2020年11月20日金曜日

とつぜん救援会

  名古屋のサンサロ*サロンという場所で、月に一度研究会を開いていたのですが、そこにきていた参加者の一人が、いきなり令状逮捕されてしまいました。

 しかたがないので、救援活動に加わることになりました。

賛同者とカンパを募っています。詳しくはこちらへ↓

https://ameq1118.seesaa.net/article/478608448.html



追記

 

 いま21日。2回目の救援会議を終えて、ようやく時間ができたので、補足情報。

以下に示すのは救援会ではなく、私の個人的見解です。

 

名古屋のエサマンという自称アナキストが、救援会声明に異を唱えていわく「救援会を分裂させる行為だ」などと主張しているらしい。エサマンは、自分の行っている救援活動を矢部史郎らに妨害されていると主張したいらしい。これは完全に間違った認識である。

 エサマンは救援活動を行っていない。彼はただ拡声器を担いで警察署に赴き演説しているだけである。そして、演説が終わるとツイートをする。それだけだ。この三日間にいくつもツイートをしているが、あんな風に警察の見える場所で情報を開示するのは、けっして救援活動ではない。

 救援活動の初動は、非常に忙しい。膨大な作業があり、時間との勝負だ。関係者と協力者をかきあつめて、情報収集、分析、活動の位置づけを議論し、必要なリソースを探し、意見調整を何度も重ね、現実的な解を探っていく。そうして救援活動の基本的な方向性と戦略を公式に示し、広く支持を求めるプラットフォームをつくるのだ。初動の三日間は寝る暇もない。それは私がノロマだからではない。私や藤原氏や高橋氏のようなある程度のベテランであっても、初動にやらなければならない作業は膨大で、休む暇もないのである。

 この忙しい3日間に、エサマンがあれだけツイッターをいじっていられるのは、彼がなにも作業をしていないからだ。救援活動を経験してきた者なら、誰でもわかる。ツイッターなんかやって遊んでるよこいつ、と。本人は無知だから、自分の本性が見透かされていることにも気づかない。基本方針となる声明すら提示できないのに、俺はやっているぜと主張するのだ。

 呆れてものも言えない。あんな口だけ野郎の自己主張は、無視してください。


2020年9月10日木曜日

9月13日にオンライン集会

 集会のお知らせです。

全国で行われている原発賠償訴訟。

愛知・岐阜訴訟は、昨年の一審判決を不服として控訴審に入ります。

名古屋地裁での傍聴行動は、毎回たくさんの支援者が集結し注目を集める裁判となっていましたが、控訴審も引き続き支援をしていかなくてはなりません。ところが、3月に準備していた集会はコロナ禍で中止。どうしたものかと考えた結果、全員をオンラインでつなぐ集会です。

愛知・岐阜の集会ですが、オンラインなので、全国集会です。全国のみなさんご注目ください。

 



9月13日 14時~

視聴チャンネル↓
https://www.youtube.com/watch?v=Vehsc_mWh00&t=6901s

2020年8月6日木曜日

8月8日の名古屋都市研はスカイプで中継します

 8月8日15時から、名古屋駅西サンサロ・サロンで名古屋都市研究会を行います。ゲストは、酒井隆史さんです。
 今回は、会場が密になってしまうことが予想されるため、Skypeでの視聴を準備しています。
 Skypeで ”名古屋都市研究会” を検索して接続してください。質問・意見などは、Skypeのメッセージからできるように準備しています。
 
 新型コロナウイルスの感染爆発が始まり、気が落ち着かない状況です。地球規模の危機と、”危機管理”政策の破綻のなかで、何を考えるのか。
 いまレジュメを書いています。何から手を付けていいかわからないぐらい頭が混乱していますが、当日の対話が楽しみです。

2020年7月23日木曜日

若いアナキスト



 東京の若いアナキストが私に会いたいというのだがどうかという連絡があって、名古屋市内で待ち合わせて話をした。会ってみれば、自分の子とほとんど変わらない年代の若者だ。

彼はいま東京を出て、広島や京都や名古屋を旅しながら、新しい住処を探しているという。前回のブログ記事で東京からの退避を呼びかけた直後に、まったく同じことを考えている人間が現れたので、少し驚いた。天気の良い日だったので、金山駅前の風通しの良いカフェテラスで呑んだ。

