2022年12月31日土曜日

2022年のまとめと来年の抱負

 

 年末の忙しときに風邪をひいてしまった。高熱は出ていないが、体がだるい。

近所の病院に行ったところ、PCR検査キットを使い切ってしまって診察できないと断られた。市民病院に行ってくれというが、体がだるくてクルマを運転する余力がない。愛知県のPCR検査所は名古屋駅にあって、電車に乗っていくのもだるい。仕方がないので自室にこもることにした。PCR検査キットは入手できなかったが、抗原検査キットは手に入ったので、何も無いよりはましだろうということで一応検査をした。結果は陰性。この陰性結果にどれぐらいの意味があるのかはわからない。症状は、微熱とだるさと鼻づまり。のどの痛みはない。葛根湯と経口補水液を飲みながら、自室でじっと年を越すことにした。

 この冬の感染爆発は、これまでにない膨大な死者を出している。医療機関は崩壊状態になっているし、火葬場もパンクするだろう。感染を抑えるための大規模な措置をとらないまま、体の弱い者や不運な者がひっそりと大量に死んでいくのだ。

 

 

 今年は、原子力政策でいくつもの動きがあった。

 福島第一原発事故の初期被ばくによって小児甲状腺がんに罹患した患者は300人を超えているが、今年5月、被害者のうち6名が訴訟提起をした。通称「311子ども甲状腺がん裁判」が、東京地裁で始まった。(https://www.311support.net/

 福島第一原発事故の被害住民が国と東電に賠償をもとめる訴訟は、全国に約30ある。その最先頭を進んでいた4つの訴訟(生業訴訟・群馬訴訟・千葉訴訟・愛媛訴訟)について、6月に最高裁判決が出された。国の法的責任を認めない、異様な判決だった。福島県の「生業訴訟」はすぐに第二次訴訟の準備にとりかかり、すでに1000名を超える新原告が訴訟の準備に入っているという。

 7月。東京電力の株主が、原発事故当時の経営陣を訴えた株主代表訴訟で、東京地裁の判決が出た。旧経営陣4人は東京電力にたいして13兆3210億円を支払え、という判決だ。原告・被告ともに控訴したので、つぎは東京高裁での争いになる。

 

 8月。岸田首相は、原子炉等規制法の規定にあった「原発40年ルール」を放棄し、老朽原発を稼働し続ける方針を示した。さらに11月には、岸田首相は原発の新増設を検討するように指示した。福島の被害がなにも解決しないうちに、原発回帰政策に転換しようとしている。

 

 海外に目を向けると、やはり原発回帰の動きがあった。

2月に始まったロシア軍によるウクライナ干渉戦争(特別軍事作戦)では、チェルノブイリ原発とザポリージャ原発が、ロシア軍によって占領された。ウクライナ軍はザポリージャ原発に対して砲撃を行うなどして国際的な非難を浴びた。ウクライナ政府がザポリージャに異常に執着した背景には、ロシア製原子炉からアメリカ製原子炉への切り替え問題がある。ロシア軍が介入する直前、ウクライナ政府はアメリカ・ウェスチング社のAP1000という加圧水型原子炉の新設を決めていたのだ。ウクライナは現行のロシア製原子炉をすべて廃棄し、アメリカ製原子炉に切り替える、そして核燃料の供給ルートも「西側」に切り替える方針なのである。この事業はおそらく、「戦後復興」の名の下に日本のプラント建設企業も参入することになる。ゼレンスキーがダボスに招聘されたとき、まだ講和はおろか停戦の見通しもたたない段階にありながら「復興」を議論したというのは、そういうことなのだ。ウクライナの地に「西側」原子力産業の生き残り戦略がかかっているのだ。

 

 

「復興」ということで振り返れば、今年注目されたのは、福島県浜通りで進められている「福島イノベーションコースト構想」である。政府は「福島復興」をけん引する事業と位置付けるが、現地の住民からは「惨事便乗型開発」と厳しく批判されている。ここに誘致されたもののなかで注目されるのは、ドローンの研究開発企業が入っていることだ。ドローンは、廃炉作業に必要となる技術だが、同時に、現代の兵器開発に欠かせない中心的技術でもある。この開発構想が本当に復興に寄与するものになるのか、たんに「復興」を看板にした兵器産業育成(予算ばらまき)なのか、きちんと注視しなくてはならない。福島第一原発に貯留される汚染水を海洋放出しようとする政府の態度から推測するに、ここでの「福島復興」はたんに予算を横流しするためのお題目であろう。原発で大赤字を食らった重電メーカーに、「復興」名目で別の補助金を手当てするというわけだ。

