2011年3月。東日本大震災の被害を伝えるテレビ報道のなかで、ひとりの女性が画面に映しだされる。彼女は津波を逃れて生き残った一人だ。彼女は静かな興奮を抑えながら、語る。私は介護施設に勤めていた。施設にいた老人は置いてきた。私は助かった、と。その後、全国に知れわたることになる「いのちてんでんこ」の規則である。
「いのちてんでんこ」とは、津波災害をたびたび経験した沿岸地域で伝承されてきた避難規則である。津波から逃れるために高台を目指して避難する。このとき、誰かを助けようとしてはいけない。自分が避難することだけに専念しなくてはならない。親も兄弟も子供も、誰も助けず、うしろを振り返らず、自分の命を守るためだけに走らなくてはならない。これが「いのちてんでんこ」の規則である。
親も子も助けず、バラバラに、「てんでんこ」にならなくてはならない。この規則は、津波災害の過酷さを反映したものだろうか。ある一面ではそうだ。津波の速度ははやく、誰かを助けている暇などない。誰かを助けようとした者が水に呑まれてしまうということは充分にありうる。津波災害から命を守るためには、人と人の助け合いということを忘れて、バラバラにならなくてはならない。
これは、私たちが通常考えている「共同性」を解除する例外的な規則であるかに見える。生命の存続に関わる非常事態だからこそ許容される例外的な規則である、と。
しかし、本当にそうだろうか。もう少し考えてみると、「いのちてんでんこ」という規則がもつ別の側面が見えてくる。この規則が、例外的な事態から要請されるのではなく、むしろその反対に、村の日常の秩序をまもるために要請されていることがわかる。
沿岸部の村落が津波災害にたびたび襲われるということは、津波の被害が軽微であったり、まったく被害がない場合もあるということである。このとき、避難した者も避難に遅れた者も、全員が生き延びることになる。そうして津波騒ぎのあとに全員が日常の生活に戻っていくわけだが、ここで元の生活に戻れるかどうかが問題だ。
「いのちてんでんこ」の規則がなかった場合、人は誰か身近な者を助けるだろう。それは家族かもしれないし隣人かもしれない。しかし、すべての人がすべての人を助けるということはできなくて、誰かに助けられた者と誰にも助けられなかった者が生まれてしまう。母親が家にいた次女を抱えて避難したが、外に遊びに出ていた長女は置いてきてしまった、ということがありうる。それがたとえ偶然にそうなったのだとしても、結果として保護された娘と保護されなかった娘がうまれて、被害が軽微であった場合、どちらの娘も生き延びるのである。彼女たちがもういちど同じ屋根の下で暮らすのはそうとう難しいだろう。親と娘のあいだ、または二人の娘のあいだに、遺恨が生まれないわけがない。
あるいはこういうことも考えられる。ある身寄りのない老人がいる。彼女は歩行が不自由であったが、隣に暮らす若い夫婦に助けられて避難することができた。この老人が自分を助けた夫婦に恩義を感じるということはありうる。若い夫婦が恩に着せるような素振りを見せなかったとしても、一方的に恩を感じることはありうる。彼女は自分を助けた夫婦に「借りがある」と感じ、あるいは、ふたたび津波が襲ったときに支援されることを期待するかもしれない。若い夫婦は、年老いた隣人を気にかけ、なんらかの責任意識をもってしまうかもしれない。あるいはその反対に、頼りにされることに疲れ、面倒だという感情を抱くかもしれない。こうしたもろもろの意識は共同体の秩序にとって破壊的な作用を及ぼす。生命をめぐって「貸し借り」の関係がうまれてしまうことは、それがほんの些細な感情だとしても、人々の関係を蝕んでいく。小さな村落の社会が健全な秩序を回復するためには、そのような「貸し借り」の感情は強く戒めなくてはならない。
津波騒ぎのあとにどのように元の秩序を回復するか。人々は生命の危機をかいくぐったあとに、「恨みっこなし」の「貸し借りなし」でなくてはならない。そうでなければ元の生活に戻れないのである。「いのちてんでんこ」の規則が、古くから根強く伝承されてきたのは、これがただ生命を守るためだけではなく、共同体が要求する平等と無支配の秩序を維持するためにあるからだろう。
だから、津波を逃れた女性が「老人を置いてきた」とすがすがしく語るとき、それは、自己の生命のために共同体を放棄したということではない。そのように見えるのはカメラのレンズが歪んでいるためだ。実際に起きているのはそれとは逆のことであって、彼女は自己の生命を賭けて共同体の秩序を守ったのである。だから彼女はなんのためらいもなく確信をもって語るのだ。たとえその村落が回復不能で、もう元の生活には戻ることができず離散を余儀なくされるのだとしても、それでも彼女たちの思想は生き続ける。これまでの長い時間の中で、おそらくいくつもの村が壊滅してきたことだろう。そうして村は幾度か消滅し、思想が生き続けてきたわけだ。