 若いけれども聡明で、よく勉強している。腹に一物を抱えながら一人旅をして、初対面の相手にも臆さない度胸がある。なにより良いと思ったのは、道徳心がないことだ。彼は道徳よりも優先すべきものがあることを理解している。思わず笑みがこぼれるほど不道徳だ。数年後には頭角をあらわすだろう。

 東京を出るなら名古屋に来なよ、と喉元まで出かかったが、言わなかった。そういう誘い方はアナキストらしくない。彼ぐらいの豪胆さがあれば、どこへ行っても生きていける。彼は私の世代には想像できないようなやり方で生きて、きっと強い左翼になる。

2020年7月13日月曜日

今後の予定

 8月8日、酒井隆史さんと私で、トークイベントをやります。
 このかんまったく話していないことを、じっくり話したいと思います。
 場所は名古屋の駅西サンサロ・サロンです。

 ところで、東京はもう本当にダメですね。国も都も感染対策を放棄してしまった。コロナウイルスの第二派がきたら、都市機能は麻痺してしまう。文化活動も学術研究も停滞します。東京は人間を強くする都市ではなく、もっぱら人間を消耗させる都市へと変わる。
この停滞は五年ほど続くでしょうから、若い人は早々に見切りをつけて、東京を脱出したほうがいい。京都でも名古屋でも、感染を抑制できている中規模の都市への移住をすすめます。
 

2020年5月27日水曜日

ロックダウン化のプリズム




 「左翼が沈黙している」、と新聞社のデスクが言った。今次の新型ウイルス問題で、左翼がほとんど発言をしていない、どうしたことか、と言うのだ。いやいや共産党もその他の諸党派も、なにか言っているでしょう。社会保障を拡充しろとか、医療体制を強化しろとか。反グローバリゼーション運動の中心を担ってきたATTACは、今次の事態が新自由主義グローバリゼーションのもたらした結果だとして、改めて、新自由主義世界政策の廃棄を訴えている。
 だがこのデスク氏は、違うという。彼女の眼には、それらが不充分なものに見えるようで、事態の全体も、核心も、今後の展望も、明らかにされていないというのだ。

 彼女が不満を漏らすのもわかる。批判的知識人は、この事態を総括的に分析・評価することを躊躇している。数多いる知識人が、いま手っ取り早く何かを言うことを避けている。だがそれは彼らが怠けているからではなくて、この事態に誠実であろうとするからだ。
 通常であれば、批判的知識人は政策をざっと見渡して、その中心となる国家意志がどこにあるのかを見定めようとする。だが、今次のウイルス対策では、肝心の国家意志がブレている。国家の諸部門と資本の諸部門と政治の諸勢力が、新たに再編されようとしているのだが、その方向性が定まらない。これは日本一国がそうだというのではなくて、世界の諸権力間で事態が流動化している。権力の体勢が定まっていないのだから、政治分析の方法はしばらく控えようということになる。この慎重さは、ジャーナリズム的には不満がのこることかもしれないが、学術的には成果と言えるものだとおもう。


