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2018年1月23日火曜日

「核の冬」



まずイベントの告知を二つ。










 名古屋では矢部・山の手が、大阪では園良太くんたち避難者が、それぞれのイベント・集会を企画しています。
 みなさんこぞってご参加ください。



 さて。
 私がかつて東京で一緒に動いていた人々、そして現在も東京で活動を続けている人々が、ある組織問題に直面しているということは、聞いています。何件か問い合わせがありましたが、この件について私は特に知っていることはないので、具体的なコメントはしません。介入もしません。

 個別の問題を脇において、全体状況をにらみながら言うべきだろうことは、いま私たちが直面している困難は、長期的なものになるだろうということです。
 いま東京では組織内の問題を解決するための試みや討議がなされていて、それは主観的には重要な作業ではあるのでしょうが、客観的には、原子力公害によってひきおこされる社会の崩壊過程のうちに一つのエピソードをつけ加えているにすぎません。
おそらく多くの人々が抱いている感覚、「こんな問題は、結論がどちらに転んだとしても、なにも良くはならない」という感覚は、正しいのです。


 私はこの出口の見えない状況を、「核の冬」と呼ぼうと思います。私たちはいま、「核の冬」に呑み込まれています。この「冬」は、物質のレベルでの被害にとどまらない、上部構造にある社会の諸関係をも破壊していく「冬」です。
2011年以降、国家から発して社会全体を呑み込んでいった巨大な嘘が、私たちの体温を奪い、無力感と疑心暗鬼を蔓延させてしまいました。もう、誰も信用できません。身のまわりの誰もが欺瞞的で、国家の権威に服していて、背信行為を働いている。放射能汚染が安全だなんて誰も考えていません、そして、SNSでそれぞれが正しい主張を書きます、しかし、この放射能公害との闘いが何世代にもわたる長い闘争になるだろうことを想像したとたん、彼は口ごもり、目の前のどうでもよい関心事に話題をむけてしまうのです。
放射能汚染という大きなスケールを前にしたとき、誰もが刹那的で自暴自棄な態度にさせられてしまいます。国家が繰り返すその場しのぎの政策を批判してきた見識ある人々ですら、放射能公害に関してはその場しのぎの態度にさせられてしまうのです。政治闘争がいまほど刹那的で近視眼的なものになってしまった時代は、かつてないと思います。こうした状況を、私は、「核の冬」と呼びたいと思います。


 「核の冬」の猛威から逃れるためには、東日本を離れるしかないと思います。
大阪の園くんも移住者の受け入れ体勢を整えています。
まずは下見がてら、名古屋と大阪に遊びに来てください。


2017年10月15日日曜日

多発する骨折症状について



 自分でも気が付かないうちに骨折していた、という症状が報告されています。
この種の骨折、放射性物質による人体汚染との関連が疑われています。
なぜ放射性物質によって骨折が多発するのかは充分にわかっていませんが、二つの説があります。

1、放射性ストロンチウム原因説
 体内に取り込まれた放射性ストロンチウム(Sr89,Sr90)が骨に混入し、弱くしている、という説。
放射性ストロンチウムは、食品のカルシウム成分に混入するので、牛乳、小魚、大豆製品を通して体内に吸収されます。体内に吸収された放射性ストロンチウムは、骨になったところで崩壊し、放射性イットリウムというまったく別の物質になります。放射性イットリウムはさらに崩壊し、ジルコニウムという物質になります。カルシウムに混入した放射性ストロンチウムは、骨の中で、放射性ストロンチウム → 放射性イットリウム → ジルコニウムと変化していくのです。もちろんこの崩壊過程でベータ線を撃ちだしていくので、周辺組織にダメージを与えていきます。このことが骨をもろくしているという説です。

2、放射性セシウム原因説
 放射性セシウム(Cs134,Cs137)を体内に取り込むと、脳機能が低下します。脳機能=運動機能が低下することで、体に余計な負荷をかけているという説です。
足の運び方、着地のタイミング、腕の振り方、受け身など、人体を衝撃からまもるための微妙な制御ができなくなると、体に大きな負荷がかかります。脳機能が低下することによって、無意識に避けられていたはずの衝撃を避けられなくなっている、という説です。


 私がより深刻だとおもうのは、2の運動機能低下です。
着地や受け身がうまくできないという状態は、肉体労働者にとっては致命的です。骨折で済めばまだよいけれども、打ちどころを悪くすると大事故になります。
土木や建築の現場では、小さな踏み外しこそが恐ろしい。高さ2メートル未満の脚立から落ちたというような「小さな事故」が、重い障害をのこすことになるからです。



