2016年4月27日水曜日

原子力とその家臣団



 熊本大地震の対応に関連して、日本共産党は震源地の南にある九州電力・川内原発を停止させることを国に要求した。
 対して、労働組合のナショナルセンター『連合』を支持母体にする民進党は、共産党と同じく川内原発の停止を要求しようとしたが、結局とりさげた。
 川内原発で働く九州電力の社員たちは、その多くが電力総連の組合員であり、『連合』傘下にある労働者である。地震によって原発がスクラムした場合、あるいはベントを必要とした場合、あるいはもっと手の付けられない過酷事故に見舞われた場合、その対応にあたるために高線量被曝の死線をさまようのは電力総連の労働者たちであるわけだが、『連合』はそうした事態を事前に承認してしまったことになる。『連合』は組合員の生命を国にあずけてしまったわけだ。


 ロベルト・ユンクの名著『原子力帝国』では、フランスの電力会社でおきた事例を挙げて、原子力産業が労働者のストライキ権を失効させてしまったことを指摘している。
 原子力発電所の労働者は、他の部門の労働者と同様にさまざまな要求をすることができる。しかし、要求を通すための切り札であるストライキ権を彼らは行使できない。一般的な事業所であれば、労働の停止は事業の停止である。ストライキは誰も傷つけない無血の暴力である。しかし原子力発電所のストライキはそうではない。それは無血ではなく自爆的な暴力となってしまう。いったん原子炉に核燃料が装荷されてしまったら、かたときも目を離してはならない。誰かが常にモニターし、炉心の温度を制御していなければならない。核燃料は常に暴走の危機をはらんでいるからだ。フランスでは、原子炉の管理に関わる労働者が組合中執のストライキ指令をうけて、決行するか否かを検討し、結局ストライキを断念した。電力労働者のストライキは、原子力発電所を除外して実行された。それまで万能だと考えられていたストライキ戦術は、電力部門の一角で覆されてしまったのである。原子力労働は、近代的な労働概念から逸脱し、その破滅を予告する。


 石炭、石油、原子力というエネルギー政策の変遷を、労働者権力の可能性の歴史として振り返ってみよう。

 石炭エネルギーは、人間の労働力に強く依存する。石炭は、労働者がいなければ採掘することができない。炭鉱主は労働者と交渉しなければならないし、ときには労働者に譲歩しなければならない。労働組合運動の原型は、炭鉱労働者がつくりだしたものだ。

 石油エネルギーは、労働者に依存しない。石油採掘は労働力の動員を必要としない。かわりに、採掘権を占有する政治力・軍事力に強く依存する。アメリカ合衆国が近代的な労使関係を発達させることなく反共産主義体制を貫いてきたこと、また、自国企業の権益のためならば外国での軍事行動もためらわないことは、石油エネルギー時代の支配原理を体現したものだ。

 原子力エネルギーは、労働者を奴隷化する。原子力産業に関わる労働は、暴力団の強い関与を疑われたり、地縁・血縁を通じた氏族的支配関係を疑われたりする。原子力労働は、一般的な労働とは違うものだと人々はみなしている。この直感は正しい。
 石炭採掘が労働集約型産業の典型であったのに対して、原子力産業はその対極に位置する技術集約型産業である。技術集約型産業の力の源は、情報の占有と操作にある。技術集約型産業は秘密を管理し、対外的には嘘、印象操作、意味のない議論によって権益を維持する。秘密と嘘が、収益を実現するエンジンである。このとき労使関係とは、たんなる労働力商品の売買という明解で素朴なものではない。会社は、労使の区分を許容しない私党としての性格を強めていく。原子力モデルの労使関係は、成員の全てを秘密と嘘の共犯関係に巻き込んでいく私党的統治に向かう。ここで労働者が動員され搾取されるのは、筋力や技能や集中力ではなく、私党化した会社への忠誠心である。忠誠心は、前近代的でありもっとも現代的でもある、資本蓄積の原理である。

 原子力発電とその汚染をめぐる科学論争は、天動説と地動説の論争のような不毛さに満ちている。この論争に際して、労働組合がまったくなんの役割も果たさないでいるのは、こういうことがあるからだ。天動説はたんに誤った信念というだけでなく、ひとつの権益である。電力会社の社員たち、そして電力総連は、一つの国が滅びるかどうかという重大な局面にあっても会社への忠誠心を手放さない。炭鉱時代の労働者たちが、会社から自立した自我を保持していたのに対して、原子力時代の会社員は近代的自我を放棄している。彼らは私党に仕える家臣団のように、奴隷的労働を美化するのである。