 新型ウイルスへの対処として、日本でも都市のロックダウンが実行された。ある者は積極的に、ある者は消極的に、行政の自粛要請に従った。
 この50日間の経験を「国民一丸となって」と表現することは、事実として間違いであるし、捉え方として生産的でない。私たちの50日間は、そんな安っぽいものではない。私たちがこの間に学んだのは、社会は一つではないということである。
 例えば、全国の学校が閉鎖されたことで、1400万人の児童とその家庭が自宅待機を経験したのだが、その受け取り方は一様ではない。追い詰められ悲鳴を上げた人々もいれば、解放感を味わった人々もいる。もう限界だという家庭もあれば、もっと継続してもよいという家庭もある。テレワークを経験した人々のなかには、仕事がはかどった人もいれば、まったく仕事にならないという人もいる。家庭内暴力を経験した家庭もあれば、良い意味で関係が変わったという家庭もある。深夜営業のバーが閉鎖されたことで、行き場を失って途方に暮れた人間がいる一方で、自宅で一人で過ごすことの楽しみを発見した人間もいる。ロックダウンがいったん解除されて、喜んでいる人々がいる一方で、持病を抱えた人々やお産をひかえた人々は警戒心を強めている。
 私たちは、一つの出来事を経験しているように見えるとき、実際には、それぞれがまったく違った経験をしている。一つの光から複数の色が放射されるプリズムのように、社会は多数性(多様性)をもっている。ある出来事が何であったのかを、一様にまた一義的に評価することはできないのである。
 この間の経験で私たちが学んだのは、社会にはさまざまな境遇と事情をもった人間がいて、多数多様な社会が存在することだ。人々は自分とはまったく違った境遇にある人間を想像するようになったし、困難を抱える人々にいたわりの気持ちを持つようになった。
 また、出来事を一義的に解釈するのではなく、肯定性と否定性を同時に見るようになった。つまり、両義的に考える習慣をもつようになった。ある人の不合理に見える行為を一方的に断罪するのではなく、それがどういう背景と事情をもって行われているのかを見ること。一般的に良い政策に見えるものが、ある人々にとって危機的な状況を生み出すものであることを知ること。私たちはこの50日間でそうした訓練を積んできたといえる。


 2011年の放射能汚染事件の頃と比較すれば、事態はずいぶん良くなっているように思う。放射能汚染問題に際しては、人々は復興政策に雪崩をうって、政策の是非を議論する余地もなかった。汚染問題を告発する人々は孤立させられ、復興政策の障害物として一方的に断罪された。「復興」、「絆」、「平常通りの経済活動」に疑いを挟むことは、「風評被害」と名指しされ排撃されたのだ。あの悪夢のような民進党政権時代と比べれば、現在はずいぶん風通しが良くなったと思う。
 人々が両義的な思考を身に付けることは、扇動的なデマゴギーを退け、議論を唯物論的に遂行する条件になる。かつて復興政策のデマゴギーに呑み込まれた「左翼」や「知識人」には、もうしばらく沈黙していてもらいたい。


2020年5月10日日曜日

ノート ドイツ・韓国・台湾について




 新型ウイルスへの対処は、各国の政体の特徴を表しているように見える。
 これはおおまかに四種に分類できると思う。

A 小さな政府・ネオリベラリズム型  イギリス・アメリカ・日本
B 大きな政府・強権国家型      中国・フランス
C 技術主義・管理権力型       ドイツ・韓国・台湾
D 無政府状態・ネオリベラリズム型  ブラジル・アフリカの小国群

 感染爆発に対してもっともスマートに対処したのは、Cの管理権力型の諸国、ドイツ・韓国・台湾である。これらの国は、大規模なPCR検査を迅速に実施したことで、COVID19の第一波を収束させようとしている。なぜ彼らは、迅速・適切な対処ができたのか。

 ここからは仮説である。
 ドイツ・韓国・台湾に共通しているのは、冷戦期以後に分断国家の歴史をもっていること、そして、それぞれの政府が「若い政府」であることだ。
 冷戦期以後、ドイツは東西に分断され、朝鮮半島は南北に、中国は大陸政権と台湾政権に分断された。東西冷戦の境界であり焦点となったこれらの国は、80年代末から90年代初めに大きく政体を変えていく。東西ドイツは統一ドイツとなり、韓国・台湾では圧迫されていた民主化勢力が政権交代を実現した。彼らは30年ほどの歴史しかもたない「若い政府」なのだ。

 冷戦の焦点となった分断国家は、当然のことながら警察国家の性格を強くもっていた。西ドイツ・韓国・台湾は、反共産主義陣営の最前線にあって、共産主義者への弾圧を繰り返していた。東ドイツはその反対に、反共主義者を監視・弾圧するために政治警察を活動させていた。分断国家の政府と官僚は、国民の一人一人に強い関心を持ち、その思想を監視していた。その状況は、管理権力の技術的基盤を整備する条件になっただろう。彼らが大規模なPCR検査を躊躇することなく実施できたのは、この冷戦期の負の遺産が影響していると思われる。
 考えてみれば、ウイルスのキャリアを炙り出すという作業は、「思想犯」を摘発する作業に似た、非常に手間のかかる作業だ。反政府思想は静かに感染する。それはクラスターを形成するケースもあるし、形成しないケースもある。一人一人を丁寧に細心の配慮をもって観察しなければ、思想犯の摘発はできない。油断をすれば感染は拡大する。すべての国民を「陽性」、潜在的反政府分子と想定して行動計画を立てるべきなのだ。
 ドイツ・韓国・台湾の政府が、感染爆発をスマートに抑え込んだことを、私は羨ましいと思うと同時に、怖ろしいとも思う。これは手放しで喜べる話ではない。成功の背後に不幸な歴史が見え隠れするからだ。

