2月17日、大須作文教室の第一回交流会は、15名ほどの参加で終了しました。
当日の記録は、文字におこさないで映像だけにします。
ごらんください。
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https://oosusakubun.blogspot.jp/
2018年2月22日木曜日
2018年1月26日金曜日
2018年1月23日火曜日
「核の冬」
まずイベントの告知を二つ。
名古屋では矢部・山の手が、大阪では園良太くんたち避難者が、それぞれのイベント・集会を企画しています。
みなさんこぞってご参加ください。
さて。
私がかつて東京で一緒に動いていた人々、そして現在も東京で活動を続けている人々が、ある組織問題に直面しているということは、聞いています。何件か問い合わせがありましたが、この件について私は特に知っていることはないので、具体的なコメントはしません。介入もしません。
個別の問題を脇において、全体状況をにらみながら言うべきだろうことは、いま私たちが直面している困難は、長期的なものになるだろうということです。
いま東京では組織内の問題を解決するための試みや討議がなされていて、それは主観的には重要な作業ではあるのでしょうが、客観的には、原子力公害によってひきおこされる社会の崩壊過程のうちに一つのエピソードをつけ加えているにすぎません。
おそらく多くの人々が抱いている感覚、「こんな問題は、結論がどちらに転んだとしても、なにも良くはならない」という感覚は、正しいのです。
私はこの出口の見えない状況を、「核の冬」と呼ぼうと思います。私たちはいま、「核の冬」に呑み込まれています。この「冬」は、物質のレベルでの被害にとどまらない、上部構造にある社会の諸関係をも破壊していく「冬」です。
2011年以降、国家から発して社会全体を呑み込んでいった巨大な嘘が、私たちの体温を奪い、無力感と疑心暗鬼を蔓延させてしまいました。もう、誰も信用できません。身のまわりの誰もが欺瞞的で、国家の権威に服していて、背信行為を働いている。放射能汚染が安全だなんて誰も考えていません、そして、SNSでそれぞれが正しい主張を書きます、しかし、この放射能公害との闘いが何世代にもわたる長い闘争になるだろうことを想像したとたん、彼は口ごもり、目の前のどうでもよい関心事に話題をむけてしまうのです。
放射能汚染という大きなスケールを前にしたとき、誰もが刹那的で自暴自棄な態度にさせられてしまいます。国家が繰り返すその場しのぎの政策を批判してきた見識ある人々ですら、放射能公害に関してはその場しのぎの態度にさせられてしまうのです。政治闘争がいまほど刹那的で近視眼的なものになってしまった時代は、かつてないと思います。こうした状況を、私は、「核の冬」と呼びたいと思います。
「核の冬」の猛威から逃れるためには、東日本を離れるしかないと思います。
大阪の園くんも移住者の受け入れ体勢を整えています。
まずは下見がてら、名古屋と大阪に遊びに来てください。
2017年12月22日金曜日
山の手緑は漫画も描けるんです
山の手緑がひさびさに絵を描いています。
私の記憶では8年ぶりです。
いまから8年前、ネットラジオ『Voice Of Antifa』のステッカーでは、構成も描線も炸裂していましたが、今回は常識の範囲内です。
画伯も丸くなりました。
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大須作文教室公式ブログ
『作文教室での学び方』
私の記憶では8年ぶりです。
いまから8年前、ネットラジオ『Voice Of Antifa』のステッカーでは、構成も描線も炸裂していましたが、今回は常識の範囲内です。
画伯も丸くなりました。
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大須作文教室公式ブログ
『作文教室での学び方』
2017年12月4日月曜日
2017年11月10日金曜日
書くためのデザイン
名古屋市の大須という街で作文教室を開くために、準備をしている。
年内の開校をめざして、いまは教室の内装をつくっている。
“矢部史郎+山の手緑”で文章を書くときは、山の手緑が監修し私が書いているのだが、デザインの作業では役割が交替する。私が監修し、山の手緑が具体的な製作をしている。
書くための空間デザインは、私の経験に基づいて、床や巾木からつくりなおしている。契約した部屋は一般的なオフィス用で、作文のためにつくられた空間ではないからだ。そもそも作文のためにつくられたアトリエというものは、日本にはほとんど存在しない。大学にもない。現在の大学の教室設計は、残念ながらアトリエとは正反対のものだ。あんな留置場のような配色をした抑圧的な空間では、学生たちが苦労するのも無理もない。
私が取り組まなければならないのは、人がどんな環境で考え文章を書くのかということを、具体的に示していくことだ。
まずは教室の立地に、大須という街を選んだ。私が実際に散歩をして、ここならいけると思ったからだ。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。
教室の床は、もともと敷かれていたネズミ色のカーペットをすべて剥がした。かわりに、ブラウン・ベージュ・モスグリーンの三色でタイル模様にした。
