運動の事務局作業に追われているが、今週末は完全にオフにすると決めた。休む。
2ケ月前に起きた山上徹也氏の銃撃事件以来、みんな表情が明るくなったように思う。もういい大人だから声をあげてはしゃいだりはしないが、体の奥底から活力が湧いてきている。山上さんありがとう、と言いたい。
山上氏の闘いは、政治的な文法に媒介されない私闘(私戦)であった。
この私闘は、驚くほどすんなりと人々に受け入れられ、社会秩序にかんする私たちの感情を逆なでしなかった。いや逆なでしなかったばかりでなく、反対に、社会秩序の回復を願う多くの人々に希望を与えることになった。
彼は、政治的な意図も表現もいっさい含ませることなく、純粋な復讐として闘いを遂行したのだが、そのことがかえって、人々が共感する普遍的な義を表現することになったのだ。
社会運動にたずさわる活動家の多くが山上氏に共感しているのは、この点である。右翼は混乱して肝心の部分を見逃しているのだが、私たち「左翼」が山上氏に共感するのは、政治的に敵対する安倍を倒してくれたから、ではない。問題は政治の左右ではない。私たちが共感しているのは、山上氏が政治的なお題目を振りかざすのではなく、むしろ政治的言語を排して、私闘をやりきったという点である。彼の反政治的姿勢が、社会運動の根本原理と共振しているのである。
たとえば私が、原発事故の賠償請求訴訟に関わって裁判支援運動に力を注いでいるのは、私が経産省と東京電力に対する報復感情を持ち続けているからだ。こういう人間は特殊な例ではない。たくさん存在している。数えきれないほどいる。社会運動というものは、その起点と核心に私闘的性格を含んでいるのである。
山上氏が放った銃声は、そのことを想い起させてくれた。
私が反原発運動に加わるのは、日本のエネルギー政策がどうのこうのという政策の議論がしたいからではない。経産省の役人を土下座させて詫びをいれさせるために、闘っているのだ。