 『連合』は電力総連を切り離すか解体するかしなければならない。この反社会的労働組合と共闘していたのでは、労働運動の大義は失われてしまう。人民の一般的意志から分離したところで労働運動を維持できると考えるなら、それは重大な誤謬だ。電力総連と民社協会に未来はない。早々に切り捨てるべきだ。




2016年4月16日土曜日

九州のみなさん、旅行をしましょう


 熊本大地震は、震度6の余震が続く強度の高い群発地震になっています。現在の震源は熊本市周辺ですが、今後の震源がこの範囲に収斂するとは限りません。東日本大震災の例を見れば、震源は動きます。

 九州電力は、鹿児島県の川内原発を停止させません。国も原発を停止させません。
 こうなれば、いまとりうる最善の選択は、川内原発から200km圏の住民が、予防的に退避しておくことです。
 原発がおかしくなってから動き出すのでは遅いのです。5年前の福島では、退避が間に合わず病院で亡くなられた患者が多数出ています。原発がベントしてしまったら、もう逃げる時間はほとんどありません。車にガソリンを給油している間に放射性物質を浴びせられることになります。

 先行的に予防的に200km圏外に退避しておくこと。これはけっして非現実的な妄想ではありません。福島の経験から得られたきわめて現実的な教訓です。
 とりあえず3日ほど九州から退避して、何もなければ戻ればいいのです。ちょっと小旅行をするつもりで、本州方面に退避しましょう。この旅は、5年前の東日本住民がどのような経験をしたのかを知る疑似体験の旅になるでしょう。

 森くん、ピンクさん、外山とその一派、九州に暮らす友人の皆さん、本州に退避してください。
 私のうちは名古屋ですが、5人ほど受け入れ可能です。



2016年4月1日金曜日

防護講座、第9回と最終回

放射線防護講座、ひとまず終了。

あとはサイトを作って拡散する方法を考えねば。



2016年3月31日木曜日

防護講座、第7回と第8回

第7回「測定結果の読み方」と
第8回「サンプル調査の読み方」を
アップしました。

第8回は、絵と図だけでやってみました。われながら極端。




2016年3月30日水曜日

防護講座第五回

第五回アップします。
いやあ。自宅にホワイトボードを設置すると、かなり便利だね。
一家に一枚ホワイトボード。おすすめです。


第六回もできちゃった。
楽しいなこれ。


2016年3月29日火曜日

YOUTUBEで放射線防護講座

『中学生からの放射線防護講座』、第三回と第四回を公開しました。

昨日、山の手緑さんがホワイトボードを買ってくれたので、私の部屋に設置しました。
これからは、いつでも好きなときに収録できます。


では第三回と第四回、どうぞ。



2016年3月16日水曜日

ラッツァラート『記号と機械』をいただきました



『記号と機械』――反資本主義新論

マウリツィオ・ラッツァラート 著
杉村昌昭・松田正貴 訳



 訳者の杉村氏から本をいただきました。
ありがとうございます。
ひさしぶりに書評のようなものを書きます。



 著者のマウリツィオ・ラッツァラートは、現代マルクス主義の理論家です。1968年のフランス「5月革命」と、70年代イタリアの「アウトノミア運動」以降に登場した「ユーロラディカリズム」の理論家です。
 ユーロラディカルの特徴は、社会民主主義やマルクス=レーニン主義といった既存の左翼潮流との思想的断絶にあります。彼らは社会民主主義者のように代議制(議会制民主主義)に依拠しません。マルクス主義者はだいたいそうです。そして彼らがマルクス主義者でありながら、レーニン主義者(共産党)と違っているのは、党を自明視しないということです。党や党に従属する組合というものを信用しないのです。それは彼らが経験した「5月革命」や「アウトノミア運動」というものが、党にも組合にも組織されない人々によって惹き起こされたという事実からきています。
 フランス「5月革命」は、社会党や共産党が指導するストライキではなく、大衆による(自然発生的に見える)ゼネラルストライキでした。イタリアの「アウトノミア運動」は、どんな政党も組織しなかった青年や女性による大運動でした。アウトノミア運動がオペライスモ(大衆主義)の運動と呼ばれるのは、それが党の指導を受けない雑多な人々によって担われていたからです。
 賃金労働者を労働組合に組織し、労働組合を中核として共産党を建設する、そうしたマルクス=レーニン主義の方法は、68年以降にほころびをみせはじめました。ヨーロッパのラディカルなマルクス主義者は、従来のレーニン主義の方法を再検討します。彼らは、それまで周辺的で従属的な存在とみなされていた人々、女性、青年、外国人労働者に、社会変革の原動力を見出すようになるのです。
 こうした思想潮流は、日本ではフリーター(非正規労働者)の労働運動にあらわれています。かつてフリーターは、党からも組合からもほとんど相手にされない存在でした。女性パート労働者や青年フリーターは、労働運動の周辺にある例外的な存在とみなされていました。しかし2000年代に、東京の青年労働者が独立した労働組合を結成します。彼らは既存の労働組合によって組織されたのではありません。彼らは独力で組合をつくり、既存の組合組織とは違った視点で、労働運動の再定義をはかります。つまり、女性や青年や外国人労働者は例外的な存在ではなく、むしろ、非正規労働者こそが労働運動の中核に位置づけられるべきである、と。そうして彼らは労働運動全体の支配的な考え方に変更を迫ったのです。