2017年6月3日土曜日

退行する報道番組


NHKの報道番組「クローズアップ現代」で、福島県産米の「風評被害」をとりあげていた。
この番組が主張する説を要約すると。


小売市場では現在も福島県産米が売られていない。
 ↓
最新の市場調査では、2割の消費者が福島県産米を買わないと言っている。
 ↓
8割の消費者は、福島県産米を気にしていない。≒「風評被害」は終息した。
 ↓
それに対して、流通業者の多くが「福島県産米は売れない」としている。流通業者が「福島県産米」を避けている。
 ↓
消費者の間では「風評被害」が終息しているのに、流通業者の意識は2011年のまま。
 ↓
(結論)もう6年も経っているのだから、福島県産米を流通させるべきだ。



 「クローズアップ現代」の説によると、流通業者の意識が低い、ということになる。

 この珍説、どこがおかしいかと言うと、「福島県産米を買わない」としている2割の消費者を過小評価していることである。
 2割というのは、大きい。2割もの消費者が「買わない」と言っているものを、流通業者が無視できるわけがない。10円や20円の価格差を競い合っている食品小売業界で、2割の消費者を逃がしてしまったら、すぐにつぶれてしまうだろう。
 たとえば、現在の小売商品では食物アレルギーの表記があたりまえになっている。食物アレルギーにかかわる消費者なんて全体の2割程度だろうといって表記を廃止してしまったら、その業者は競争に負けてしまう。だからどの業者も食物アレルギーの表記をやめることはできない。2割というのは大きいのである。


 もしかしたら「クローズアップ現代」の記者は、2割の消費者を「少ない」と思ったのかもしれない。福島県産でも気にしないという回答が8割もあったから、「風評被害は終息した」と錯覚したのかもしれない。しかし、現実社会は学級会のような多数決で決まるものではない。2割もの人々が「買わない」と回答したということは、「風評被害」がくつがえすことのできない趨勢になったということなのである。

 汚染から6年たって、いまだに払拭できないでいる「風評被害」とは、もはや風評ではない。現実を受け入れて、農家への賠償と廃業措置を進めるべきだ。なぜ福島の農家が廃業できないでいるかを調査するのが、本来の報道番組だろう。




参考 報道番組の退行した例 ↓





2017年5月1日月曜日

風向きに注意

 福島第一原発の付近で、放射能に汚染された山林が燃えている。
 放射性セシウム、放射性ストロンチウム、ウラン、プルトニウム等の放射性核種が、上空に舞いあがる。
 風向きと降雨に注意。



帰還困難区域の山林で火事 消火活動続く 福島 浪江町 

東京電力福島第一原子力発電所の事故による帰還困難区域となっている福島県浪江町の山林から煙が上がっていると、29日の夕方、消防に通報があり、丸1日がたった今も燃え続けています。けが人や建物の被害はありませんが、福島県は自衛隊に災害派遣を要請し、1日、改めてヘリコプターでの消火活動を行うことにしています。29日午後4時半ごろ、福島県浪江町井出の山林から、「煙が上がっている」と消防に通報があり、30日朝早くから福島県や宮城県などのヘリコプターが出て消火にあたりました。
火は、30日午前7時半すぎに、いったんほぼ消し止められたものの、強風で再び勢いを増しさらに燃え広がったため、福島県は30日正午、自衛隊に災害派遣を要請し、ともにヘリコプターを出して消火活動に消火活動にあたりました。
警察によりますと、出火から丸1日がたった30日午後5時現在、少なくとも10ヘクタールの山林が焼けたということです。けが人や建物の被害はないということです。
30日の消火活動は日没とともに打ち切られ、福島県などは1日午前5時すぎから再びヘリコプターで消火活動を進める予定です。
現場は東京電力福島第一原発の事故の影響で放射線量が比較的高い帰還困難区域で、警察によりますと、出火した時間帯には浪江町のほかの場所で雷によると見られる火事が起きていたことなどから、警察は落雷が原因と見て詳しい状況を調べています。 4301856分 NHK 

