以下は、90年代に発表されたギー・ドゥボール(guy debord)のエッセー「Sick Planet」の全文です。
ドゥボールは、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト誌』の中心メンバーであり、『スペクタクルの社会』の著者として知られる人です。大戦後のフランスで芸術運動を理論的に牽引し、68年5月革命を準備したといわれる人物。
『Sick Planet』は、ドゥボールが公害問題について書いたエッセーです。
被曝社会研究会に参加してくれた菰田くんが、英語版から翻訳してくれました。
実は内容的にはもうひとつです。晩年のドゥボール、あんまり冴えてないです。小手先でちゃちゃっと書きとばしてるんではないか疑惑。
ただ、このもうひとつ感を確認しておくのもいいかもしれない。ということで公開します。
-------------
病んだ惑星
G・ドゥボール
(菰田真介訳)
「公害」は今日流行している、まるで革命のように。それは社会の全生活を支配しており、スペクタクルのなかでは幻覚のかたちをとって表れる。このことを肴に多くのくだらない書き物が著され、多くのくだらない議論が戦われる。そのいずれもがちんぷんかんぷんで誤っている。しかし公害という問題は我々みなの首根っこを押さえている。それはいたるところでイデオロギーのかたちをとって表れているが、物質的には、ずっと拡大してきたものである。二つの対立する方向性がある。一つは商品生産の最高点へと向かう前進運動であり、もう一つはそれを全否定する計画である。どちらもそれ自身矛盾に満ちたものであるが、これらのあいだの緊張はかつてないほど高まっている。ここからある歴史的な瞬間が開けてくる。長らく待望され、ことの起こる前からしばしば部分的で不十分な言葉で語られてきたそれは、資本主義が存続不可能になる唯一の契機となる。
地球に生きと生けるものすべての境遇を完全に変形してしまうに足る技術を手に入れた時代とは、階級社会で疎外された生産力の自動成長が我々に襲いかかってくる現場(とその期限)を数学的緻密さで突き止めて予見することができる時代でもある。なんとなればこの同じ技術と科学がそれぞれ発展してきたからだ。いいかえれば、生存のための条件そのものが、生存という言葉の一般的な意味においても些細な意味においても急速に悪化していることを計れる時代である。
昔語りにふける野郎は、あいかわらずこのことを指して美的にどーだのと(あるいは美なんてなんぼのもんじゃいと)つべこべ抜かしている。連中はお粗末にも自分たちは賢明で近代的で時代にマッチしていると思い込んでいるのだ。いわく、高速道路やサルセルなどにある団地にも、それなりの美しさがあるし、「おどろおどろしい」昔の町の不快さに比べればきれいなものだうんぬん。彼ら「リアリスト」はもったいぶって話す。「本当の」料理に郷愁を感じる諸氏には恐縮だが、以前に比べて今の食べ物ははるかによくなっているんですよと。彼らは自然なものの全体性が崩壊していることを分かっていない。人間を取り巻く環境はすでに、美などといった質の喪失どころの話ではなくなってきている。今日の問題はより根本的なものである。すなわち、そうしたコースをたどるこの世界がはたして物質的に存続できるのかという問いである。事実この不可能性は、独立した科学の知の完全性によって完璧に証明されている。この科学は、その過程に関わるあらゆるものを議論の対象としない。もっとも残された時間の長さは議論するし、強力に使えば少しの間は一次しのぎになるだろう手段についても議論するのだが。この科学は、自分を生み出した世界、自分を固くつなぎとめる世界と手を取り合って歩くこと以上のことはできない。そして破壊の道を突き進んでいく。気付いてはいるが、そうしていくほかない。かくして科学は、適用されていない知識の無意味さの典型例となっており、ほとんど戯画のようだ。
呼吸可能な大気、川、海などの急速な化学汚染に関して、すばらしく正確な計測、予測が絶えず立てられている。たとえば、いわゆる平和目的のための原子力の発展に伴う放射性廃棄物の不可逆的蓄積。騒音の影響。空間を恒久ゴミ処分場とせんばかりの勢いのプラスチックゴミの拡散。手をつけられなくなった出生率。食料品の狂気的腐敗。かつて街だったところも田舎だったところもすべてに広がった都市スプロール現象。そして同様に広がった精神病。その例として、公害そのものに反応して蔓延するようになる神経的恐怖と幻覚。公害の驚くべき事実はいたるところで告示されている。そして自殺の広がり。自殺率の増加は、このような環境の加速度的構築と正確に対を成している(いうまでもないが、核戦争や細菌戦の影響も計測されている。そのための手段はすでに身近にあり、ダモクレスの剣のように我々に迫っている。もちろん避けることもできるが)。