机は、一人に一台ダイニングテーブルを用意した。天板は1m×1.5mなので、充分な広さだと思う。テーブルの高さは65cmにするか70cmにするか迷ったが、足を組んでもぶつからないように70cmにした。机と椅子は、アール・デコから派生した50年代アメリカの様式。これだけだとあっさりしすぎているので、ハンガースタンドやパーテーションなどの調度品を使って、アール・デコに寄せる。目指すのは、コーヒーを飲みながらぼんやりとすごすことのできる空間だ。
作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。ここで絶対に避けなければならないのは、自己嫌悪や無力感に支配されて、書くことを放棄してしまうことだ。自己嫌悪の感情に負けないために、自己愛を供給しなくてはならない。“書いている時間”だけでなく“書けないでいる時間”も含めて、“私は大切な時間を過ごしている”と感じられるようにしなくてはならない。そうした自己愛を備給するための空間、椅子、あるいは、コーヒーやタバコといった嗜好品が必要になってくる。
書くための空間デザインは、いわゆる「デザイナー」にはできない作業である。「デザイナー」は、デザイン作業やデザインの歴史は知っていても、書くということがどういうことかを知っているわけではないからだ。
いや、この際ついでに言うことにするが、一般的に言って、「デザイナー」の無知というのは甚だしいものがある。怒りをおぼえることもしばしばである。
「デザイナー」の無知の代表的な例としては、「子供用学習机」のデザインがある。ひどいものである。硬い椅子、狭い天板、視界をさえぎる配置、まるで拷問器具のようなデザインだ。デザイナーが児童教育に無知であるために、子供たちは「子供用学習机」に向かうたびにストレスを感じ続けるのである。あんな机で勉強をしろというのは、客観的に見て無理な要求である。結局、子供たちは「子供用学習机」を嫌って、キッチンのダイニングテーブルで宿題をやることになる。そうなると「子供用学習机」とはなんなのか。子供にも学習にも寄与しない、机ですらない、たんなる粗大ゴミである。
「デザイナー」たちの教育にたいする無知・無関心は、児童教育だけでなく大学教育にまで及んでいる。大学の空間デザインは、これまたひどいものだ。再開発されるたびにひどくなる。大学で過ごす人々が何をするために集まっているのか、彼らがどんな時間を過ごし、彼らからどんな力を引き出さなければならないのか、そのことに少しでも想像力を働かせれば、あんなひどいデザインにはならないはずだ。2000年代以降、大学や大学生は、“素敵なもの”ではなく“ダサいもの”になってしまった。その大きな要因には、大学建築の失敗がある。
まあそれはさておき。
いま私たちが設計している作文アトリエは、もちろん研究生のためにつくられるものだが、私自身のためでもある。私が何かを書くときに、もっと快適に書きたいと思うからだ。書くために深夜のデニーズに通うのも悪くはないが、どうせ教室をつくるのなら、私にとっても快適に過ごせるような空間にしたい。
2017年10月15日日曜日
多発する骨折症状について
自分でも気が付かないうちに骨折していた、という症状が報告されています。
この種の骨折、放射性物質による人体汚染との関連が疑われています。
なぜ放射性物質によって骨折が多発するのかは充分にわかっていませんが、二つの説があります。
1、放射性ストロンチウム原因説
体内に取り込まれた放射性ストロンチウム(Sr89,Sr90)が骨に混入し、弱くしている、という説。
放射性ストロンチウムは、食品のカルシウム成分に混入するので、牛乳、小魚、大豆製品を通して体内に吸収されます。体内に吸収された放射性ストロンチウムは、骨になったところで崩壊し、放射性イットリウムというまったく別の物質になります。放射性イットリウムはさらに崩壊し、ジルコニウムという物質になります。カルシウムに混入した放射性ストロンチウムは、骨の中で、放射性ストロンチウム → 放射性イットリウム → ジルコニウムと変化していくのです。もちろんこの崩壊過程でベータ線を撃ちだしていくので、周辺組織にダメージを与えていきます。このことが骨をもろくしているという説です。
2、放射性セシウム原因説
放射性セシウム(Cs134,Cs137)を体内に取り込むと、脳機能が低下します。脳機能=運動機能が低下することで、体に余計な負荷をかけているという説です。
足の運び方、着地のタイミング、腕の振り方、受け身など、人体を衝撃からまもるための微妙な制御ができなくなると、体に大きな負荷がかかります。脳機能が低下することによって、無意識に避けられていたはずの衝撃を避けられなくなっている、という説です。
私がより深刻だとおもうのは、2の運動機能低下です。
着地や受け身がうまくできないという状態は、肉体労働者にとっては致命的です。骨折で済めばまだよいけれども、打ちどころを悪くすると大事故になります。
土木や建築の現場では、小さな踏み外しこそが恐ろしい。高さ2メートル未満の脚立から落ちたというような「小さな事故」が、重い障害をのこすことになるからです。
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