 以上は政府の話。次に社会の話である。
 冷戦期分断国家の社会は、国家と民衆とが闘う以上に、民衆と民衆が闘う社会である。焦点となるのは共産主義の是非である。共産主義は絶対的・非和解的な性格を持っているので、漠然とした国民主義や共同体主義に解消されることはない。共産主義者と反共主義者の闘争は、非和解的闘争となって社会を分断するのである。
 これは見習うべき点だと思う。韓国の民衆が、政府の呼びかけに従って一丸となって感染収束に取り組むことができたのは、彼らの社会の基層に、非和解的な分断と緊張があるからだろう。
 これは天皇制国家日本とは対照的である。日本民衆は二言目には「絆」だとか、「アキヒト上皇は護憲派だ」とかいって、漫然とした国民主義・共同体主義にもたれかかっている。そして感染対策は遅々として進まない。まったくだらしない。政府にも社会にも緊張感がないのだ。

 とはいえ、日本社会にも深い亀裂は生まれつつある。民衆と民衆が殴り合う非和解的闘争の主体となるのは、主婦である。いまもっとも危険な「反政府分子」は、主婦だ。
 日本の主婦のフェミニズムが、日本社会をボコボコにする作業を、私も微力ながら加担していきたい。

2020年5月8日金曜日

孤立の技法へ




 学校が閉鎖されて一カ月がたつ。小中学生を抱える家庭は子供の世話に忙殺されて大変だろう。幸いなことに私の子は大学生になって巣立っていったので、世話を焼く必要がない。まったく、ラクだ。
 私の子は京都の大学に進学したが、大学は閉鎖している。大学のカリキュラムが始まらないということは、学習環境としては理想的である。私の子は大教室の講義に通うかわりに、学生寮内のなんとか研究会の自主ゼミや、寮自治会のなんとか委員会の論議の中で、修練を積むのだ。少なくとも1年間、長ければ3年間、こうした状態が続く。これは本来の大学の姿に近い、とても望ましい環境だ。抑圧的な教室から解放的な自主ゼミへ、教育研究活動の重心が移行する。大学生の知的水準は、この学校閉鎖の数年間でめざましく向上するだろう。
 
 学校が閉鎖されて、親は忙しくなって大変だが、子供たちにとっては悪いことばかりではない。大人が考えるほど子供は学校に依存していない。学校に依存しているのは、むしろ大人の側だ。
 子供たちは学校という制度と建物を失って、別の方法を模索するだろう。人に会いたければ人に会いに行くし、何かを学びたければ学ぶだろう。学校を媒介しない別のやり方で、それを遂行する。漫然と学校の建物に通うというのではなく、本当に会いたい人間に会いに行く。そこで本当に話したいことを話し、本当に学びたいものを学ぶ。そうした経験を積むことで、親よりもはるかに肝の据わった人間になる。

 いま日本の1千500万人の子供たちが、学校から解放され、新しい見地にたとうとしている。
 大人たちも大急ぎでそれに追いつかなければならない。その基礎的条件になるのは、孤立である。孤立に親しみ、孤立から力を引き出し、力を恐れるのでなく肯定することだ。
近代大衆社会が生まれる以前、人間はいまよりもずっと孤立に親しんでいた。西洋でも東洋でも、人は修練を積むために人を離れ、隠棲し、孤立した環境のなかで力を引き出そうとしてきた。近代になっても、マルクスやニーチェといった哲学者は孤立した環境で思索を重ねていた。彼らのやり方から見れば、現代人は群れすぎている。自閉する時間が足りない。だからコミュニケーションの量ばかり増えて、質が失われている。口数は多いが、内容が薄いのだ。
 ロックダウンは、とてもいい機会だと思う。
 孤立に親しみ、思考力を鍛える時期だ。