要するに、「一千年目の恐怖」の広がり、そしてその現実までもが歴史家の間でなお論争の的となっているとしたら、二千年目の恐怖は歴然としていて十分な根拠があるものである。それはいまや科学的確実性のもとに根拠を置いている。だからといって、起こっていることが根本的に新しいものであるわけではない。むしろそれは、長期に及ぶプロセスから必然的に導き出された結果にすぎない。かつてないほど病んでいる社会、しかしかつてないほど強力な社会。それは、あらゆるところで具体的に世界を作り変えた。そうして世界は、社会の病をを引き起こす温床となった。社会は病んだ惑星を生み出したのだ。同質性をいまだ獲得していない社会。自己決定していない社会。しかし、自己の上に位置付けられた外在的な自己によって、かつてないほど規定されている社会。この社会は、いまだ自己を統御できていない「自然」による支配のための道筋を作った。資本主義は、もはや生産力を高めることはできないとみずからの力学によってついに証明したのだ。それは、多くの人が考えるような量的な意味でなく、質的な意味での生産力である。
しかし方法論的に言えば、ブルジョワ思想にとっては量的なもののみが確実で計測可能で有効なものであり、質的なものは、漠然とした主観か、あるいは本当に確かなものを芸術的に装飾したものに過ぎない。確かなものは、唯一その現実の量によってのみ測られる。一方弁証法的思想、したがって歴史やプロレタリアートにとっては、質的なものが現実の過程の最も決定的な瞬間である。このことは、資本主義も私たちも最終的に証明することになるだろう。
社会の支配者は、いまや公害について語るよう迫られている。それは公害と戦うため(なぜなら結局は連中も我々と同じ惑星に生きているのだ。資本主義の発展が実質的に階級融合をもたらすといわれるのも、こうした意味に過ぎない)であり、それを隠すためである。なぜなら、そうした有毒かつ危険なものが存在するという明白な事実が、暴動に十分すぎるほどの口実を与えてしまうからである。暴動の欲望は、搾取される者にとって物質的に欠かせないものであり、その重要性は、食べていく権利のために闘った一九世紀のプロレタリアートと共有されたものである。過去の改良主義――これらはすべて、例外なく階級問題の最終解決を目指したものである――が根底から失敗に終わったあと、かつてと同じニーズにこたえる新しい種類の改良主義が浮上してきている。すなわち、機械の油差しと先駆的な新しいビジネスチャンスのエリアを切り開くための改良主義である。もっとも近代的な産業部門は、こぞってさまざまな公害緩和策に携わろうとしている。それらは多くの新しいビジネスチャンスなのである。この領域においては、国家によって独占された資本のかなりの割合が投資にも運用にも回るとなっては、よりいっそう魅力的に映るのだ。こうした新しい改良主義は、以前の改良主義とまったく同じ理由により失敗に終わっていくのだが、以前のと根本的に異なるのは、今回の改良主義が時を使い果たしてしまったという点である。
今日に至るまでの生産の拡大は、生産の本質が政治経済の実現にあることを完璧に立証した。すなわちその本質は、いのちの基盤そのものを侵害し、興廃させる貧困の拡大にある。生産者が働きながら自殺していく社会。労働の生産物のことしか考えられない社会。この社会は、いまや生産者たちに疎外労働の総体的結果をまざまざと見せつけている。これも[かつての過酷な労働と]同じように致命的なものなのだ。この社会を支配するのは、すべて――湧き水や都市の空気までも――を経済商品に変えるような過発達した経済である。すなわちすべてが経済的に病んでいるのであり、「人間性の全否定」は、完璧な物質的終結という高みにまで達している。ブルジョワ資本主義、もしくは官僚型資本主義のなかに存在する生産力と生産関係の対立は、最終段階に入った。非生命の生産率は、つねに右肩上がりで上昇を続け、蓄積している。この過程の最終段階を越えたところの今生産されているものは、まさに死である。
