2010年9月29日水曜日

たちよみ用『原子力都市』序文

序文

本書に収められたエッセーは、2006年から2年間のあいだ、いくつかの土地を歩き書いたものだ。
どんなところであれ、人が生きる土地には人の手が加えられていて、都市化されてきた歴史がある。都市の歴史はいくつかの時代が地層をなして折り重なっているものだろう。そして、歴史とは現在を基点にして遡っていくことでしか見えないものなのだとすれば、問題となるのは、現在という時代をどう規定しどのようなものとして捉えていくか、である。

「原子力都市」は、ひとつの仮説である。
「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。それは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。
都市が尺度を失っているという主張は、ずいぶん拙速で観念的な主張だと感じられるかもしれない。しかし、実際に街を歩いてみてほしい。充分に時間をとって何日も街を歩いてみれば、私が何を言わんとしているか感じてもらえるはずだ。

原子力都市の新たな環境のなかで、人間の力はいまはまだ小さな犯罪や破壊行為におしやられている。だが、こうした小さなうごめきもいつかは、政治と文化をめぐる一般理論を生み出し、確固とした意思を持つことになるだろう。この無数のうごめきがはらんでいる創造性を解き放つために、いま考えなければならないことがある。
生活が味気ないというだけの話はもうそろそろきりあげて、次の話をしようと思う。

(『原子力都市』 以文社 2010)