知り合いがパクられて、私は救援に動くので、今後それ関連の身辺雑記が増えてしまうと思う。
で、海賊研究会。前回はどうにもアツいヤバい感じだったが、詳細を報告している時間がない。
レジュメをそのまんま貼るという暴挙にでようと思う。
次回は12月18日(土) カフェラバンデリアにて
廣飯くんの研究報告で、今年は締め。
そのころに釈放されてると良いのだが、こればっかりは予測できない。
以下、前回れじゅめ。
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海賊研究会 れじゅめ 20101204 矢部史郎
・まずは清教徒革命のあらすじ
革命前の状況
政治 対外戦争による財政悪化、国王大権による徴発、国王と議会の対立
経済 資本主義的農場経営、貴族・富農のジェントリー化、人口爆発と貧困層の形成
宗教 国教会の権威低下、ピューリタン諸派の活性化、「千年王国」信仰
1628 議会からチャールズ1世に対して「権利の請願」
1629 議会の強制解散、チャールズ1世の専制(11年間の専制)
チャールズ1世は、王権神授説に基づく国王大権(徴発権)を行使して財政再建を進めようとしたが、王室は徴税を実行するための有効な官僚組織を持たなかった。現実には、地方貴族とジェントリーの協力がなければ、徴税と財政再建は不可能だった。
1640 国王が議会を招集。
1641 議会は、国王大権の制限、議会主権を主張する「大抗議文」を可決
1642 「大抗議文」をめぐって議会が分裂。国王逃亡。
国王派と議会派の内戦に突入。
議会派は、政治的に反国王であるだけでなく、国教会支配に対抗するピューリタン諸派の宗派闘争も含んでいた。また、普通選挙権や社会主義を目指す諸派(レヴェラーズ、ディガーズ、ランターズ)は、資本主義化によってうみだされた都市貧民や貧農を代表する階級的性格を持っていた。
1645 ニューモデル軍結成
議会軍の弱体を痛感したクロムウェルは、私兵を解散させて議会軍に編成し、ユニフォーム、食料、賃金を支給し、交戦規定、戦術などを記した軍事要理を配布することで、最強の軍隊を創設することを議会に提案した。ニューモデル軍と呼ばれたこの軍事組織のもっとも革新的な部分は、昇進が、出生や家柄、人脈によるものでなく、戦場の功績によって行われることだった。(http://gold.natsu.gs/WG/ST/226/st226i.html)
これはフランスにおけるナポレオン軍のようなもの。ニューモデル軍は、イングランドのサンキュロットであると考えてよいだろう。ヒルの表現では、クロムウェルとは、ロベスピエールとナポレオンが一つになったような人物。革命とその後の反動を一人で担うことになった人間である。
1648 チャールズ1世捕獲。議会派勝利。
1649 共和政宣言
長老派、レヴェラーズの粛正
議会の強制解散
1653 クロムウェル、護国卿に就任。護国卿体制。
第五王国派を粛正
議会と軍の主導権争いで大混乱するなか、クロムウェル死去
1660 王政復古(チャールズ2世)
1688 名誉革命
・航海条例と英蘭戦争
1623 アンボイナ事件。東南アジア・東アジアとの貿易をオランダが独占。
1651 航海条例 イングランドと植民地への輸入をイギリス籍船舶に限定
1652 英蘭戦争
1654 英蘭戦争講和。クロムウェル(護国卿体制)がジャマイカを占領。
1660 航海条例 イングランド圏の輸出入すべてをイギリス籍船舶に限定
1665 第二次英蘭戦争
1667 第二次英蘭戦争講和
ここから本題。
クリストファー・ヒル著 『17世紀イギリスの民衆と思想』
第8章 「急進的な海賊?」
「1640年以降の期間を扱う本稿の目的にそって、「急進的」という言葉は国家教会を拒否し、完全な宗教的寛容を支持し、この点を ーー世間で認められたピューリタニズムの範囲を越えるところまでーー 追求して民主的、共産主義的、反律法主義的理念の唱導にまでしばしばたちいたった人々のことを指すものとする。」(221)
「私たちをあれほど魅了した1640年代と1650年代のあのすべての素晴らしい理想や理想家たちはどうなったのだろうか。」(221)
「1660年以降の急進的な思想の消滅は、より厳格で包括的な検閲が復活したことによって生じた視覚的幻想なのかもしれない。」(222)
・イングランドからカリブへの移住
チャールズ専制期の移住
「1630年代に、プロヴィデンス・アイランド会社はカリブ海南米北部沿岸沖の島を奪取して、宗教上の問題で不満を持っている者の避難所、そしてスペインの中南米独占をこじ開けるための基地とした。この会社は(…)1630年代におけるチャールズ1世に対する反対の一つの台風の目となっていた。」
革命から反動期の移住
「レヴェラーズが敗北した年である1649年10月に、ジョン・リルバーンは政府が財政援助をしてくれるつもりがあるのなら、自分の信奉者を西インド諸島に連れ出してやろうと申し出た。