労働が商品となったおかげで雇用者が全権力を行使できるような世界では、雇用の生産こそ、現行の発展した経済の究極的、本質的役目であると考えられている。彼方にこだまする一九世紀のとどろき。「進歩を遂げる」一九世紀は、科学と技術が生産性を高め、人間の労働を軽減させ、そうすることによってより容易に必要を満たすことになるだろうと考えていた。そうしたものは、それまですべての人たちが現実的に必要であると捉えていた。しかも必要に適合する商品の質は、根本からはいささかも変わらないだろうと期待していた。(いまや農民がいなくなった田舎においても)「職を創出」するため、すなわち人間労働を疎外労働として、賃労働として用いるために、ほかのすべての労力が割かれるのだ。したがっておろかなことに、種の生命の基盤そのもの――現在これは、なんとかケネディ、なんとかブレジネフが考えていた以上にもろいものである――が危機にさらされているのである。
古い海は汚染を気にかけない。だが歴史はそれに無関心ではいられない。歴史は商品となった労働の廃止によってのみ救われる。歴史の世界を支配しようとする意識がこれほどまでに高まり、差し迫ったものとなったこともない。なぜなら扉で待ち構えている敵は目の錯覚などではなく、現実の死を意味しているからである。
社会の哀れむべき主人の惨めな運命――かつてもっともラディカルだったユートピア主義者の掛け声に奮い立った者たちの末路よりひどいものである――がようやく明らかとなり、我々の境遇こそ社会問題である、すべての管理こそじかに政治的なものであると連中が認めざるを得なくなる瞬間が来る。このとき、旧来の専門化された政治は完全に破綻したといやおうなしに宣言されなければならないことが明らかとなる。
破綻。まったくもってそれは、政治の自己運動の至上の形態である。つまり、いわゆる社会主義体制の全体主義的官僚権力は破綻に終わるのだ。権力を握っているはずなのに、官僚は資本主義経済の前段階すら管理することができない。社会主義体制は公害がはるかに少ないとしても(アメリカ合衆国だけでも世界の公害の五〇パーセントを排出している)、それは単純に貧しいからなだけである。貧困にあえぐ国々のなかで、中国は大国として一目置かれているが、その中国だって、わずかな予算に不釣合いなほどの額をなげうっていくばくかの公害を引き起こさざるを得ないのだ。たとえば、核戦争の(もっと正確に言えば、核戦争の恐るべきスペクタクルの)技術を(再)開発して改良するために。このような物理的、精神的貧困は、極度の恐怖によって強化されている。貧困は掛け算的に高まり、現在権力を握っている官僚制に死亡証明書を突きつける。一方、もっとも近代的なかたちをとったブルジョワ権力を終局に追い込むのは、実質的に毒にかかった過度の富である。民主的だと思われている資本主義の管理手段は、あらゆる国において、選挙の勝敗以外の何ものもよこさない。つねに明らかなことなのだが、選挙は一般に何も変えなかったし、特に階級社会に関してもほとんど何も変わっていない。階級社会は、みずからを永続していくものだと考えている。管理のシステムが危機に陥り、副次的ではあるが緊急の問題を解決するための指針らしきものを、疎外されて麻痺した選挙人に求めるふりをしたときも、それ以上は何も変わらない(たとえばアメリカ、イギリス、フランス)。専門家はみな、投票者がほとんど「意見」を変えることはないということに長いこと気付いているし、それを言葉にするのもやぶさかではない。なぜなら投票者とは、自分自身の権利では存在できない、つまり変わることができないように設定された抽象的な役割をちょっとのあいだ演じる人のことを指すからである(こうした仕組みは、霧の晴れた政治学や革命的な精神分析が何千回も分析を加えてきたものである)。投票者も変わる見込みがない。なぜなら彼らをめぐる世界が、例を見ないほど突然変わっていくからである。投票者としての彼らは、たとえ世界が終わりに向かいつつあるさなかになっても変わらないだろう。あらゆる代表制は、本質的に保守的である。資本主義社会を規定する諸条件は、そのままのかたちでの保存に耐えうるものではない。それらはつねに修正を受け、そのスピードもかつてなく速まっている。だがこうしたことを決める(そしてつねに最後には市場経済の思い通りにさせる)のはすべて政治家である。連中は広告業者に過ぎない。連中は、非難の声が向けられないこともあれば、まったく同じことをやろうとしている人と対立することもある。いずれにしろ大声でまくし立てる。しかしドゴール派に「進んで」一票を投じた人、フランス共産党に投じた人は、強制されてゴムウカなんちゃらに投じた人と同じで、山猫ストや蜂起に参加すれば、一週間後には自分が本当は何なのかが示せるようになっているはずだ。
