将棋は護るべき者が定まっている。王を護ればよい。将棋とは、王を中心にして陣形をつくり、最後まで王を護りきる闘いである。将棋に強くなりたければ、王の立場に感情移入をして、つとめて臆病に被害妄想的に王を護ることだ。
これに対して囲碁は、王のいない闘いである。囲碁には護るべき中心がなく、陣形は流動的でしばしば裏返しになる。囲碁は陣形を流動化させ、中心と周辺、前線と後方を、裏返していく闘いである。
盤面の展開を比較すれば、囲碁というゲームが異常に好戦的で、純粋に戦争的であることがわかる。将棋が王の防衛に時間を費やすのとは対照的に、囲碁は常に前のめりに攻撃を繰り出していく。将棋では相手に先んじて勝ち取った時間を王の防衛にあてることができるのだが、囲碁ではすべての時間が攻撃にあてられる。
将棋では、まず陣地があって、陣地を脅かす敵に対抗する過程で戦線が形成される。囲碁では、まず戦線が形成され、その死活の結果として陣地が形成される。ここでは陣地と戦線、平和と戦争のプロセスが、逆転しているのである。
囲碁が純粋に戦争的であるというのは、石の性格にもあらわれている。囲碁の石というのは一見すると平板で個性のないものに見える。将棋の駒があらかじめ個性と役割を与えられているのに対して、囲碁の石はただ「ある」ということを表示するだけに見える。しかし、盤面が形成されるにしたがって、その全体的状況と局地的状況のありかたが、一個一個の石の多様な顔を生み出していく。最前線の要地で懸命に踏ん張っている石、つかの間の平和のなかでのんびり休んでいる石、敵に包囲され青ざめている石、さまざまな表情があらわれる。それは戦争に先だっては存在しない、戦争によって付与された個性であり運命である。もしもこの戦争がなければ、彼らはただの石にすぎなかっただろう。戦争のために彼らはただの平凡な石であることをやめなければならなかった。彼らの力を引き出し非凡さを発揮させるのは、ただ一つ、戦争によってなのである。
将棋と囲碁の違いを並べてたてて、いったい何が言いたいのかと思われるかもしれない。こんなことは20年も前にドゥルーズ/ガタリが論じたことを引き写しているだけではないか、と。
私がここで言おうと思うのは、放射能防護活動がどのような見通しで営まれているかである。2011年3月以来、我々はまったく予想しなかった放射能との対決を強いられ、同時に、日本社会との闘争に投げ込まれてしまった。ここで我々が直面するのは、この闘いの力学をどのようなものとして構想するかという認識の混乱であり、闘いの様式をめぐる問いである。戦争を遂行する二つの様式があって、その論理はまったく異なっている。そのことを将棋と囲碁の比喩で言おうと思うのだ。
戦争を将棋のように想像することは容易だ。それは位階制秩序における政治をよく模写しているからだ。中心に王がいて、その両脇に金将・銀将・飛車・角という将が構えていて、王と将の力を後ろ盾にして歩兵が動いていく。通常の社会における政治は、将棋のような配置と力学をもつ。しかし叛乱と革命戦争を何度も経験してきた中国では、将棋の秩序が破られてしまう純粋な戦争があることが知られている。純粋な戦争状態では、王と将と兵の区別のない無政府状態があらわれる。このことを表現したのが囲碁だ。
将棋の駒はすべて本質的に捨て駒である。将・兵の駒は王のために死ぬことを予約されている。しかし囲碁の石はすべて活きるべき石である。それが結果として敵に撃たれ捨て石となってしまうにしても、はじめから死ぬために置かれる石はひとつもない。なぜなら囲碁が表現する純粋戦争には王がおらず、すべての石が王だからである。すべての石が王となって死活的な戦闘を闘うからこそ、陣形を転覆するダイナミズムが生まれるのだ。
放射能との闘いは国家と社会が対峙する従来の図式が崩れていて、我々はもう将棋の駒のような意識では闘えない。「何かのために身を捧げる」という中途半端な構えでは、この闘いを闘いきることはできない。一つ一つの石ころが王にならなければならない。
追記
いま読み返したらちょっと電波っぽい文章なのでもう少し説明的に書くと、ここで言いたいのは、「陣地線」や「二重権力」あるいは「サンヂカリズム」というものを、まるで将棋の盤面のようにイメージしていたのではだめだということである。それは、構成されたものと構成するものとをさかさまに見て、結果と原因を転倒させた意識である。完全に誤謬である。
これまでの短い歴史のなかで、社会運動というシーンに自分の位置と役割があるかのように勘違いしている人間は、はやく目を覚ませと言いたい。おまえはただの石にすぎない。ただの石が闘うときにこそ、状況が動くのだ。