イングランドの驚くほど多数の急進主義者が1660年の直前あるいは直後に西インド諸島に移民した。ランターのジョウゼフ・サモンはバルバドスに行った。」(230)
(ジョン・リルバーンはレヴェラーズの指導者)
カリブに渡っていった宗派には、クエイカー教徒、ランターズ、マグルトン派、第五王国派、アナバプテスト派、ユダヤ教徒などがいた。
クエイカーは平和主義者で知られるが、カリブのクエイカーは平和主義者になる前の世代(1661年以前の移民)なので、平和主義者でない者たちが含まれる。また、実際にはクエイカーではない者が「変な奴はみなクエイカー」と一括りにされていたふしがある。
ランターズは、道徳律廃止論を唱える「千年王国」思想の一派。不道徳な人たち。
マグルトン派はランターズと同じく「千年王国」の一派。ウェブで調べたところ、「教会を否定してパブ(居酒屋)に集う宗派」であるらしい。ちょっとおかしい。
第五王国派は、クロムウェルの護国卿体制を支えた貧困層の「千年王国」派。護国卿体制確立後に弾圧・排除された。レヴェラーズ粛正に加担して最後には裏切られた人たち。
アナバプテスト派は、もっとも古くから政教分離を唱えた一派。カトリックからもプロテスタントからも迫害された。
「ピューリタン」と言っても、相当いろいろな宗派が乱立している。ここにユダヤ教徒と、国王派(国教会派)が加わる。あと、アイルランド人やフランス人(ユグノー派)がいて、島によってはマルーン武装勢力が控えている。この状況は、本国イングランドで終息した革命状況が、緩慢に継続した状態といえるかもしれない。
・宗教的寛容
「1660年以降西インド諸島は、計画的な統治政策の一環として、イングランド以上にずっと寛容な取り扱いを受けるようになった。リーワード諸島の主席総督は、1670年に忠誠と国王至上権の誓約はしなくても良いと特別に支持された。移住者を引きつけることが望ましかったということの他に、カリブ海地域にすでにいた者たちの性質が寛容を必要なものとした。」(233)
「(ジャマイカには)ほとんどのプロテスタント国よりも大きな自由がある、と1687年にある聖職者が主張した。1718年には、ジャマイカにおいては、罰金や罰則を課すことのできる教会法や司法権はないということが合意された。」(239)
・余剰人口
「1650年代に砂糖キビ栽培が拡大すると、急激に増加する奴隷人口がさらに大きな脅威の原因となり、それは1654年には6千人足らずであったが、1667年には8万人を超えると推定されている。」(234)
「1647年までには、契約期間を終えた年季奉公使用人が手にすることのできる土地はもはやなかった。(…)土地不足と過酷な課税は大量の移民流出を生み出したが、とりわけ1655年の征服以降のジャマイカに行く者が多かった。バルバドスの白人人口が最高に達した1643年以来、1667年までに1万2千人が他の島に移住してしまったと言われた。」(235)
ヒルは結論部分で、エリック・ホブズボーム(『素朴な反逆者たち』『盗賊』)を引用して言う。
「「盗賊行為は貧民化と経済危機の時代には風土病のようなものになる傾向があった」が、とりわけ「労働力の需要が比較的小さな……地方経済の形態において」それは顕著だった。(17世紀後半の西インド諸島は、大陸本土の植民地とは明確に異なり、自由労働の需要が下落していた)。盗賊行為は「他の収入源を探さなければならない」ような「地方の余剰人口」にとって「一つの自活形態」だった。」(250)
・航海条例による影響
「より小規模な農園主は自分たちの土地から追い出された。なぜなら、イングランド市場獲得のための競争において、大規模生産者についていくことができなかったからである。彼らの中のある者たちにとっては、海賊というのがそれにかわる唯一の職業だった。」(238)
二度の英蘭戦争と航海条例の徹底は、オランダの貿易船を排除することを目的としていた。そもそもオランダによる投資と貿易ではじまったバルバドス経済は、充分に成長した頃にイギリスに独占されてしまうのである。植民地の貿易は対イングランド市場に限定され、イギリス海軍は密貿易を取り締まった。この政策転換によって、カリブでは資本集中が進み、体力のない植民者がますますおちぶれていった。
・植民地経営を支えるインフォーマル経済
「短期的な観点から言うと、海賊行為は大農園主にとって便利な投資だったかもしれない。しかし長期的な観点から言うと海賊は厄介者であり、いったんカリブ海の治安警備が行われるようになると消耗品になった。海軍及び陸軍基地の維持に必要な定期的で恒常的な収入がイングランドからも西インド諸島からもないあいだは、カリブ海は密輸入業者と海賊の餌食になっていた。スチュアート王家が取り除かれることによって、イングランドにおける軍事的絶対主義の恐怖が取り除かれるまでは、西インド諸島にはそのような歳入も陸軍および海軍力もありえなかったのである。一方、戦争や非常事態において、西インド諸島の総督は海賊を必要としていた。1688年以降になってようやく、そのようなものなしでやっていくことが可能になった。」