2017年2月8日水曜日

科学論争へ


 一昨日、名古屋共産研の会議、と、飲み会。

 今年の全体方針は、放射能汚染をめぐる科学論争と、科学行政批判を軸にする、ということに決まりました。
次回会議で、論点出しをやって、作業を進めていきます。


 共産主義者は科学の子ですから、社会科学だろうが自然科学だろうが、すべてを科学的に点検・審査しなくてはなりません。
 共産主義者は分業制の克服・解体をめざす者ですから、釣りをすることやチャーハンをつくることと同じように、科学論争に加わりその担い手にならなくてはなりません。
 共産主義者はブルジョア国家に反対する者ですから、ブルジョア国家が授与したにすぎない学位・職位・「専門性」を鵜吞みにすることはないし、その欺瞞性が明らかになったこの機会に乗じて、一気に転覆をはかるべきです。


 いま放射線防護活動の現場では、高卒の主婦が、放射線検出器を自在に扱っています。彼女たちは検出器の原理を学び、その能力と、運用と、限界を知っています。文部科学省がどのようなごまかしをやっているかを、政治的にではなく科学的に指摘することができます。彼女は分業と性別役割分業を超えて、ひとりの科学者になっています。彼女は共産主義者ではないが、共産主義者を自称する者よりもずっと共産主義的なのです。
 こうした市民科学者たちの姿勢に学び、あとに続かなくてはなりません。“市民科学者”という概念に不満があるなら、“人民科学者”と言ってもよい。分業制の克服は、遠い将来に待ち望む夢想ではなく、現在の切迫した課題としてあって、すでに多くの人々によって実践されているのです。ブルジョア国家の科学行政がどのようなインチキをやっているかを、自らの手で暴いていかなくてはなりません。安斎だの小出だの「専門家」を呼んで講演会をやっていっちょうあがりという態度は、もうやめにしましょう。自分自身が科学論争の担い手になるのです。共産主義者を自認する者は、ひとりの例外もなく、科学者になるべきです。
 身構えることはありません。放射線の「専門家」なんてのは、素人に毛が生えたようなもの、読んでみれば穴だらけです。

 そういうわけで、今年は科学論争に取り組みます。
 きっと楽しくなります。
 刺激的な論争をつくっていきましょう。



2016年12月9日金曜日

被曝による都市機能災害



 東京のような巨大都市がまるごと放射能に汚染されてしまうという事態は、かつてなかった。これは人類が初めて経験するものだ。
 被曝症状によって人間の機能が低下することで、都市機能は失調をきたす。鉄道の事件・事故は、首都圏の都市機能災害を示す兆候だ。非常に興味深い。
以下、大規模掲示板「2ちゃんねる」から転載する。

