ニューヨークの友人が、名古屋に一泊していった。
彼はこの一年、精力的に旅をしている。アムスやパリなどヨーロッパの街を訪ね、現在は日本に来ている。ここ名古屋では、矢部・山の手・前瀬で彼を迎え、酒を飲みながら近況を話した。
彼が手土産に持ってきてくれたのは、“ディスパーシング”という概念だった。分離する、ばらけさせる、という意味だ。ある南米の理論家が、ドゥルーズ/ガタリの哲学をベースにして唱えている概念である。
社会運動はしばしば、運動の統一・集約を構想する。バラバラに行動するよりは、要求を統一し行動を一本化した方が有利だと考えるからである。議会制度を自明視する傾向がつよまったり、あるいは、議会政党の介入がおおきくなったとき、運動の集約は自明視され、それが力なのだと誰もが思い込んでしまうことになる。
“ディスパーシング”という概念は、この運動集約のイデオロギーを批判するものだ。各人・各地域の闘争は、統合されるのではなくバラバラにあるべきだ、と。
バラバラに行動することは、力を分散させ、弱くなることだ、という信念が根強くある。
しかし実践を重ねるなかで明らかになっているのは、それとは反対のことを示す事例がたくさんあることだ。行動を集約してかえって弱くなってしまった例(勝てなかった例)や、行動を分散させることで力を発揮した例がある。
例えば、愛知県における震災がれき受け入れ反対行動は、抗議行動を一本化していない。それぞれのグループ・団体がバラバラに動いたことで、受け入れを断念させている。もちろん初動の段階では、「抗議の声をひとつにしよう」という意見が出た。私は「それぞれバラバラにやったほうが効果が大きい」と主張した。諸グループをネットワークして行動調整をしようと動いた人もいたが、結果として行動の一本化はなされず、バラバラに申し入れ行動を行った。そうして成果をあげたのである。ここで集約派の人々は「バラバラにやったにもかかわらず成果をあげた」というだろう。しかしそうではない。もしも運動の一本化を実現していたら、我々の要求はとおらなかったと思う。バラバラにやったから、勝てたのだ。
行動を統一することで敗北した例は、東京の「首相官邸前再稼働反対デモ」である。首相官邸前に集まった数万の人々の群れは、野田首相にいなされて終わった。彼らの集合は政治的な力を発揮したというよりも、左翼議会政党やジャーナリストを満足させるだけに終わった。いや、たとえその段では勝てなかったとしても、次の闘争・次の陣形につながればよいのだ、という考え方もある。しかし、どうだろうか。首相官邸前行動は、人々をエンパワーメントする経験になっただろうか。無力感といさかいをのこしただけではないのか。
首相官邸前行動は敗北したと書くと、東京の活動家諸君は自尊心を傷つけられたと感じるかもしれない。それは全面的にまちがった、独善的態度である。もしも東京のデモが主戦場だったと考えているのだとしたら、とんでもない事実誤認だ。この2年間、全国の市町村で、学校給食に汚染食品を使わせないために闘ってきた人々がいる。彼女たちはたった2・3人で自治体と交渉し、東北・関東産食品を退けているのである。統一した組織もなく、バラバラに、しかし着実に成果を上げてきた。彼女たちの闘いこそが、原子力政策に肉迫する最前衛である。この力、戦略、戦術に、学ぶべきなのだ。
ニューヨークの友人は今朝、大阪に向かった。
明日(14日)は、彼に合流して、大阪の都市文化研究会に行こうとおもう。
“ディスパーシング・パワー”について、論議を深めたい。