2020年5月5日火曜日

医師会のモラルハザード

 専門家会議と医師会が、PCR検査不要論を力説している。
 ということは、どういうことかというと、彼らは病院における院内感染を防御しないと宣言したということだ。
 すでに東京では院内感染ドミノが始まっている。また、神戸の病院がおこなった調査では、一般の患者(COVID19発症者以外の患者)のうち3%が、COVID19の抗体をもっていたという結果がでている。つまり院内感染は防がれていないのだ。現在の病院は、まったく無防備に陽性者の患者を受け入れていて、他の患者への感染を促してしまっているわけだ。そのことを表面化させないために、PCR検査不要論を主張しているのだろう。
 医師会がこうした態度に出ているのは、アビガンが予防薬として有効となったからかもしれない。医療スタッフにはアビガンを服用させ、一般の患者に対しては成り行きに任せるということだろう。
 すごいな。
 モラルハザード極まれりだ。

2020年4月26日日曜日

大阪維新の会から学ぶべきこと

 みなさん感じているところだと思うが、大阪維新が不快だ。

 あいつら本当にアゴばっかりよくまわるな。
口動かしてないで手を動かせ、と言いたい。
こう感じるのは、私が愛知県民だからだろうか。大村知事や河村市長はあんな風にべらべら喋らない。大阪とは対照的だ。

 やるべきことはだいたい決まっているのだ。議論の余地はない。素人の持論を開陳してるヒマがあったら、さっさと医療資材を調達しろって。雨合羽なんか集めてないで、ちゃんと予算を組んで対応しろって。

 維新の会の迷走を見ていると、大阪のファシスト的な傾向というのは、ある種の強迫神経症なのかとも思う。行動への躊躇が、べちゃくちゃとしたおしゃべりに転化し、自動運動を始める。
庶民的と言えば庶民的だが、首長や政治家までそうでは困る。

2020年4月20日月曜日

「俺はコロナだ」事件をどう解釈するか




 新型コロナウイルスが市中感染の段階に入ってから、愛知県では「俺はコロナだ」事件が多発している。
 「俺はコロナだ」事件とは、ドラッグストアや、スーパーマーケットや、市役所の窓口などで、訪問客が「俺はコロナだ」と通告して立ち去る、という事件だ。対応した人は強いショックをうけ、店では消毒作業に追われる。いま愛知県では、これが流行っている。
 興味深いのは、この種の事件の犯人は、もっぱら男性であるということだ。しかも若者ではなく、中高年の男性がこれをやるのだ。

 なぜ彼らは、「俺はコロナだ」と言うのか。
理由として考えられるのは3つ。
1、市中感染への恐怖心から
2、行動制限への反発心から
3、隔離措置の要求(期待)
 彼らを衝き動かしているのは、この3つの混合したものだと思われる。
1と2は、まあ、わかる。致死率の高い新型ウイルスは怖いし、行動制限は非常にフラストレーションがたまる。これは老若男女みな感じているところだ。だが、この2つだけでは、「俺はコロナだ」犯にはなれない。

 ここからは私の解釈だが、「俺はコロナだ」犯は、たんに表面的外形的な欲求不満を爆発させたのではない。もっと深い、人間の内奥にある、実存的な危機を経験している。それは、人間の自由と主体に関わる問題だ。
 市中感染は、各人の努力次第で予防することができる。私たちは将来、感染するかもしれないし、感染しないかもしれない。その運命のどちらかを、自分の手で獲得することができる。いや、自分自身の努力によってしか感染予防はできない。他人任せにしていたのでは、新型ウイルスの餌食になってしまうだろう。いま多くの人々は、新型ウイルスから自由であり、このまま自由であり続けるために主体的に感染予防に取り組まなければならない。そういう状況におかれている。
 これは、大変なことだ。自分が客体ではなく主体になるということを、突然強いられることになったのである。自分が自分の運命を主体的に生きる。そんな生き方をしてきた人間がどれだけいるだろうか。この社会は、そんな主体的な生き方を許す社会であっただろうか。いきなりやれと言われても、困ってしまうのだ。