1129日【情報】京成押上線・八広駅で人身事故「見ちゃいけねもの見たよ…」
1129日【情報】中央線三鷹駅で人身事故「人が轢かれた、叫び声が聞こえる飛び込み自殺
1129日【情報】京成線 菅野駅で人身事故「救急車が来てからの処理早すぎ
1128日【情報】京急線 弘明寺駅で人身事故「すごい衝突音、肉片が飛び散ってる
1128日【情報】都営新宿線 曙橋駅で人身事故「駅員にキレてるおっさんがいる
1128日【情報】小田急小田原線 足柄駅 人身事故 「目の前で人がはねられる」
1127日【情報】京成線 堀切菖蒲園駅で人身事故「車掌が、うあぁぁぁぁぁぁと叫ぶ
1126日【情報】京浜東北線 東神奈川駅で人身事故「電車に人が飛び込んだ、車掌の声が震えてる
1126日【情報】JR高崎線で人身事故 踏切内に立っていた女性、はねられ死亡/桶川
1126日【情報】高崎線 北上尾駅~桶川駅間で人身事故「轢かれた少年が線路に倒れてた
1123日【情報】東急田園都市線 用賀駅 人身事故 飛び込んだ人がはねられる
1121日【情報】西武池袋線 東久留米駅で人身事故「遺体がバラバラ」
1121日【情報】常磐線 土浦駅~神立駅間で人身事故「凄い音、何かの上を通過した」
1121日【情報】小田急小田原線 代々木八幡駅で人身事故「乗客が側面に接触し隙間に転落」
1121日【情報】京急線 京急川崎駅~八丁畷駅間で人身事故「ブルーシート広げて肉拾ってる」
1120日【情報】常磐線 柏駅で人身事故のため遅延「お客様が線路でピクピクしてる」
1119日【情報】京王井の頭線 高井戸駅で人身事故 「凄い音がした」
1118日【情報】東武東上線 朝霞台駅で人身事故「電車の下に人 うめき声が聞こえる」
1117日【情報】常磐線 綾瀬駅で人身事故「ブルーシートが生々しい」
1115日【情報】京浜東北線 急病人や荷物挟まりのフルコンボで川口駅や西川口駅がディズニー状態
1115日【情報】埼京線 板橋駅前に全裸の女性が現れて駅員が対応
1113日【情報】総武線(快速) 稲毛駅で人身事故「血の臭いが充満、足がとれた死体がある」
1112日【情報】京王高尾線 京王片倉駅で人身事故「轢かれた男性は血だらけも、自力でホームに這い上がる」
1112日【情報】横須賀線 保土ヶ谷駅で人身事故「レスキューが車両の下で救助活動してる」
1111日【情報】湘南新宿ライン 池袋駅で人身事故「女性が飛び込んで前面ガラス破損」
1110日【情報】小田急線 鶴川駅で人身事故「電車に肉片ついてる。めっちゃ叫び声が聞こえる」
1109日【情報】南武線 線路内で寝ていた人が起きてくれなかった為、電車遅延で各駅混雑
1109日【情報】常磐線 土浦駅~荒川沖駅間で特急ときわ84号が人身事故「何かにぶつかる音がした」
1109日【情報】南武線 線路内で寝ていた人が起きてくれなかった為、電車遅延で各駅混雑
1109日【情報】水戸線常磐線 土浦~荒川沖駅間での人身事故のため遅延「ときわ84号ぶつかった」
1108日【情報】新宿線・拝島は花小金井~小平駅間での人身事故の影響により、電車の運行が乱れまして
1108日【情報】また京急大師線で人身事故。 この前と同じで鈴木町と港町の間。影響で路線バスも混んでタクシー待も凄い列
1108日【情報】西武新宿線 小平駅~花小金井駅間 人身事故 踏切に入っていた人はねられる
1107日【情報】中央総武線 小岩駅 人身事故 すごい衝撃して人が何かに当たった 隣を担架が通っていった
1107日【情報】相鉄線 二俣川駅~鶴ヶ峰駅間で人身事故「物凄い音がして人を轢いた、遺体がある」
1107日【情報】小田急多摩線 黒川駅で人身事故「窓から外を覗かないでくださいとアナウンス」
1105日【情報】信越線 安中駅~磯部駅間で人身事故「めちゃくちゃすごい音した」
1105日【情報】京急線 県立大学駅で人身事故のため遅延「線路上でお客様が手を広げて立ってた」
1105日【情報】小田急線 相模大野駅で人身事故「ホームが血だらけ」電車遅延
1105日【情報】宇都宮線東大宮駅~蓮田駅間で人身事故「何かを踏んだと思ったら人だった」
1104日【情報】京急線 日ノ出町駅で人身事故「目の前に轢かれた人がいる」
1102日【情報】京成線 うすい駅~ユーカリが丘で人身事故「女性の身体の一部が切断されてる。バラバラや」
1101日【情報】JR東日本 外房線 大網~永田駅間で発生した人身事故の影響で、現在も運転を見合わせています。
1101日【情報】栗橋~新古河駅間で発生した人身事故の影響で、南栗橋~栃木駅間の運転を見合わせています。
1101日【情報】東武東上線 〔坂戸(埼玉)~池袋〕止まってる/ 下赤塚で人身事故発生運転再開不明




2016年9月9日金曜日

被曝者が書くということ


 いま少しだけ編集者のような作業をしている。
雑誌に特集の企画をもちこんで、何人かの執筆者に原稿を依頼した。もうほとんどの原稿が集まったのだが、まだ入稿していない執筆者に催促をしている段階である。これから原稿を並べて、目次を作らなくてはいけない。
 今回は自分の原稿を書くだけでなく、他人の原稿にも口を出して、書き直しや推敲を求めた。
 特に山の手緑の原稿については、内容に踏み込んで議論をした。この二ヶ月間、顔を合わせるたびに原稿の話をした。もともと作文が得意でないうえに10年近く執筆作業から退いていた人間に、いま決定的な内容を書けと要求するのだから、これはかなり大変な作業だった。むかし共同執筆をしていた20代の頃とは違う。二人とも体力が落ちていて、ちょっと考えるとすぐに息切れしてしまう。若い頃のように知恵熱を出すことはなくなったが、徹夜ができなくなったし、老眼と腰痛がひどい。すぐにくたびれてしまう。それでもなんとかがんばって、内容のある文章ができたと思う。



