2011年2月6日日曜日

社会運動はどのようにして政治的人格を排除すべきか

 前回、プロテスタンティズムは宗派信徒団(セクト)を形成するということについて書いたが、この「プロテスタンティズム」というのは、特定の宗派に限定するものではなく、資本主義によって一般的に要請される慣習態度を指している。
 これを、ブルジョア個人主義と言い換えてもよい。
 ブルジョア個人主義の特長は、絶望的な孤立感である。これは主観であって、客観的にどうであるかとは別の主観的な孤立感だ。この孤立感は、自らが社会的存在であることを充分に認識しないかまったく否認してしまうので、近代市民社会の基礎となる友愛(海賊的原理に立ち返るならば兄弟愛)の感覚をもたない。兄弟愛をもたないブルジョア個人主義の意識は、もっぱら政治に訴えることでしか他人と関わることができない。彼らにできることはただコミュニケーションだけである。コミュニケーションという貧しい方法に固着してしまった人格を、ここでは「政治的人格」と呼ぶことにしよう。

 社会運動の現場では、しばしばこの政治的人格に出会う。私はできるかぎり冷淡に扱い、排除するようにしている。なぜなら社会運動とは、社会の実在を是認するところから始まり、政治の廃絶(または無害化)を目指して取り組まれるものだからだ。兄弟愛を知らないかまたは軽視するような人格は、この原則に反する。政治的人格はつねに不平を言い、それは実際に不都合があるからではなくて、単にコミュニケーションと承認の道具として小さなこずるい政治を企み、社会(運動)をひきまわす。社会的に構築された理念と言葉を、そのそもそもの文脈から切り離し、ただ己の政治取引(コミュニケーション)のために私物化するのである。

 政治的人格の症候については、しばしば、利己的欲求、自己顕示欲、承認欲求の過剰として受止められ、そのように名指しされる。しかしこれは誤認である。そこにあるのは過剰ではなく欠落である。彼ら政治的人格は、特に過剰に政治的なふるまいをしてしまうのではなく、そうしたふるまいしか出来ないのだ。コミュニケーションが過剰なのではなく、コミュニケーション以外の方法を知らないのである。政治的人格が、同性の友人(兄弟・姉妹)をもたないことをみればそれは明らかだ。そしてここからが重要なのだが、政治的なふるまいしか出来ない人格(兄弟・姉妹をもたない人格)は、どこまでも孤独であることがなかば保証されているために、政治的には利用しやすい(操作しやすい)ということだ。言うまでもないことだが、ここで「政治的に利用しやすい」ということは、社会(運動)の前進・発展とは無関係である。むしろ社会(運動)の構築を阻害し、場合によっては致命的な打撃を与えることもありうる。これはセクトであるかいなかとは関係ない。一人の政治的人格が排除されないことで、十人の兄弟・姉妹たちが去っていくということはよくあることだ。

 だからここで問題をただしく設定しなおせば、問題は、なぜ社会運動は、そもそもの理念に反するような政治的人格を受け入れてしまうのか、だ。また別の言い方をすれば、人間の意志が、政治という貧しい現表行為に譲歩させられてしまうのはなぜなのか、なぜ政治的ふるまいだけが「現実的」なものとして認識され、政治的ふるまいの排除が「非現実的」とみなされるのか、だ。

 ずいぶんわかりづらい文章になってしまったが、社会運動の現場にいる人なら、思い当たるフシはたくさんあるはずだ。他人の瑕疵をネガティブに言いたてるだけの自称「左翼」。フェミニズムなど微塵も理解していないくせに周囲を威圧するためだけにフェミニズム用語を振り回す自称「フェミニスト」。兄弟・姉妹への敬意を失った我利我利亡者。
 こいつらを排除することは、ありえない「非現実的」な措置ではなくて、社会(運動)の今日明日にかかわる現実的な課題である。考えてみよう。こんなとき海賊だったらどうするだろうか。次の港で降りてもらおう。誰でもかれでも船に乗せるわけにはいかないのだ。


追記
 海賊は船に女を乗せることを嫌った。女を船に乗せることは、航海に危険をもたらすかもしれない、不吉なことだった。かつて女はもっぱら奴隷であり力のない者だったから、しばしば政治的人格として振るまい船内の秩序を破壊したのだろう。ここから導きだすべき教訓は、「集団から女を排除しろ」ということではなくて、「他人に媚びを売る劣った者弱い者に気をつけろ」ということだ。劣った者は劣った者なりのしかたで、想像もできない最悪のやりかたで、強者に復讐する。弱者をなめていると痛い目にあうのだ。