2020年5月8日金曜日

孤立の技法へ




 学校が閉鎖されて一カ月がたつ。小中学生を抱える家庭は子供の世話に忙殺されて大変だろう。幸いなことに私の子は大学生になって巣立っていったので、世話を焼く必要がない。まったく、ラクだ。
 私の子は京都の大学に進学したが、大学は閉鎖している。大学のカリキュラムが始まらないということは、学習環境としては理想的である。私の子は大教室の講義に通うかわりに、学生寮内のなんとか研究会の自主ゼミや、寮自治会のなんとか委員会の論議の中で、修練を積むのだ。少なくとも1年間、長ければ3年間、こうした状態が続く。これは本来の大学の姿に近い、とても望ましい環境だ。抑圧的な教室から解放的な自主ゼミへ、教育研究活動の重心が移行する。大学生の知的水準は、この学校閉鎖の数年間でめざましく向上するだろう。
 
 学校が閉鎖されて、親は忙しくなって大変だが、子供たちにとっては悪いことばかりではない。大人が考えるほど子供は学校に依存していない。学校に依存しているのは、むしろ大人の側だ。
 子供たちは学校という制度と建物を失って、別の方法を模索するだろう。人に会いたければ人に会いに行くし、何かを学びたければ学ぶだろう。学校を媒介しない別のやり方で、それを遂行する。漫然と学校の建物に通うというのではなく、本当に会いたい人間に会いに行く。そこで本当に話したいことを話し、本当に学びたいものを学ぶ。そうした経験を積むことで、親よりもはるかに肝の据わった人間になる。

 いま日本の1千500万人の子供たちが、学校から解放され、新しい見地にたとうとしている。
 大人たちも大急ぎでそれに追いつかなければならない。その基礎的条件になるのは、孤立である。孤立に親しみ、孤立から力を引き出し、力を恐れるのでなく肯定することだ。
近代大衆社会が生まれる以前、人間はいまよりもずっと孤立に親しんでいた。西洋でも東洋でも、人は修練を積むために人を離れ、隠棲し、孤立した環境のなかで力を引き出そうとしてきた。近代になっても、マルクスやニーチェといった哲学者は孤立した環境で思索を重ねていた。彼らのやり方から見れば、現代人は群れすぎている。自閉する時間が足りない。だからコミュニケーションの量ばかり増えて、質が失われている。口数は多いが、内容が薄いのだ。
 ロックダウンは、とてもいい機会だと思う。
 孤立に親しみ、思考力を鍛える時期だ。