12月。岸田内閣は、防衛予算の大幅増額と、その財源確保のために、特別復興所得税の20年延長案を検討している。もう、隠すこともしないのだ。「復興」名目で集められた税金は、アメリカ製のトマホークに支払われることになる。

「復興」政策は、投資詐欺やペーパー商法に似た、欺瞞の政策である。

 

私は2011年5月の時点で「復興政策に反対しよう」と提起したのだが、やはりあのときの見立ては正しかった。

もう微熱がつづいてもうろうとしているから、歯に衣着せずに言うが、12年前、2011年の事件直後、野田のバカが言い出した福島「復興」が絵に描いた餅であることは、ものを知っている人間ならみんなわかっていたことだ。あのときに、嘘を承知で「復興」政策に便乗加担した人々は、この「復興」政策の顛末について、きちんと総括を出してほしい。自民党に政権が変わったからおかしくなったのだ? 違う。民主党政権であれ自民党政権であれ、「復興」の美辞麗句が裏切られるだろうことは、最初から予測できていた。

私は最初から「復興政策は不可能だ」「公害隠しの復興政策だ」と繰り返し言ってきたので、私に責任はない。「復興」という名目に誰も逆らえず、内容を批判的に検証することもなくここまできてしまったのは、あの2011年の復興ボランティアバカ騒ぎのせいだ。いつ達成するかわからない遠大な目標を掲げて、福島県民を12年間宙づりの状態にしてしまったのは、あのとき政府の尻馬にのって騒いでいた「がんばろう福島」運動のせいだ。12年後のこの結果を見て、反省しろ。

 

 

 

とはいえ、2023年は、すこし良い年になる。反原発運動が、発展する。

伝え聞くところでは、東京の市民グループは、あらたに公害調停を準備しているらしい。これは、放射性物質の被害ではなく、原子炉から放出された化学物質の曝露被害に焦点を当てて、東京都の公害紛争審査会に調停をもとめるものだ。福島第一原発から放出された化学物質の種類と量については、すでにJAEAがまとめた報告資料があり、それをもとに議論を進めていく。私たちが放射性プルームと呼んだものは、同時に、化学物質プルームでもあった。原発事故後に大量の鼻血が出たり、皮膚に異常が出たり、異常な倦怠感をおぼえたという報告はたくさんあるのだが、これらは化学物質に起因したものなのかもしれない。そうした新しい議論が、公害調停の場で提起される予定だ。

関係者曰く、「2023年は、これまでにない新しい景色をみることになる」。楽しみだ。

 

名古屋では、原発事故人権侵害訴訟・愛知岐阜(だまっちゃおれん訴訟)が、ひきつづき裁判運動を展開する。コロナ感染の波をにらみながら、3月の集会を準備している。https://damatchaoren.wordpress.com/

正月の間に風邪をなおさねば。

 

 

 

 

2022年12月6日火曜日

つれづれなるままにホラー映画

 

最近、近所のレンタルビデオ店の閉店を怖れて、積極的にビデオを借りている。あれこれ忙しいのに、毎日のように映画を観ている。

 

 

日本・韓国・アメリカのホラー映画を観ていてわかるのは、やはり日本のホラー映画は優れているということだ。アメリカや韓国のホラー映画にも、充分に怖いものはあるのだが、物語の構造が平板で、たんに怖いだけだ。深みのない、お化け屋敷映画である。

アメリカや韓国の怪異譚は、キリスト教の影響を受けてしまっているために、さまざまな謎や怪異を悪魔に還元してしまう。結局最後のオチは、悪魔なのだ。悪魔ってなんだよ金返せ、と思う。

 これに対して日本の怪異譚は、キリスト教の影響を受けていないために、悪魔という概念がない。怪異の源泉になるのは、怨霊か、精霊である。彼らは悪魔ではない。善でも悪でもない他者である。

 

 怨霊を描いた作品は、数えきれないほどある。日本の怪異譚の多くは怨霊譚である。日本ホラー映画の古典となった『リング』(1998)も、怨霊譚である。

人間の怨霊は、古くは菅原道真や平将門の時代から語られてきたのだが、怪異史的に画期となったのは、近世に登場した『四谷怪談』や『皿屋敷』だという。近世期になって怨霊譚は身分の低い庶民に拡大していった。「お岩さん」や「お菊さん」といった身分の低い女性が、怨霊の主体になるのである。近世以降、あらゆる人々が怨霊になりうると考えられるようになった。土木工事で亡くなった作業員、戦争で死んだ兵卒、交通事故で亡くなった子供も、ホテルで殺された女性も、すべて怨霊になることができる。その力の源泉は悪魔ではないし、必ずしも邪悪というわけでもない。人間であれば誰しも抱くであろう悲しみや復讐心といった感情の現れなのである。