「いのちてんでんこ」の伝承は、我々が考えうるもっとも古い地層に位置するものである。それは、「防災」という観念が生まれるずっと前から、さらには、この地域が歴史に書き込まれるずっと以前から、長い時間をかけて練り上げられてきたものであるだろう。この未開的特徴をもつ社会思想が、現代のわれわれに強い衝撃をもって教えるのは、共同体は不変ではないという事実である。共同体はある日突然に滅びることがある。なんの前触れもなく突然に、家族も財産も生活の糧も失なうことがある。この単純な事実を見るとき、人々は生成消滅する社会の動的性格と向き合うことになる。人間の生活が根をおくべきは、なにか確固としてみえる社会制度ではなく(それは幻想である)、社会の動的性格を踏まえ、ひとりひとりの人間が社会をどのように構成してゆくのかという原則である。
村落をまもるためにどれだけの防災対策を施すかという議論は、思想ではない。堅牢な防潮堤の建設が人間の秩序を生みなおすわけではない。それは災害という問題を考えることを回避した結果にすぎない。真に問題となるのは次のことである。人知を超える圧倒的な力が共同体を崩壊させるとき、そこで生きる人間がもういちど生きようとするときに、どのような原則が人間を生きさせるのか、ということだ。死にさらされて生きている生命が、死の恐怖に囚われるのでなく、死を忘れてしまうのでもなく、どのように生きられるだろうか。死をめぐる感情と思考の隘路に踏み込まず、しぶとく生きていくために、どのような原則が必要なのか。この問いは抽象的な問いではない。日々の生活が要請するきわめて具体的な問いである。
2011年3月末。水道が汚染された東京では、人々がペットボトルの水を買い求めていた。政府とマスメディアはこれを「買い占め」と呼んで非難した。消費者を悪魔化する常套手段である。しかしマスメディアによる恫喝的報道とは対照的に、人々はそれを「買い占め」とみなすことはなかった。それはただ買い求めているだけであって、けっして「買い占め」ではない。
このとき浮きぼりになったのは、国家の考える「秩序」と、人々の考える秩序との、噛み合わなさである。国家は人々がめいめいに実践する自力救済活動を「秩序」の障害であるとみなした。しかし人々は、てんでんばらばらに行う自力救済が秩序に反するとは考えなかったのだ。
もちろん物資は不足していたから、すべての人に必要な量の水が行きわたったわけではない。水を買うことができず、汚染された水道水を飲んだ人もいる。にもかかわらず、人々は大きな衝突も混乱もなく、整然とスーパーの売り場に並んでいたのである。あるいはこれは経産省が行った「ただちに影響はない」という告知の効果だろうか。人々が「放射能は危険ではない」と考えたから混乱が起きなかったのだろうか。そうではない。人々は放射能汚染の脅威を知っていた。だからみなペットボトルの水を買い求めたのだ。ここにあらわれた秩序は、国家の考える傲慢な「秩序」ではなく、国家的思考の彼岸に位置する秩序である。
2013年6月末、東京で何人かの人々と会って、話をした。私が想像していた以上に、東京の人々はバラバラになっていた。この二年間とりくまれてきた大規模なカンパニア運動は、彼らの心をひとつに束ねるのではなく、バラバラに引き裂いていた。ちょうど一年前、官邸前のデモを「アラブの春」と重ねたり「あじさい革命」と呼んだりしたことは、もう忘れられていた。民衆運動をひとつに束ねようとしたあの熱気は、おおきな挫折感だけを残して消え去っていた。
これは、よい徴候である。
バラバラになることを恐れたり、そのことで絶望したりしてはいけない。反原連(首都圏反原発連合)は敗北した。それは敗北するべくして敗北したのだ。この事実に次の状況を拓く展望をみるべきだ。共同体を不変とみなす「民主主義」のモデル(運動のモデル)は、その無効性をあきらかにした。他方、全国で展開される放射線防護活動は、てんでんバラバラに実践され、個別に成果を上げ、着実に前進している。それは「運動」と呼ぶよりも「騒動」と呼ぶのがふさわしいやりかたで、「共同性」の解体を進行させるのだ。
この「騒動」はあらたな民主主義を産むゆりかごである。共同性に依存した「民主主義」モデルを離れて、共同性を解体する分子状民主主義を発明しなくてはならない。いまはそのチャンスである。より意識的に共同性を解体し、動員を解除し、個の自律性を高めるべきだ。その先に考えられたものだけが、今後、意味をもつことになる。
群れたい者は群れさせておけばよい。それらはじきに滅ぶ。