ナンシー関画伯が亡くなって10年になる。没後10年だ。
なぜ突然こういうことを書くかというと、いまひさしぶりにピエール・ブルデューの本を読んでいて、まだ自分が若かった90年代を思い出したからだ。そういえばブルデューも没後10年だ。
90年代に出会ったいくつかのテキストのなかで、まだ20代だった自分が本当にウキウキして読んだのは、ブルデューとナンシー関だ。この二人が著す軽妙な文章から、観察と表現の科学的スタイルを学んだような気がする。
いまナンシー関が生きていたら、日本の顔面をどう批評するだろうか。東電広報松本とか、東工大の赤メガネ澤田とか、いじりたくなる顔面がたくさんあるだろう。なんてことを考えていたらまた眠れなくなっちゃったよ。というわけで、今日は故ナンシー関画伯をリスペクトしつつ、山下俊一の顔面について書いてみよう。
山下俊一である。福島県の「放射線健康リスク管理アドバイザー」である。
彼の特徴はまず紳士であるということだ。姿勢が良く、落ち着いた話しぶり、そして清潔感がある。微笑んだ顔なんかはけっこう可愛い。いやはっきり言おう。山下は、いかしてる。このことは彼の師匠である長瀧重信と比較するとよくわかる。長瀧の顔はいかにも悪代官の顔面で、微笑んだりするとさらに悪い連想を惹き起こすいやな顔だ。山下も長瀧も言っていることは同じなのだが、やはり大衆向けの見栄えする顔というのはあって、そういう面で長瀧はアウトだ。山下が福島県に派遣された主な理由は、彼の見た目が抜群に良かったということだろう。
しかし山下の秘密の核心は、たんに見た目がいかしてるということではない。彼が口を開いたときにふっと見せる間の抜けた雰囲気、バカっぽさである。山下が口を開くと、なんか学者という感じがしない。定食屋の気のいいおやじみたいな。っていまどきそんな定食屋はないか。このことは静止画では良くわからない。動画で見るとわかる。山下は、止まっている状態では身だしなみの良い賢そうな紳士なのだが、口を開いて話し出すとそれが反転して、一気にバカっぽくなるのである。緩急があるというのか、ギャップで勝負というのか。彼の本領はこの点にあって、私はただのバカだとしか思えないが、ある種の人々にとってはまさにそれが「フランクさ」として映るだろう。学者に対する恐れや反感をもつ人にとっては、「親近感」すら覚えるかもしれない。そもそも講演に来ている聴衆のほとんどは話の内容など聞いていないのだから、ここではどのような印象を獲得するかが勝負なのである。
山下を批判する人々にとって彼の講演は悪魔的に受け止められているのだが、多くの聴衆にとって話の内容なんてなんだっていいのである。講演を成功させるコツは、内容を最小限に抑え、表面的な印象で気分を高揚させることだ。瀬戸内寂聴がやってきて耄碌じみたウワゴトを喋っても喜ぶ連中だ。大切なのは身だしなみ、そして話したときの親近感である。はじめから議論の接点はなかったのだ。
放射能汚染という重大な事態にたちいたっても、この中身スカスカな感じが「原子力の時代」ってことなのか。っつっても納得できないなぁ。そもそも「アドバイザー」って役職がなんなんだってのもある。怪しすぎるだろう、肩書きとして。