2013年7月25日木曜日

ツイッターとその反動


 仮説としての「原子力資本主義」は、透明性と柔軟性を備えた管理型権力である。それは、主権がまるで主権ではないように振る舞う世界だ。不正や暴力はまるで偶発的な事件のように演出され、人々に追認され、支配の構造が見えなくされる。

 ところで、2011年の放射能拡散以後にあらためて考えてみるべきは、いまこの管理型権力は可能か、いまそれが実現しているのか、ということだ。
 政策の現状を離れて考えてみれば、放射能汚染という事態は、管理型権力のブラッシュアップにとって絶好の機会であったように思われる。それは人々に例外なく驚異を与え、生活の細部に浸透しつつ、生存のあらたなコードを要請するはずだ。汚染を判定するための基準づくり、リアルタイムで更新される情報環境の整備、防護対策の規格化、医療措置と保険の規格化は、人々の生に肉薄し、包摂する。ここで目指されるべき統制は、汚染被害を単純に隠蔽するのではなく、反対に汚染を摘発するようなしかたで情報を管理し、人々が自ら被害を受け入れるように仕向けることだ。汚染実態を積極的に調査し、情報環境を整備しつつ、その判定基準と作業規格に介入(独占)することだ。そうして人々に対しては自己決定/自己責任のゲームを演出し、暴力の構造を不問にさせるのだ。現在の情報技術を利用すれば、為替相場や株価情報がリアルタイムに伝達されるようなやりかたで放射能汚染を視覚化し、権威づけ、「指令なき指令」を貫徹することができる。それは旧い規律型権力では実現できなかったような強さで、より包括的な支配を形成しただろう。
 しかし現実はそうならなかった。20137月現在、日本政府は管理型権力を完成していない。民主党政権は初動の対応において管理型権力を試みようとした形跡があるが、そのあとを継いだ自民党政権はむしろ規律型権力へ退行しているように見える。政府は汚染実態を隠すことに一定の成功をおさめたが、情報を隠しているという事実を隠すことができなかった。むしろ情報を統制する政府自身の姿が白日の下にさらされてしまった。「安全・安心社会」は情報技術によって誘導・操作されるのではなく、ただたんに規範として押し付けられ、その指令のもつイデオロギーを露出させてしまっている。

 現状における管理型権力の失敗をよく表現しているのは、ツイッター(スマートホン)というメディアである。ここには、新しいメデイア技術がもつ革新性と、それにたいする反動とが書き込まれている。
 ツイッターの革新性を世に知らしめたのは、千葉県市原市のガスタンク爆発をめぐる警戒情報だった。このとき、炎上で発生した煙の危険性を伝えたのは、テレビでも新聞でもなくツイッター(と携帯メール)だった。この警戒情報を政府は「デマ」として退けたわけだが、この日から、スマートホンとツイッターは災害情報を交換する重要な手段になっていった。それはとくにマスメディアが取材対象としない郊外地域において力を発揮した。ツイッターは、地域の個別的な情報をきめ細かに伝えたのである。災害情報に次いで、各地域における放射能汚染の情報がやりとりされる。これもまたマスメディアが不可視化させたものを可視化させる働きをした。政府の広報機関となった新聞とテレビは、汚染の詳細な実態を伝えようとしなかった。いくつかの週刊誌は首都圏の汚染を実測して伝えたが、速報性ときめこまかさに欠けていた。放射性プルームは高速で、汚染濃度の分布はまだらにあらわれる。この特性によく対応したのは、ツイッターという新しい情報技術だったのである。
 ツイッターは、まず市民の自力救済を支援する道具としてあらわれ、つぎに、政府の情報統制にあらがう抵抗の道具としてあらわれた。それはいまでも放射線防護活動をおこなう人々にとって重要な道具であり続けている。政府はこの情報の流れを掌握することに失敗した。ツイッターは政府が管理することのできないものとなってしまったのだ。
 ツイッターの革新性はリアルタイムに更新される情報伝達としての利用だったのだが、これにたいする反動は、情報の解釈、議論、規範意識の表明としてあらわれた。議論の余地のないところにわざわざ議論を持ち込み、規範意識を表明する利用者があらわれたのだ。
 これは新しいメディア技術に旧い規律型権力を持ち込み、その機能に制動をかけるものだった。それは一口に言えば、ツイッターをテレビ的に解釈・運用するものだったと言える。たった140字で意見を表明したり議論をふっかけたりというやりかたは、実にテレビ的でワンフレーズ頼みの、まるでワイドショーのコメンテーターやタレント議員のような振る舞いを流行させた。ここからツイッターは中高年男性の無駄な自己主張を垂れ流す道具となる。ツイッターで表明される意見がしばしば独善的で、内省や繊細さや美意識を欠いたものであるというのは、事実である。それはツイッターというメディアのせいではない。その原因は(一部の)利用者が持ち込んだテレビ的ハビトゥスである。ワンフレーズで、粗雑で、反知性的で、無責任で、言いっぱなしであるという特徴は、その人間の内容がテレビだったからである。内省や熟考よりも、押しつけがましい精神論が勝ってしまうというのは、ツイッターの特性ではなく、テレビの特性である。