 したがって、日本の怨霊譚は、キリスト教徒のような排他的な解決を目指さない。アメリカ人であれば一方的に悪魔祓いを試みるような場面で、日本人はまったく反対の行動をとる。怨霊の声に耳を傾け、事情を理解するように努め、供養をすることで死者との和解を試みるのである。供養をすれば何事も解決するというわけではないのだが、まずはとりあえず手を合わせて、畏怖と和解の意志を示すのである。

日本の怨霊信仰は、未開的な汎神論と近代的な人間主義とが結合している。このことが、日本のホラー作品を複雑で深みのあるものにしている。

 

 

 とはいえ、手を合わせて供養をすれば何事も解決するわけではない。怨霊は人間的な道理で理解することができるものだが、その範疇には収まらないような他者がある。理解も和解も不可能な他者。精霊である。精霊は悪魔ではないし、邪悪な意志をもっているわけでもない。そもそも意志があるのかどうかもわからない。

 精霊を描いたホラー映画としては、『ノロイ』(2005)や『来る』(2018)といった作品が挙げられる。特におすすめしたいのは、『来る』である。

『来る』の精霊は、山からやってくる。山の精霊が里に下りてきて、人間の命を奪っていく。精霊には呼び名がなく、正体も解明されていない。ただ圧倒的な力をもった他者である。この作品で描かれるのは、精霊そのものではなく、精霊と対峙する人間の弱さと醜さである。

 邪悪な意志が人間を襲うというのではないし、悪い行いをしている人間だから精霊に狙われたというのでもない。精霊の標的となった人々は、善人でもなければ、特に悪人でもない。みな利己的で、見栄っ張りで、嘘つきだが、それはどこにでもありそうなレベルのこずるさ、卑しさ、醜さである。それは悪と言えるほどのものではない。ただ、彼らは弱いのである。精霊に狙われた人々は、まるで弱い者が自滅するかのように、死にひきずり込まれていくのである。

 この作品が素晴らしいのは、精霊と人間の対決を、純粋に強度の問題として描いていることである。物語の中で観客は、道徳や善悪といった観念を思いめぐらせるよう仕向けられるのだが、最終的にそれは意味のないこととして、棄却される。結論として導かれるのは、強度の問題。力が強いか弱いか、それだけなのだ。ニーチェが観たらのけぞるだろう素晴らしい脚本だ。

 

 

 怨霊においても精霊においても、日本のホラー映画が優れているのは、人間に関心を向けさせることだ。日本における怪異譚は、聖書でも神話でもなく、人間に向かう。歴史学的か人類学的な関心に導かれて、怪異譚が語られる。アメリカや韓国のホラー映画には、こういう視点はない。日本映画に特有のものだと思う。

日本のホラー映画は、ある面で、啓蒙主義的であると言える。

 


追記

 ここで言いたいのは、一口に「オカルト」と呼ばれるもののなかに、啓蒙的なものと反啓蒙的なものがあるということ、そして、キリスト教の影響を受けた「悪魔」概念はけっして普遍的なものではなく、特殊なものだということである。

 理解不能な他者に対したとき、敵対意識をもって非妥協的に戦うという態度は、自然ではないし、普遍的でもない。日本のオカルト文化では、怨霊や精霊といった他者に対して非妥協的な戦いを挑んだりはしない。他者を徹底して排除しようとする「悪魔」や「邪悪」という概念は、私たちにとって異質なものだ。

 もちろん日本にあっても悪魔と戦っている人々は存在する。だがそれは、ごくごく特殊な、カルト的な集団である。統一協会の事例をみればわかりやすい。悪魔(他者)と戦うという発想が、そもそも、頭がおかしいのだ。

 カルトとカルトでないものを分別するために、悪魔概念は一つの指標になる。他者への非和解的・非妥協的な姿勢は、危険である。統一協会もそうだし、大きくとれば、アメリカのバイデン政権もそうだ。彼らは戦争にむけた挑発・動員はできるが、講和をもたらすことはできない。

 

 

