歴史にはまったく関わりをもたない、歴史のクズ(scum)である。クズは、歴史書よりも実話誌に親しみ、思い込みと錯誤にまみれた伝説を生きるものだ。「在特会」のデマに魅了されるようなクズは、それが事実であろうとなかろうと、自分の信じたい伝説を信じるのである。すでに15年前、歴史修正主義論争で有名になった「新自由主義史観」のクズどもは、「日本人が誇りを持てる歴史教科書を」と宣言していたわけで(これは学術的にはとても恥ずかしい声明だったのだが)、クズにとって歴史の事実などというものはなんの重みももたないのである。
したがって、クズのクズによる闘いは、それが事実である否かを問うことではなく、その伝説の内容を争うこと、我々クズがどのような伝説を想い生きるのか、を問うことである。L・フェーブルの講義録『歴史のための闘い』になぞらえて(その精神を継承するべく)言えば、海賊研究者は「伝説のための闘い」を運命づけられている。右翼ナショナリズムのクズと、海賊共産主義者のクズと、どちらがより大きな欲望を惹起するのか、勝負だ。
※ピーター・ランボーン・ウィルソンの独占インタビューが、
今年発売された『VOL』4号(以文社)に掲載されている。
http://www.ibunsha.co.jp/index.html
かなりおもしろい。読んでみてほしい。