 「俺はコロナだ」は、悲鳴である。
 愛知県民はいま深い危機を経験している。
おもしろい。


2020年4月7日火曜日

日本ではトリアージは実施されない


 4月7日時点でのメモ。

 日本政府は新型ウイルスに関する「緊急事態宣言」を発出した。
この宣言に一定の効果はあるだろうが、総体としては、政府の「やってる感」を演出するものにとどまるだろう。
 中国のような強権的な施策はとれず、だらだらと棄民政策がつづく。おそらく10万人のオーダーで死者が出ることになる。

 とくに大きな被害を出すのは医療機関である。もともとやせ細っていた医療体制は、この新型ウイルスによってますます弱体化するだろう。本来であれば、トリアージを実施すべき場面ではある。重傷者の治療をあきらめて、その分の医療資源を軽症者の隔離・治療にふりむけるべきだ。だが日本の国家権力は質的に弱いものなので、強権的なトリアージは実施できない。中国のような強い国家でも、それを公然とはできなかったのである。日本でのトリアージ実施は、とうてい無理だ。重傷者の対応をだらだらと続けさせ、多くの医師と看護師を死なせてしまうだろう。
 新型ウイルスが医療スタッフをなぎ倒していくことで、他の疾患の患者にも影響が出るだろう。本当であれば治療できたはずの者が、人員と施設と資源が足りないために死んでいく。これは関連死だ。関連死は、感染の終息後にも長く尾を引くことになる。




2020年4月5日日曜日

換気と自律



 10日ほど前に、娘は京都市内の学生寮に引っ越していった。1960年代に建てられた古い建物に、約400名が入居しているという。学生による自主管理を続けてきた自治寮だ。
 新型ウイルス問題に際して、この寮では換気を徹底することにしたという。昼も夜も窓を開け放った状態で、生活している。こういう対策は、寮自治会の対策部会で、つまり学生たち自身の会議で、決定するのだという。さすが自治寮だ。もしもこの400名の寮で感染者が発生してしまったら、文科省による自治寮つぶしにかっこうの材料を与えてしまうことになる。だから学生たちも必死だ。絶対に感染者を出さないという覚悟をもって臨んでいる。素晴らしいことだと思う。やっぱり自治寮は、安心して子を預けられる。

 この古い建物も、よい。学生たちの換気対策を可能にしているのは、この建物に開閉できる窓があるからだ。
 そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、近年は、窓が開閉できない建物も多くなっている。オフィスビルや商業建築はもちろんのこと、大学施設でも窓の開かない建物が増えている。大きな板ガラスをはめ殺しにして気密性を高め、換気は空調機まかせ、という設計だ。窓を開けられない、換気扇すらない、という空間は、例外的なものではなくなったのである。

 こういう空調管理型の建物は、外観は清潔に見えるが、新型ウイルスにたいしては脆弱である。換気を機械まかせにしているのだから、もしも機械に不具合が起きれば、全滅だ。
 窓を開け放って寝ている自治寮の学生たちは、見かけは滑稽に見えるが、しっかりと自律的に対策をとっている。
それとは対照的に、空調を機械まかせにしているオフィスや教室は、見かけは格好いいが、ずいぶん他律的であぶなっかしいものだ。とくに今は、不潔な空間となっている。
90年代以降に建てられたインテリジェントビルには、気をつけよう。





2020年4月3日金曜日

ワクチン主義と家事労働




 科学史家イザベル・スタンジェールは、著書『科学と権力』の冒頭で、パスツール研究所の成立過程を振りかえっている。
 と、いまその本を探したのだが、本棚がめちゃくちゃで見つからない。なので、ここからはうろおぼえで書く。
 スタンジェールの整理によれば、パスツール研究所の成功のカギは、ワクチン開発とその商品化であった。そして、ワクチン商品の誕生によって後景化されたのは、環境整備の技法である。
 防疫の試みには二つのアプローチがあって、一つは衛生的な環境を整備する技法の確立、もう一つは種痘やワクチンの開発であった。勝利するのはワクチンである。なぜならワクチンは、経済的に大きな利益を生み出す商品になったからである。それにたいして、環境整備の技法は、商品化することのできないこまごまとした知見と実践である。それは普及力の高い知識であり、経済的な利益としては、手引書の売り上げ程度にしかならない。パスツール研究所を成功に導いたのは、ワクチン販売が生み出す莫大な利益であった。