2022年11月19日土曜日

統一協会新法はいらない

 自民党・岸田政権は、統一協会の活動を規制し被害者を救済するための新法制定を議論している。統一協会の反社会性を報道しているメディア各社は、この新法議論にたいして無批判に呑み込まれている。

 私は新法制定は不必要だと考えているし、こうした議論そのものが有害だと考えている。

統一協会の問題の肝は、自民党政治家と行政機関が、統一協会の活動を見逃していたということだ。この教団の反社会的活動は、多くの弁護士から告発されていたし、現行法で充分に規制できるものであった。現行法の解釈・運用を、自民党が無理やりに捻じ曲げていたということが、統一協会問題の本質である。「新法を制定しなければ規制できない」などというのは、自民党の苦し紛れのいいわけにすぎない。こんな開き直った言い分を鵜呑みにしていたのならば、どんなすばらしい新法を制定しても、適切に運用されることはないだろう。

新法制定の論議には、複数の野党議員ものっかっているが、たんなる「やってる感」で終わるだろう。立憲主義を掲げる政党が、法解釈の濫用をたださず、新法論議にほいほいとのっかってしまっているのは、非常に嘆かわしい。

 

追記

 嘆かわしいと言っているだけでは論がしまらないので、この問題の構造についてもう少し掘り下げておく。

 みせかけの議論、論点ずらしのための議論は、数多くある。現代のメディア産業は、多くの論題を提起し流通させる。ここで私たちに必要になってくるのは、ある論題について是か非かを考えることではなく、その論題が提示された背景を考え、その議論そのものの妥当性を吟味することである。その議論は、何かを明らかにするための啓蒙的な議論なのか、それとも、問題を隠し意識をそらすことを意図した蒙昧に向かう議論なのか。陰謀論の流行が私たちに教えているのは、人間は中味のない議論にこそ没頭するということだ。中味のない議論は、それを論じる主体の内容を問われることがないために、いつでも手軽に楽しめるアトラクションとなっている。

大戦後のヨーロッパに誕生したシチュアシオニストの思想潮流は、早くからこの問題を指摘していた。戦争プロパガンダの技法が、戦後の文化産業と結合し、新しい(アメリカ的な)生活文化を構築していく。戦争への動員を解除された大衆が、新しい大量消費生活へと動員されていく時代だ。シチュアシオニストはこれを、“スペクタクルの社会”と呼んで分析した。

私が“スペクタクルの社会”について考え始めたのは、1990年代の東京の都市再開発に際してだった。だが、問題をよりいっそう強く意識するようになったのは、2011年の福島第一原発事件である。広告産業と行政権力が深く結合し、公害隠しの復興政策へと向かったのである。

東電福島第一原発の爆発事件から3年後、2014年の論考で、私たちは次のように書いている。

 

……  このことをチェルノブイリ事件と比較してみよう。我々はチェルノブイリ原発の炎上する姿を見ていない。当時のソ連政府は、当初、チェルノブイリの事故を隠していた。スウェーデンのモニタリング機関が異常を指摘するまで、誰もチェルノブイリの爆発を知らなかった。ソ連政府は、事故を見せるのではなく、隠した。いまでは当時の記録映像のいくつかを見ることができるのだが、それはソ連邦内部の国民に向けて、収束作業の動員のためにつくられたプロパガンダ映画というべきものであって、諸外国の報道機関に提供するためのものではない。ソ連政府は、チェルノブイリの姿を国民に見せて、世界に見せなかった。そういうしかたで事故の隠蔽をはかったのである。

 東電公害事件をめぐる隠蔽は、かつてのソ連政府の対応を反転させた形式となっている。世界中のメディアが、その日のうちに爆発の映像を報道し、我々の目にやきつけた。そして皮肉なことに、爆心地である福島県の放送局だけは、爆発の映像を報道しなかったのである。事件をめぐるメディア状況は、チェルノブイリ事件とは対照的なかたちをとったのである。

 いまから振り返って考えてみれば、すでに3月12日の段階で、この事件をめぐる高度にスペクタクル(ルビ・見せ物)的な性格が決定していたと言えるだろう。日本政府にとって問題となるのは、世界が注視する中でいかにして問題を隠蔽するかである。単純に隠すというだけでは足りない。隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。人々の視線を遮断するだけでなく、積極的にスペクタクルを提供し視線を操作すること。人々の関心と無関心に介入し、意識の流れを誘導すること。ここから、「復興」政策全般を規定するスペクタクル(ルビ・茶番)の政治が要請されることになる。……

