5月から山の手緑が名古屋に来る。夏頃まで家に滞在し、共同作業をする。毎日、合宿だ。「矢部史郎+山の手緑」の名義で一冊の本を書くつもりで臨む。
というわけで、合宿の準備のために覚書を書いておく。
『VOLレキシコン』(以文社)のなかで、山の手緑の書いた項目「女」(29頁)を参照する。
「女性は一つのすべて(全体an all)を形成しない」
この命題に接近するために、ちょっと考える。
放射能拡散後に、日本社会は二つの悪魔を見出している。
一つは朝鮮や中国といった隣国である。政府とマスメディアは、無人島の領有権やミサイル問題にかこつけて、ことさらに「脅威」を煽り立てている。隣国の脅威、排外主義、国民意識の集約という、教科書どおりのコースだ。国家の国民主義が上昇する中で、外国人恐怖のデマゴギーが流布されている。
もう一つは、主婦である。これは日本社会にとっての「内なる敵」である。放射能汚染が引き起こした混乱の中で、問題の結果であるものを問題の原因とみなす悪質なデマゴギーが生まれた。その標的にされたのが女性であり主婦である。いま日本社会の表面では、女性嫌悪または女性恐怖が上昇している。
先日、フリーター全般労働組合のシンポジウムに登壇したが、やはり左派の運動内部にも女性恐怖があることを確認した。会場には、主婦の運動に共感する者だけでなく、主婦の運動に対する敵意を露わにする者もいた。もともと新左翼なんて男性中心主義じゃないかと言われればまあそのとおりなのだが、ここではもう少し問題を敷衍して、なぜ「左派」を自認する社会運動のなかに女性恐怖が巣食っているのかを考えてみたい。民族差別に対しては毅然として反民族主義(反レイシズム)を主張する人々が、なぜ性差別については奥歯にモノの挟まったような言い方になっているのか。放射能汚染という公害問題でもっともしわ寄せをくらっている主婦に対して、共感を示すどころか敵意を持ってしまう分子がいるのは、なぜなのか。民族差別発言は民衆の連帯を妨げる運動破壊であるとみなす人々が、なぜか性差別については寛容で、これが重大な運動破壊であるとはみなされない傾向がある。反原発運動の内部にも、主婦への共感をはっきりと拒絶する態度があるのだ。
話を進めよう。
国家の国民主義が民族主義を扇動するなかで、日本の社会運動はこれをはっきりと拒絶している。対して、国家が主婦を悪魔化し「女が騒ぐから問題が解決しないのだ」と扇動するとき、社会運動はこのデマゴギーになかば呑み込まれてしまった。「復興」の国民主義を前にしたとき、日本の社会運動は、主婦を敵視する復興翼賛派を生み出してしまった。いや、問題を外部化したのではおもしろくない。もう少し切り込んで言うならば、日本の社会運動が含みもつ国民運動としての性格が、必然的に、女を排除したのである。
それはどういうことか。二段階のプロセスが考えられる。
まず、放射線防護活動のもつ特異性がある。特異性ということをもっとならして言うと、活動の私的性格である。放射線防護の実践とは、私的な自力救済の積み上げである。社会全体がどうあるべきかは、はるかかなたの実現目標であって、さしあたってはおのおの身近なできることから解決していく、という実践だ。これが国民運動とは決定的に違う点である。カンパニア運動で何万人を動員したかで成果をはかる運動とは、立っている場所が違うのである。放射線防護活動とは、どこまでも私的な闘争である。防護派の実践は「公共」や「公的なもの」を信じていない。「公共」など吹き飛んでしまったという認識から防護活動が始まる、と言ってもいい。このことが、国民運動にとって防護派をうろんな者に見えさせている原因である。まずはじめに、防護活動への不信がある。
そして次の段階に、「けっして信用してはいけない私的なもの」の表象として、ステレオタイプとして捏造されるのが、「主婦」であり「女性」である。
逆の言い方をしよう。社会運動が含み持つ国民意識は、まだ「公共」の概念を信じているのだ。
それを破壊する者がいなければ、「パニック」じみた防護騒動がなければ、正しい「公共性」が回復できるのだ、と。そうした意識にとって、防護派は、敵とも味方ともつかないうろんな者に見えるのだ。防護派としてはっきり言うが、いや無政府主義者としても強く言うが、これは無知蒙昧というものだ。みなさんが信じていた「公共」なんてものは、東京電力の株主が左右する私的な「公共」にすぎない。そもそも国家とは私的なものだ。そのことを異論の余地なく明白にしたのが原子力政策ではなかったか。そしてこの明白になった事実を前に、まだ政府の公的性格を期待しようとする甘さ弱さが、防護活動への不信を生み、女性差別を容認するのである。
それを破壊する者がいなければ、「パニック」じみた防護騒動がなければ、正しい「公共性」が回復できるのだ、と。そうした意識にとって、防護派は、敵とも味方ともつかないうろんな者に見えるのだ。防護派としてはっきり言うが、いや無政府主義者としても強く言うが、これは無知蒙昧というものだ。みなさんが信じていた「公共」なんてものは、東京電力の株主が左右する私的な「公共」にすぎない。そもそも国家とは私的なものだ。そのことを異論の余地なく明白にしたのが原子力政策ではなかったか。そしてこの明白になった事実を前に、まだ政府の公的性格を期待しようとする甘さ弱さが、防護活動への不信を生み、女性差別を容認するのである。
最初の命題に戻る。
「女性は一つのすべて(全体an all)を形成しない」
このことを是認するならば、自動的に次のように言うことができる。
「社会は一つのすべて(全体 an all)を形成しない」
まあ、あたりまえのことだ。人間が生きている現実とは、そういうことだ。放射能汚染はこの事実を無視できないほどに前景化させたのだ。
だからいま、「社会」だとか「社会運動」ということを構想するときに、その社会的想像力のヘゲモニーが動こうとしている。これまで語られてきた「一般」や「普遍」という概念が、おそろしく平板なものに見える。そして己の概念の平板さを擁護するために、誰かを差別して切り抜けようとする者がいる。性差別が容認されることとは、その概念の弱さに甘んじることである。この意味において、「性差別は弱い男の習慣である」という見方は正しい。概念を考え抜く力が欠乏し、息切れしているのだ。