 ツイッターはその革新性のために、反動の標的となり、テレビ人間の攻勢にさらされている。ではツイッターは、旧いテレビ文化に呑み込まれ、テレビ人間に占有されてしまうのだろうか。
 そうはならない。

 現代の情報技術の起源は、米軍の核戦争体制(戦略爆撃体制)が生み出した情報技術からきている。軍事技術としての情報技術は、「CI」(シーキューブドアイ、3つのCと1つのI)という思想で表現される。すなわちCommand(指令)、Control(統制)、Communication(伝達)、Intelligence(情報取得)である。この核戦争のための情報技術から派生して、現在の民生用インターネット環境ができあがってきたわけだが、ここで注目すべきは、軍用技術から民生技術へとスピンアウトしたときに、「CI」の思想は継承されなかったということだ。軍用の情報技術においてCommand(指令)とControl(統制)は必要不可欠なものだが、民生用に転用された情報技術においてはこの二つが排除され、Communication(伝達)とIntelligence(情報取得)に純化していくのである。
 ツイッターは、テレビ的ハビトゥスに表現の場を与えつつ、それを対象化し、陳腐化させる。たとえばある有名人が亡くなったというニュースが流れたとき、「ご冥福をお祈りします」というコメントが氾濫する。ここで膨大な量の利用者が「ご冥福をお祈り」してしまうことで、そのテレビ的ふるまいそのものが戯画化され、陳腐化することになる。あるいは「ぱくツイ」という行為が流行する。「ぱくツイ」とは、他人のツイートをサンプリングし流用する行為だが、これは、「私的な表現」や「自発的な表現」に見えていたつぶやきを、広告のキャッチフレーズの焼き直しであるかのように見えさせてしまう。
 ツイッターは人間に表現させ、表現を対象化し、陳腐化のふるいにかけていく。ここに持ち込まれるメッセージ、二つのCCommand,Control)は、その内容にかかわらず、意味を打ち消され衰弱させられてしまうのである。

 菅政権がおこなった「絆」キャンペーンは、現在、暗礁に乗り上げている。その要因のひとつは、現代の情報技術のもつ遠心的性格が、「絆」というCommandを陳腐化させたからだ。いまいったいどれだけの人々が「絆」を信じているだろうか。同様に、「復興」も「福島」も「東北」も、あらゆる指令が陳腐化し、衰弱していく。政府は「復興」の号令をかける。しかし「復興」が実体を欠いた想念にすぎないものであるということを、誰もが知ってしまっている。現在の情報環境は、「復興」政策の失敗と流血をリアルタイムに伝達しているからである。
 「絆」、「復興」、そして「共同体」は、いまやマスメディアの放つイメージのなかにしか存在しない。それはメディア産業の衰退とともに消えていくだろう。


追記

 冒頭に考えた管理型権力の問題について、尻切れになっているのだが、これはやはり、「主権」を日本国家の枠で小さく考えていたのでは見えてこない問題であるだろう。アメリカ政府、そしてIAEAという大きな権力について考える必要がある。
 民主党政権による初動対応で注目するべきは、福島第一原発の収束作業を政府の事業としては引き受けなかったことがある。菅直人は東京電力の撤退を許さない一方で、自衛隊の撤退は許しているのである。このとき以来、収束被曝作業は民間事業となり、政府の責任は追及されないことになる。自民党政権も、菅直人を批判しながらこの路線を踏襲する。この決定は、アメリカ政府とIAEAにとってうれしいニュースだったに違いない。菅直人という政治家が海外で高く評価されるのは、この政策判断によるものだろう。