 40代も半ばになると、老いを意識する。自分はあと何年やれるだろうかと考える。生きている限り、書くことはできるだろうとは思う。だが、内容のあるアクチュアルな議論を展開することができるのは、あと何年だろうか。
 老いに加えて、私は被曝者である。山の手緑もそうだ。このことは西日本の人々はあまり意識していないようだからあえて書くが、我々は東京で被曝した人間である。初期被曝を被った人間は、心臓や脳に爆弾を抱えている。いつ絶命するかはわからない。人間はいつ絶命するかわからないという一般論として言うのではなくて、それ以上に、残り時間のわからない人間である。
 私は自分の残り時間を考えるように、他人の残り時間も想像している。今回原稿を依頼した執筆者のなかには、初期被曝者もいれば、そうでない者もいる。放射線防護の取り組み方もそれぞれに違う。たとえば今回、東京の園良太くんに原稿を依頼したが、彼の文章を読むのはこれが最後になるかもしれない。そういう覚悟をしなくてはならない。1年後も2年後もずっと議論ができるだろうというのんびりした構え方はできない。提起された議論に応答しようとしたら、相手が死んでしまったということが、ありうるのだ。

 被曝者はあてにならない、と言いたいのではない。たしかにそういう一面はある。仮に私が会社の人事部であったなら、被曝者を雇ったり重職につけることは避けるだろう。いつ死んでしまうかわからない人間なのだから。しかし私が言いたいのはそこではない。
 私が言いたいのは、明日の朝自分が絶命しても、あるいは相手が絶命しても、それで終わりになってしまわないような水準で文章を書かなくてはならない、ということだ。死んでしまったらはいおしまいというような議論なら、最初からやらなくていいじゃないか、ということだ。
 逆にこう言ったほうがわかりやすいかもしれない。大量の被曝者を抱えた社会というのは、言い換えれば、生者と死者との輪郭が不明瞭になった社会ということだ。そこで文章の価値というものを決めるのは、生者だけではなく、生者と死者を貫通する意識である。生者だけで講評をやって、意味があるねえとか意味がないねえとか言うことは、できなくなる。そんなやり方では価値がいっこうに定まらない。ある文章の価値、「社会的意義」は、生きている者だけでなく、生きられなかった者も含めて、論争されなければならない。そういう社会になるのだ。
 


2016年8月5日金曜日

桃ならいらないキャンペーン実施中

いまちょっと忙しいので、てみじかに書きますが、桃関係の押し売りがひどい。
グイグイきてます。
ケーキ、菓子パン、アイスクリーム、あらゆるスイーツに桃がねじこまれている状況です。

きっぱり言いましょう。
「桃はいらない」と。


福島県の桃おしがひどすぎて、桃という字を見ただけで食欲が失せる。

いらないってば。


2016年4月27日水曜日

原子力とその家臣団



 熊本大地震の対応に関連して、日本共産党は震源地の南にある九州電力・川内原発を停止させることを国に要求した。
 対して、労働組合のナショナルセンター『連合』を支持母体にする民進党は、共産党と同じく川内原発の停止を要求しようとしたが、結局とりさげた。
 川内原発で働く九州電力の社員たちは、その多くが電力総連の組合員であり、『連合』傘下にある労働者である。地震によって原発がスクラムした場合、あるいはベントを必要とした場合、あるいはもっと手の付けられない過酷事故に見舞われた場合、その対応にあたるために高線量被曝の死線をさまようのは電力総連の労働者たちであるわけだが、『連合』はそうした事態を事前に承認してしまったことになる。『連合』は組合員の生命を国にあずけてしまったわけだ。


 ロベルト・ユンクの名著『原子力帝国』では、フランスの電力会社でおきた事例を挙げて、原子力産業が労働者のストライキ権を失効させてしまったことを指摘している。
 原子力発電所の労働者は、他の部門の労働者と同様にさまざまな要求をすることができる。しかし、要求を通すための切り札であるストライキ権を彼らは行使できない。一般的な事業所であれば、労働の停止は事業の停止である。ストライキは誰も傷つけない無血の暴力である。しかし原子力発電所のストライキはそうではない。それは無血ではなく自爆的な暴力となってしまう。いったん原子炉に核燃料が装荷されてしまったら、かたときも目を離してはならない。誰かが常にモニターし、炉心の温度を制御していなければならない。核燃料は常に暴走の危機をはらんでいるからだ。フランスでは、原子炉の管理に関わる労働者が組合中執のストライキ指令をうけて、決行するか否かを検討し、結局ストライキを断念した。電力労働者のストライキは、原子力発電所を除外して実行された。それまで万能だと考えられていたストライキ戦術は、電力部門の一角で覆されてしまったのである。原子力労働は、近代的な労働概念から逸脱し、その破滅を予告する。


