福島赤十字病院・泌尿器科の常勤医不在、週1回診療
福島赤十字病院(福島市)で今月から、泌尿器科の常勤医が不在となっていることが8日、同病院への取材で分かった。現在は週1回、非常勤の医師が診療している。 同病院によると、同科の常勤医は昨年12月に1人退職し、3月末でもう1人退職したことに伴い1人もいなくなった。現時点で新たな医師確保の見通しは立っていないという。週1回の限られた診療になったため、患者に市内の他の病院を紹介するなどの対応を取っている。昨年12月に退職した医師は県外に移ったという。 医師不足をめぐっては、本県はもともと全国平均と比べ顕著だったが、震災、原発事故が拍車を掛けていると指摘されている。医療機関や市町村は連携してさまざまな医師確保策を講じている。(2014年4月9日 福島民友ニュース)
泌尿器科は、腎臓から膀胱の疾患を診る部門である。退職した二人の医師は、なんらかの異変を目の当たりにしたのだろう。福島医大官僚が「被曝による影響なし」を連呼している陰で、事態は着実に進行していると思われる。社会的分業がほころびを見せ、どこでも誰でも医療サービスを受けられるという状態は失われていく。まったく不思議ではない。福島第一原発はいまも毎時1000万ベクレルの放射性物質を放出しているのだから。
今後、放射線防護活動が大規模になるにつれて、医療サービスをめぐる社会的合意もほころびをみせることになるだろう。
今回の大規模被曝事件は、原爆による被曝とは少し違っている。放射能汚染はゆるやかに時間をかけて進行していくために、自力救済によって防護する余地がある。原爆のように誰もが等しく被曝するわけではない。防護した者と防護しなかった者がうまれる。そしてそのことが疾患の有無に重ねられることになるだろう。
実際には、防護措置の有無と疾患の有無はイコールではない。ひとくくりに被曝者と言っても、それぞれの年齢、性別、職種、体質など、条件の違いが大きいからだ。疾患と防護とは切り離して考えるべきである。
しかし、こんご医療費の負担が増大して、トリアージ(患者選別)の議論がでてきたとき、疾患と防護は結び付けられることになるだろう。それも正面から結びつけるのではなく、なんとなく遠まわしに、いいかげんな印象操作によって、防護の有無がトリアージの正当化に利用される。
私にしても、気分としては、こういう議論を支持したい気持ちでいっぱいだ。
これから、「復興」政策に翼賛して「食べて応援」した馬鹿どもが、医療保険制度を圧迫していくのだ。防護活動に協力しない者や、敵対した者、防護活動を馬鹿にした者たちが、病床の一画を占領していく。その負担はわれわれ防護派にもかかってくるのである。そんなとき、「医療資源には限りがあるので、児童と若年女性を優先し、老年科医療は抑制します」という主張が出てきたら、私もそれに乗ってしまうかもしれない。
疾患に苦しむ被曝者にたいして、「自業自得」とか「自己責任」とかいう言葉は言わない。言わないが、心の奥底では、軽蔑している。直接対面したときにはまず、彼がきちんと防護したのかしなかったのか、不可抗力の部分とそうでない部分を、問いただすだろう。誰もが医療サービスを受ける権利がある、と、口では言う。しかし本心からそう思っているわけではない。放射線防護に取り組んだ人々は、その程度がどうであれ、社会の一員だと信じる。しかし放射線防護活動に敵対した者は、お荷物である。そんなやつらは医療保険制度から除外してよいのではないか。そんな気分だ。
ここではあえてわかりやすく書いたが、現実の福島は、もっと隠微なやり方で、なしくずしにトリアージを進行させていく。
福島赤十字病院の泌尿器科が週に一度しか診察できなかったとしても、誰も気に留めることもしなくなる。福島は汚染地域なのだから、医者がいないのは当然でしょ、と。そうして汚染地域の医療機関は徐々に機能をとめ、被曝者の被害の実態が書類の表面から消されていく。人々の暗黙の支持を得ながら。