 では、防疫への寄与度はどちらが高いのかというと、これは圧倒的に環境整備である。家畜の飲み水を清潔に保つこと、畜舎を清潔にすること、一つ一つは小さな、こまごまとした配慮の集積が、防疫を実現する。だが、環境整備は手間がかかる。これは、ワクチンのような一発打てば解決という商品ではなく、日常的な配慮と実践の積み重ね、言わば家事労働に近いものだ。
 パスツール研究所の成功は、ワクチン主義を上位におき、環境整備を下位におくという政治的ヒエラルキーを生み出してしまった。本当は、環境整備の方が寄与度は高いのだが。

 この政治的ヒエラルキーは、人間の医療現場に当てはめて言えば、医師と看護師の関係にあたるだろう。医師は、処方箋を書き薬剤を投与する。看護師は、ベッドや備品を清潔に保ち、患者の療養環境を整備する。政治的な決定権は、医師が独占している。この構図を、私たちは疑うことなく受け入れているのだが、本当にそれでいいのかという疑問もある。
 今次の新型ウイルス問題では、効果のある薬剤はなく、ワクチンもない。アメリカの製薬企業ジョンソン&ジョンソンがワクチン開発を開始したが、実用化は来年以降だという。こうなると当面は、医師の仕事はない。いま新型ウイルスに対抗する唯一の武器となるのは、環境を整備する看護師たちの技法である。部屋を適切に分割すること、汚れたシーツを適切な手順で洗うこと、備品・ドアノブ・手すりを清潔に保つこと、部屋を換気すること等々、細やかで厳密な配慮を積み重ねることだ。
 テレビには医師が登場し、新型ウイルスへの対処を論じている。これはいかにも制度的で的外れな編成だ。私たちが本当に聞きたいのは、医師の意見ではなく、看護師たちのアドバイスである。看護師がいまどのような実践を行っているのか。どんな方法が失敗し、どんな方法が奏功したのか、その知見が聞きたいのだ。



2020年4月2日木曜日

マスクづくり


 いま、マスクづくりを手伝っている。
放射能市民測定所で知り合ったAさんは、縫製職人で、普段は衣服のリサイズやフィッティングといった仕事を一人ほそぼそとやっている。だが今次の感染問題に際して、急遽、マスクの生産を始めた。
 彼女がつくるのは、香港の化学博士が設計・公開した「HKマスク」。二枚の布の間にキッチンペーパーを挿入し、医療現場で使用される「N95マスク」に近い性能をもつ。公開されている型紙を使って試作品を作ったところ、注文が殺到。私も作業を手伝うことになった。
 といっても、私は縫製作業をやるのは初めてのド素人である。鉄や木は扱ったことがあるが、繊維のような柔らかいものは、まったく勝手がわからない。これから見習い修行だ。今日は、さらしのアイロンがけを教えてもらった。

 新型コロナウイルスの市中感染が始まったことで、行政機関と医療機関は徐々に機能不全に陥っていくだろう。
 放射線防護の仲間たちにとっては、二度目の闘いである。
みな、比較的落ち着いている。というのも、新型ウイルスは放射性物質に比べてはるかに対処しやすい相手だからだ。
 放射性物質はどうやっても無毒化できないが、今次の新型ウイルスは石鹸や塩素やアルコールで破壊することができる。洗えばなくなるのだからラクなものだ。放射性物質は政府が存在を否定するが、新型ウイルスは誰もが存在を認めている。不毛な論争やはぐらかしにあうこともない。放射能汚染は少なくとも300年は対処しなければならない課題だが、ウイルス感染は遅くとも3年後には終息する。
 放射能汚染の脅威に比べれば、新型ウイルスは対処しやすい脅威である。粛々と感染予防に取り組めばよい。