国家に管理され、統御されるようになった「公害との戦い」は、最初のうちは、新しい専門化、省庁、少年の職、官僚としての昇進以外なにも意味しない。戦いの効果は、戦い〔の目的〕と完全に合致するだろう。現行の生産システムが瓦解しない限り、この戦いから本当の変革への意志が沸くことはない。関連するあらゆる決定権が、生産所自身によって永久に監視され握られている限り、たとえ生産者が決定の仕方を民主的かつ問題を踏まえたやり方にしても、この戦いが厳格に実行されることはない(たとえば石油タンカーは、本物の船乗りソヴィエトの権威のもとで運行している限り、積荷を海にぶちまけざるを得ないのだ)。しかし生産者は、そのような問いに決定を下す前に、大人にならなければならない。彼らはみな、権力を握らなければならない。
一九世紀の科学の楽観主義は、三つの大きな問題を抱えて挫折した。一つ目は、革命が到来することは確実であり、それによって現在のあつれきは幸福のうちに解決されるだろうという考え方である。これはヘーゲル左派とマルクスの思い違いであった。彼らはブルジョワのインテリゲンツィアのなかでもっとも鈍く、もっとも金持ちだったが、最終的には一番思い違いをしていなかった。二つ目の問題は、世界を調和的だとみなしていたこと、もっといえばものを調和的だとみなしていたことである。そして三つ目は、生産力は右肩上がりで上昇していくだろうとするお気楽な考え方である。最初の問題に関してだが、視点を広げて第三の問題も同時に扱おうと思う。そうすれば、だいぶ後にはなるが第二の問題についても検討できるようになるし、それを我々がのるかそるかの契機に変えることができるようになる。癒されなければならないのは、症状ではなく病気そのものである。今日恐怖はいたるところにあるが、我々は我々自身の力によってのみそれを逃れることができる。存在するあらゆる疎外と、我々から遠ざけられていた権力のイメージすべてを瓦解させる力をつけることによってのみ、恐怖を逃れることができる。我々自身を除いたすべてを労働者評議会の権力ただそれだけに従わせ、つねに世界の全体性を再構築していくこと、いいかえれば、すべてを真の理性、新しい正当性にゆだねることによってのみ恐怖を逃れられるのだ。
「自然な」ものと人口の環境、あるいは出生率、生物学、生産、「狂気」などに関していえば、選択肢は祝祭と不幸のあいだにあるのではない。むしろそれは、無数の喜ばしい可能性、もしくは無数の破滅的ではあるが比較的後戻り可能な可能性に賭けるか、もしくはゼロかという選択肢なのだ。それは意識しながら路上を一歩一歩踏みしめているときにおこるものである。一方近い将来については、恐るべき選択肢が一つあるだけである。すなわち完全な民主主義を取るか、それとも完全な官僚制を取るかである。完全な民主主義に対して不安を抱く者は、一回自分たちでその可能性を試してみるがよい。それには行動の中で証明する機会を与えてやりさえすれば十分なのだ。さもなくば自分たちで墓石を拾ってしまうことになるだろう。なぜなら、「我々は権力が機能しているのを見た。その機能とは、みずからを徹底的に糾弾することである」とジョゼフ・デジャックも言っているのだ。
「革命か死か」というスローガンは、もはや暴動における意識を詩的に表現したものではない。むしろそれは、我々の世紀の科学思想の最後の言葉である。それは、個々の種が環境になじめないという危機に対して当てはまるものである。この社会では自殺率が上昇を続けていることを誰もが知っているが、一九六八年五月のフランスでは自殺率がほとんどゼロに等しくなったということを専門家は心ならずも認めなければならない。あのときの春は我々に澄んだ空も授けた。空ががんばったわけではない。あの時は燃える車もほとんどなく、石油不足のために誰も大気を汚染できなかったのだ。雨が降ったとき、そしてスモッグの層がパリの空を覆ったときには、公害の非が政府にあるということをぜひ忘れないようにしよう。疎外された産業労働は雨を呼ぶ。革命は日差しを呼ぶ。