 さて。かたくるしい前フリはこれくらいにして、本題に入る。
 アウトノミアの理論家たちの特徴は、ユーモラスであることだ。ガタリにしてもネグリにしても、本書の著者ラッツァラートにしても、どこかユーモラスでおかしみがある。彼らは絶望的な状況のなかでも希望を捨てない。うまくいかないことばかりだが、あきらめない。七転八起。タフである。そして、けっして楽しい話題ではないきびしい現実を直視しながら、なぜか読み進めるうちに笑みがもれてくる。不思議だ。

 たとえば次のような一節。

「主観性の生産を「経済」から分離することができないのと同様に、主観性の生産は「政治」からも分離することはできない。政治的主体化をどのように構想するべきか? いかなる政治的主体化も存在に影響を及ぼす主観性の変化と転換を伴う。(…)
 主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるわけではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。なぜなら主観性の変化は、主観性の核心に位置する非-言説性、非-知、非-文化変容の場に影響を及ぼすからである。主観性の変化の基盤には、自己、他者、世界の存在論的な理解と肯定があり、この存在論的・情動的な非言説性の結晶化を起点にして、新たな言語、新たな言説、新たな知識、新たな政治の増殖が可能になるのである。」

 なんてことを言い出すのか(笑)。かりにも言葉で身を立てている人間であるならば、もう少し慎重にもってまわった書き方をするべきところを、たった数行で書いてしまっている。「主観性の核心に位置する非-言説性」て。ざっくばらんにもほどがある。楽しい。
 誤解がないように説明するが、私がここで「楽しい」と書くのは、一般的な意味で、「みなさんきっと楽しめるから読んでくださいね」という意味で「楽しい」のではない。またその反対に、「これは現代思想の素養のある人間にしかわからない高度なユーモアですよ」というのでもない。ここにあるおかしみは、一般的ではないが卓越したものでもない、そうした尺度をはずれた特異的、かつ、普遍的なおかしみだ。

 もう一度読んでみよう。

「主観性の変化は、まず第一に言説のレヴェルで現れるのではない。つまり、言説、知識、情報、文化の次元において優先的に現れるのではない。」

 なにが心に響くかと言って、私はいま日本の放射能汚染の渦中にあって、言説、知識、情報、文化に、うんざりしているのだ。
 まったくひどい状態だ。もちろん私だってあきらめてはいない。私は言葉を使って考えて、言葉を使って表現し、言葉で働きかける。仲間を求めてもいる。しかし現在流通している言説の表面をみれば、まあ惨憺たる状態だ。日本の言論人なんてのはアホと嘘つきと腰抜けばっかりだと思う。もう、絶望している。
 そんななかで、私はこう自問自答するのである。放射線防護に取り組んでいる人々、避難移住者、そして我々の子供たちは、今後どのようにして「政治的主体化」を構想することができるだろうか。それは可能だろうか。我々は言葉を失ったまま、沈黙して生きるしかないのか。
 いや、そうではないのだ、と、ラッツァラート(とガタリ)は言っている。
たしかに私は言葉を失い、文化を失い、なにもかも剥奪されてしまった。しかしそんな絶望的な状態におかれるなかで、「新しい言語」の起点となる「存在論的・情動的な非言説性の結晶化」を経験しているのだ、と。

 うん。
 たしかにいま私は、主観性の変化を経験している。そうだ。そうそう。すごいはげしい変化だよ、これは。

「新たな言語、新たな知識、新たな政治の増殖」。
 うん。
 なるほどね。