 Aさんがつくる「HKマスク」は、店頭に並べて販売するものではない。個人的なつながりで注文を受け、配布していく。これは資本主義の商品経済とは違った、もう一つの経済活動だ。「地下経済」、「贈与経済」、あるいはマルクス主義フェミニズムが言う「サブシステンス生産」に属するものである。
 いま店頭では、使い捨てマスクが売り切れてしまい、入手できなくなっている。政府は全世帯にマスクを配給すると言っているが、そのマスクは性能が不安視されるものだ。商品経済のマスクがなくなり、政府配給のマスクが性能不足であったとき、最後に頼りになるのは、自家製の「サブシステンス生産」のマスクだ。
 AさんのつくるHKマスクは、これまで放射能汚染問題に取り組み「放射脳」と蔑まれた人々によって、頒布されていく。放射能安全論者の手には渡さない。放射能安全論者には、この機会に少しおとなしくなってもらったほうがよい。




2020年3月26日木曜日

これはトリアージではない




 新型コロナウイルス(COVID-19)について、326日現在のメモ。
 世界的な流行をみせている新型コロナウイルスは、各国の権力の様態を映し出す鏡のようなものになっている。
 権力の様態には、二つのタイプ、二つの極を想定することができる。

 1、中国とフランスは、緊急事態宣言を発動して強力な規制をすると同時に、大規模な検査、医療措置、社会保障を実行した。この強権的な措置は、一方の極、“生権力”の形態を示していると思われる。

 2、アメリカ合衆国、日本は、“生権力”とは対極にあたる棄民政策にでた。大規模な検査をおこなわず、事態を放置するというやり方だ。


 日本における棄民政策は、新自由主義政策下の医療再編を下地にしている。医療費削減のためのトリアージ(患者選別)である。トリアージは、医療措置の放棄を正当化する論理として利用されてきた。

 トリアージとは、医療資源を有効に活用し生存者を最大化するためにとられる方法だ。助かりそうにない重傷者への医療措置を放棄することで、その分の時間・労力・医療資源を他の患者に振り向ける。そうして全体の生存者数を向上させる。この方法はフランス軍の野戦病院で始まったものだが、新自由主義の緊縮政策は、この野戦病院の方法を平時の医療サービスに適用し、医療現場の再編をはかってきた。そのため、日本の医療体制には充分な余裕がない。ぎりぎりまでやせ細っている。「検査をすると医療崩壊がおきる」というのは、今次の感染問題に限ったことではなくて、日本政府はずっと以前から医療体制をやせ細らせていたのである。日本政府が棄民政策をとることはある意味必然で、他に選択肢がないからだ。

 いま日本で判明しているのは、新自由主義緊縮政策が繰り返し唱えてきた「トリアージの論理」が、実際には破たんしているということだ。
トリアージとは、生存者を最大化するための方法である。教科書的には、そうだ。しかし、いま起きているのは、まったく反対の事態だ。ぎりぎりまでやせ細った医療体制を守るために、検査を拒否する。そうして市中感染を引き起こす。これは、生存者を最大化するのではなく、最小化してしまう(破たんした)”トリアージ”だ。



2020年2月27日木曜日

娘は京都へ


 娘が大学進学を希望したので、この一年間、受験生の親というものをやっていた。
 私は大学受験をしたことがないので、受験のアドバイスのようなことはできないし、興味もない。ただ、受験勉強とはどういうものなのか、普通の勉強とどう違うのかを聴くだけだった。

 娘が要約するところによれば、受験勉強とは、学問にたいする不誠実な態度をベースとしている、ということらしい。
 どういうことか。
まず基本的なルール。試験というものは、答えられる問いにだけ答えればよい。答えられない問いはスキップしてもよい。そして試験時間が終了したら終わり。そういうルールでおこなわれている。
どんな試験問題も、時間内に全問解答することはできない。そうできないようにつくられている。なぜなら試験問題は、受験者に順位をつけるためにつくられているからだ。
そうなると受験者は、難問に時間を費やすことを避けて、解答できる問題だけに注力することになる。試験にのぞむ際に心がけなければならないのは、じっくりと時間をかけて考えることではなく、考える時間をできるだけ少なくすることである、と。

 なるほど。それはものを考える態度として、たしかに不誠実だといえる。不愉快なことも多々あっただろう。

 だがそんな不愉快な作業ももうおわりだ。
来年からは大学生。
受験から解放されて、じっくりと時間をかけて考えることができる。
京都市の学生街で、さまざまな難問に取り組んでほしい。