一週間ほど頭痛が続いているので、病院に行った。たぶん血圧の問題だろうと予測していたのだが、医者の診断は違った。血圧は不調の原因ではなく、結果なのだという。不調の原因となっているのは、高いストレスによる肩こり。肩こりは確かにあるのだが、これは不調の結果だと考えていた。私は原因と結果を取り違えていたのだった。
最近の生活を振り返ってみると、確かにストレスを抱えてはいる。だがそれはいつものことであって、とりたてて言うほどのものではない。おそらく問題は、ストレスの解消方法がうまくいっていないのだ。最近はとくにそうだ。酒を飲む機会も少ないし、YOUTUBEの動画を観ても退屈なものが多い。なかなか楽しめない。息抜きができていない。
YOUTUBEの動画のなかでどんなものを観ているかというと、私がずっとはまっていたのは、実話怪談のコンテンツだ。2010年代は、なにか煮詰まって疲れてくると、実話怪談を聞いて、息抜きにしていたのだった。しかし2020年あたりから、怪談のシーンは大きく変わってきた。新しい語り手がたくさん登場したが、どうにも退屈なものばかりだ。いま怪談は何度目かの大きなブームになっているが、2010年代のような勢いはない。お笑い芸人も参入して、軽妙なトークをまじえて楽しげにやっているが、楽しくない。
目につく変化は二つ。“怪談師”なるものがあらわれ、怪談を競う賞レースが開催されるようになった。若い語り手の多くが“怪談師”を目指して訓練をするようになった。賞レースは、滑舌のよさと緩急の技術、制限時間内に語りきる練度を競わせるようになった。結果として、怪談の語りはある様式に向かって収斂し、画一的になっている。
2010年代の実話怪談は、けっしてうまくはないが味のある語りが充満していた。中山市朗、いたこ28号、雲国斎、星野しずく、ファンキー中村、西浦和、等々、みなそれぞれの語り口で怪談を語っていた。このころの怪談シーンはアマチュアリズムを基調としていたから、誰も“怪談師”を目指してはいなかったし、賞レースなど想像もしなかった。アマチュアの自由さと解放感があった。
だが最近の新人は、プレッシャーでガチガチである。プレゼンテーションの技術を競い、キャラクターづくりに執心し、落語家や講談師のような“プロ”になるべく一生懸命である。背景には若年層の貧窮化ということもあるのだろう。観ている側としては、痛々しいばかりで、息抜きにはならない。
こう考えてみると、私が怪談に求めていたのは、下手くそな語りだったのだと思う。稲川淳二、桜金蔵、つまみ枝豆によって語られた昭和の怪談には、素朴で、生々しく、熱のある語りがあった。彼らのけっしてうまくない語り口に、民話の興奮があった。現代の新人“怪談師”たちには、この民話のグルーブが欠けている。彼らは民話のグルーブを忘れているか、知らないか、あるいは、民話に接する機会すら奪われているということなのかもしれない。
民話の成立する要件は何か。私はその方面の研究に疎いので、正確に言うことはできない。だが、ひとつ確かに言えるだろうことは、民話というものが民衆の自律性を基盤にしているだろうということだ。民話は、宗教的な権威からも世俗的な権力からも隔てられていて、それのみで自足している。公的な権威や権力から見れば、“愚にもつかない話”である。“愚にもつかない話”が民衆に語り継がれることで、自律的に運動している。ガタリ風に表現すれば、〈国家装置〉から逃れ続ける〈民話機械〉と呼ぶべきものがある。
民話は、権威・権力にとって捕捉することのできない〈他者〉である。民話を語る者、語られる場、語られる時間は、〈他者〉である。それが魅力的であるのは、民話を通じて人々の〈他者性〉を顕在化させるからだ。人間はみな〈他者性〉をもっていて、自分もまた〈他者〉であり、自分は自分にとっても〈他者〉である。民話はそうした精神の分裂を促すことによって、パラノイア化する現実を離れて、一息つかせてくれるのだ。
人間は社会的動物である、だから私たちは、あれをしろこれをするなとやかましく他律的な環境に身を置いている。権力の言葉をそのまま口写しにして、スキルをみがけだとか、タバコをやめろだとか、さしでがましい要求が蔓延している過干渉な時代である。人間はみな〈他者〉であるということ、それぞれが自律的な個人であるということが、忘れられている。そうした時代だからこそ、実話怪談という民話が人々に求められているのだとおもう。
だが、時代に抗してきた怪談の世界にも、権力の作法が持ち込まれつつある。
若く一生懸命で退屈な語り手たちだ。20代で“怪談師”を目指すというのは、そもそも世の中をなめている。
怪談とは“愚にもつかない話”であって、愚にもつかない中年が話すから、味わい深いのだ。