 石炭、石油、原子力というエネルギー政策の変遷を、労働者権力の可能性の歴史として振り返ってみよう。

 石炭エネルギーは、人間の労働力に強く依存する。石炭は、労働者がいなければ採掘することができない。炭鉱主は労働者と交渉しなければならないし、ときには労働者に譲歩しなければならない。労働組合運動の原型は、炭鉱労働者がつくりだしたものだ。

 石油エネルギーは、労働者に依存しない。石油採掘は労働力の動員を必要としない。かわりに、採掘権を占有する政治力・軍事力に強く依存する。アメリカ合衆国が近代的な労使関係を発達させることなく反共産主義体制を貫いてきたこと、また、自国企業の権益のためならば外国での軍事行動もためらわないことは、石油エネルギー時代の支配原理を体現したものだ。

 原子力エネルギーは、労働者を奴隷化する。原子力産業に関わる労働は、暴力団の強い関与を疑われたり、地縁・血縁を通じた氏族的支配関係を疑われたりする。原子力労働は、一般的な労働とは違うものだと人々はみなしている。この直感は正しい。
 石炭採掘が労働集約型産業の典型であったのに対して、原子力産業はその対極に位置する技術集約型産業である。技術集約型産業の力の源は、情報の占有と操作にある。技術集約型産業は秘密を管理し、対外的には嘘、印象操作、意味のない議論によって権益を維持する。秘密と嘘が、収益を実現するエンジンである。このとき労使関係とは、たんなる労働力商品の売買という明解で素朴なものではない。会社は、労使の区分を許容しない私党としての性格を強めていく。原子力モデルの労使関係は、成員の全てを秘密と嘘の共犯関係に巻き込んでいく私党的統治に向かう。ここで労働者が動員され搾取されるのは、筋力や技能や集中力ではなく、私党化した会社への忠誠心である。忠誠心は、前近代的でありもっとも現代的でもある、資本蓄積の原理である。

 原子力発電とその汚染をめぐる科学論争は、天動説と地動説の論争のような不毛さに満ちている。この論争に際して、労働組合がまったくなんの役割も果たさないでいるのは、こういうことがあるからだ。天動説はたんに誤った信念というだけでなく、ひとつの権益である。電力会社の社員たち、そして電力総連は、一つの国が滅びるかどうかという重大な局面にあっても会社への忠誠心を手放さない。炭鉱時代の労働者たちが、会社から自立した自我を保持していたのに対して、原子力時代の会社員は近代的自我を放棄している。彼らは私党に仕える家臣団のように、奴隷的労働を美化するのである。

 『連合』は電力総連を切り離すか解体するかしなければならない。この反社会的労働組合と共闘していたのでは、労働運動の大義は失われてしまう。人民の一般的意志から分離したところで労働運動を維持できると考えるなら、それは重大な誤謬だ。電力総連と民社協会に未来はない。早々に切り捨てるべきだ。




2016年4月16日土曜日

九州のみなさん、旅行をしましょう


 熊本大地震は、震度6の余震が続く強度の高い群発地震になっています。現在の震源は熊本市周辺ですが、今後の震源がこの範囲に収斂するとは限りません。東日本大震災の例を見れば、震源は動きます。

 九州電力は、鹿児島県の川内原発を停止させません。国も原発を停止させません。
 こうなれば、いまとりうる最善の選択は、川内原発から200km圏の住民が、予防的に退避しておくことです。
 原発がおかしくなってから動き出すのでは遅いのです。5年前の福島では、退避が間に合わず病院で亡くなられた患者が多数出ています。原発がベントしてしまったら、もう逃げる時間はほとんどありません。車にガソリンを給油している間に放射性物質を浴びせられることになります。

 先行的に予防的に200km圏外に退避しておくこと。これはけっして非現実的な妄想ではありません。福島の経験から得られたきわめて現実的な教訓です。
 とりあえず3日ほど九州から退避して、何もなければ戻ればいいのです。ちょっと小旅行をするつもりで、本州方面に退避しましょう。この旅は、5年前の東日本住民がどのような経験をしたのかを知る疑似体験の旅になるでしょう。