(「シジフォスたちの陶酔』矢部史郎+山の手緑、『インパクション』194号所収)

 

隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。これが、福島「復興」政策の基調となった。私たちは戦争の被害こそ経験してはいないが、国民動員のプロパガンダをいやというほど見せつけられたのである。嘘のデータ、嘘ではないが誤読を意図したデータ、ニセの議論、問題のはぐらかし、中味のないかけ声と空元気、等々。福島をめぐる数多くの出版物がすべて無意味であったとは言わない。だが、問題を明らかにする真に啓蒙的な出版物は、ごくわずかである。ほとんどすべての議論が、被ばくを受忍させる蒙昧へと向かったのだ。

 

事故から11年たって、福島県の汚染被害はなにひとつ解決していない。

この無為に終わった11年間の責任は、どこにあるか。もちろん政府が悪い。だが、政府だけか。

我々はただニセの議論に翻弄された被害者だと、言えるのか。

出版・報道に携わる人々は、この件について、無罪なのか。

よく考えてほしい。

 


2022年10月19日水曜日

ゾンビ(1978)を観る

 

 活動の合間に昔の映画を観ている。

1978年公開の『ゾンビ』(dawn of the dead)は、何度みても飽きない。

この作品のヒットによって、ゾンビ映画が多数つくられ、一つのジャンルを形成するまでになっているのだが、やはり、78年の『ゾンビ』が最高傑作だと思う。

 最近のゾンビは、たんなるモンスター映画になってしまっていて、ゾンビという存在がもつ哀しみが描かれていない。ゾンビが走ったり道具を使ったりするというのは、最低だ。何もわかっていない。ゾンビを走らせてはいけない。ゾンビは、走る活力を失っているからゾンビなのであって、だから恐ろしいのだ。「ゾンビは走れない」という設定は、この作品が描こうとする状況にとって絶対に必要なものだ。

 『ゾンビ』は人間の危機と悲哀の物語である。ある日突然死者の世界が始まろうとするときに(dawn of the dead)、かつて信じられていた人間の尊厳が失われてしまうという危機と、悲哀である。これは歩く死者から身を護るというだけの映画ではない。ここで描かれているのは、人間の信念が崩壊し無効化されていくイデオロギーの危機である。

人間はゾンビの脳を破壊して殺さなくてはならない。ゾンビはただ生者を食らうだけの存在だからである。ゾンビは人間を食らうことで新たなゾンビを生み出し、増殖していく。彼らによって人間の社会活動は崩壊させられてしまう。生産も、消費も、交通も通貨も崩壊していく。こうした状況で人間に残された唯一の課題は、ゾンビを殺戮し、生存のための物資を確保することだ。

 ショッピングモールに辿り着いた人間は、バリケードでモールを封鎖し、店内のゾンビを皆殺しにし、建物と物資を占有する。陳列されている食品と水、おびただしい量の商品は、すべてタダで手に入る。彼らは商品経済からも労働からも解放された世界を手に入れる。いや、彼らだけではない。ゾンビが充満する世界では、すべての人間が労働から解放される。人間に残された唯一の労働は、尽きることなく現れるゾンビを殺戮することだ。

 終わりのない殺戮によって人間は正気を失っていく。だが、それだけではない。本当の危機は、人間のもつ活力と英知が殺戮と排除に使われる以外にないという状況である。建物を占拠した人間も、駐車場を徘徊するゾンビも、どちらも生産的な労働を失っている。ここで描かれているのは、労働から解放されたディストピアであり、そのイデオロギー的危機だ。

ゾンビは走ることができない、つまり、労働を担うための活力と速度を失っている。その姿は、ゾンビと対峙する人間たちの不能状態を鏡映しにしたものだ。ここで暗示されるのは、産業労働が自動化され大量の失業者がはきだされ、「ポスト工業化社会」に向かっていく時代の、イデオロギー的危機である。

何も買うことができないのにショッピングモールに蝟集するゾンビの姿に、私たちは感情移入する。大衆消費社会の時代とは、誰もが失業しうる時代であり、産業労働者の地位が崩れはじめた時代だ。この転換期の悲哀を描くために、ゾンビは走れないのである。

 

 人々の意図に反して労働が廃絶された世界で、それでもショッピングモールは煌々と光を放ちつづける。そのエネルギー源は、人間の生産活動によるものではない。ハリスバーグの原子力発電所から電力が供給されるのだ。

 石炭の時代、炭鉱労働者たちが構築していった民主主義と尊厳は、原子力の時代に過去のものになった。