 森くん、ピンクさん、外山とその一派、九州に暮らす友人の皆さん、本州に退避してください。
 私のうちは名古屋ですが、5人ほど受け入れ可能です。



2016年4月1日金曜日

防護講座、第9回と最終回

放射線防護講座、ひとまず終了。

あとはサイトを作って拡散する方法を考えねば。



2016年3月31日木曜日

防護講座、第7回と第8回

第7回「測定結果の読み方」と
第8回「サンプル調査の読み方」を
アップしました。

第8回は、絵と図だけでやってみました。われながら極端。




2016年3月30日水曜日

防護講座第五回

第五回アップします。
いやあ。自宅にホワイトボードを設置すると、かなり便利だね。
一家に一枚ホワイトボード。おすすめです。


第六回もできちゃった。
楽しいなこれ。


2016年3月29日火曜日

YOUTUBEで放射線防護講座

『中学生からの放射線防護講座』、第三回と第四回を公開しました。

昨日、山の手緑さんがホワイトボードを買ってくれたので、私の部屋に設置しました。
これからは、いつでも好きなときに収録できます。


では第三回と第四回、どうぞ。



2016年3月2日水曜日

社会は激しく分化する。そのことを嘆くのはもうやめた。


 久しぶりに寿司を食べたくなったので、チリのサーモン、インドのエビ、愛知県の米を使って寿司を握った。この自作の寿司を山の手緑にも食べさせようと思い、名古屋市内まで車をとばして寿司を運んだ。めったに食べられない寿司だから。
 彼女は数ヶ月ぶりの寿司に喜びながら、「まるで戦時下のようだね」と言った。
 五年前までは、回転寿司でも立ち食いそばでも、なんでも無邪気に食べることができた。しかし現在はそうではない。食べられるものを探して、手に入ればわけあい、手に入らなければ我慢するという生活だ。
 すべての人間がこんな生活をしているわけではない。食品を吟味して耐乏生活をおくっているのは、日本社会のなかの一部の人間である。放射性プルームを浴びた初期被曝者、体の弱い者、乳幼児を育てる母親、子供が成人するまで倒れるわけにはいかない親たち。そうした人々はいま、戦時下のような耐乏生活を経験している。

 他方で、政府の「復興」政策に加担することで自分の出世を企む者もいる。放射能の安全神話に加担することが、業績やカネになる時代だ。まったく腹立たしいことだが、いつの時代にもそういう人間はいる。

 おそらく戦争とはこういうもので、時代の苦しみや悲惨さを国民全体が均しく経験することはない。戦争によって命を奪われた者がいる一方で、戦争で出世した者や荒稼ぎした者がいる。戦争によって地上戦に巻き込まれた者がいて、空襲で死にかけた者がいる。一方で、地上戦も空襲も経験せず、安全な場所でラッパを吹いていただけの者がいる。疎開でやってきた子供をいびっていただけの者が、大勢いる。戦争の恐ろしさというものは、国民全体が均しく共有することができないものとしてある。戦争は、社会の一体性を喧伝しつつ、社会を激しく分化させるのである。

 これから放射能汚染公害をめぐって、日本社会は激しく分化する。そこで教育は重要な焦点になる。国民主義道徳を教える学校教育と、人権意識を教える家庭教育とに分化する。私の今年の課題は、家庭教育を充実させることによって、学校が教える嘘を暴露し無効化させることである。

2016年1月25日月曜日

メシアニズムの克服



2011年の放射能公害事件から5年目になる。
この間に起きた混乱と、混乱の収束について、振り返っておくのもよいと思う。


私からは一点だけ。社会運動自身が被った混乱について。


 2011年から12年にかけて、全国で反原発運動が拡大し、そのなかで原子物理学者である小出裕章氏が「運動」のスターになった。13年以降は目立った発言はなかったが、まだ「小出信者」は残存していた。そして2016年現在、小出裕章氏の影響力はほとんどなくなったと言ってよい。
 小出裕章ブームとは何であったのか。総括的に言うならばそれは、混乱期におけるメシアニズム(救世主主義)の表れだったと言えるだろう。
 振り返ってみれば、彼の発言は最初から説教師じみていた。聴衆に罪責感を与え、贖罪の方法を提示し、現実に起きている課題と軋轢を棚上げにした。唯物的に対処すべき課題に、観念的な解決策を提示して、議論を混乱させた。
科学者を称する者が非科学的な提言を行ったという意味で、小出裕章は山下俊一の対称に位置している。

 2011年に小出裕章が「老人は食べるべき」と発言したとき、私は強い焦りをおぼえた。この発言は反原発運動をめちゃくちゃにしてしまう、と。だから必死になって小出批判を展開したわけだが、あれから4年を経て、事態はなんとか収束に向かっている。小出ブームは長続きせず、すっかりすたれた。日本社会の理性は、最悪の事態を回避した。
 混乱期に登場したメシアニズムは、大衆の理性によって克服された。この大衆的な理性の力に、われわれの希望がある。



2015年10月13日火曜日

タモリがめんどうくさくなっている

タモリとマツコデラックスという二人のテレビタレントが、缶コーヒーのキャンペーンかなにかでトークショウをやっているのだが、これが、驚くほどグダグダである。
配信してはいけないレベルのつまらなさ。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151006/MaidigiTv_43158.html


高齢化のためか、被曝症状によるものか。

東京がはつらつとしていた時代が終わるのだと感じた。



2015年8月8日土曜日

構造化された無関心


 そろそろ関東の被曝者に重篤な症状があらわれる時期である。
原発爆発後にうっかり汚染地域に入ってしまった者は、いましっかりと身体検査をしておくべきだ。初期被曝をうけているならば、血液検査は必須だ。
 自分の周りでは病気になっている人はいない、というかもしれない。ならば、一度おおきな病院に行って、待合室を見学してみればいい。現代社会は病いを病院に隔離している社会だから、ぼんやりと街を眺めているだけでは異変に気がつかない。そもそも病気の話というものは、ベラベラと気安く他人に話すものではない。脳機能障害、婦人病、泌尿器や生殖器にかかわる病気は、よほど親密な関係でなければ話さない。だから我々は身近に起きている異変に気づかず、ずいぶん後になってからマスメディアの報道を通じて事実を知らされることになる。そのときには手遅れである。
 誤解がないように急いで付け加えるが、私は「健康状態に関心をもちましょう」とだけ言っているのではない。無関心ではいけませんと言うだけなら、医者だってそれぐらいのことは言う。私が言いたいのは、現代社会は無関心を構造化している社会であって、その構造をしっかり見ておくべきだということである。
 ここでは二つの例をあげておく。


 
1、特異性(差異)の否認
 放射能汚染公害によってわれわれが学んだ重要な概念に、「ホットスポット(特異点)」というものがある。汚染はむらなく均質にあるのではなく、低濃度の地点と高濃度の地点が複雑にからみあうパッチワークを形成している。このパッチワークのなかで、ホットスポットは無視することができない。ホットスポットは「例外的なもの」として切り捨ててよいものではなく、むしろ不意にあらわれるホットスポットをこそ把握しなくてはならない。もしも汚染物質の動態の法則性をつかみ予測することが可能になるなら、それはホットスポットを予測できるものでなければならない。これは、今次の放射能汚染によってわれわれが学んだとても重要な視点である。
 しかし同時にわれわれが知った残念な事実は、日本の一般的な「科学者」というものが、特異点という概念をまえに思考を停止してしまうということである。日本の素朴な「科学者」たちは、特異点の存在を「例外」として排除してしまう。まるで工業製品の検品担当者が不良品をはじいていくようなやりかたで、特異点をはじいて、それ以上考えることをやめてしまうのである。これは驚くべき愚鈍さだが、ある意味しかたがないことではある。日本の「科学者」たちは小さな産業的な成果しか期待されず、最低限の哲学教育も受けていないのだから。彼は上司から渡されたモノサシで測れるものだけを測り、測れない特異なものを見落とすのである。
 これと同様の誤謬が医学の分野でもある。人体への被曝の影響をめぐる論争のなかで人々をうんざりさせた言葉に、「エビデンス」という言葉がある。予防原則に対抗するかたちで「エビデンス」という言葉が使用されるとき、それは科学ではなく、科学の風を装ったイデオロギーの宣言である。
 人々が予防原則を主張するとき、それが意識的にあるいは無意識に念頭においているのは、人体の特異性である。人間の体は一様ではなく、さまざまな差異をもってあることを、われわれは前提にしている。標準的・一般的な人体などというものは存在しない。人間はなんらかの持病をもっていたり、複雑な病歴があったり、体の弱さにもさまざまな体質の違いがある。あたりまえのことだ。そうした複雑多様な差異をもった人体を問題にしているときに、「エビデンス」を要求するということは、「エビデンス」を得ることのできないような特異な症例を切り捨てるという宣言にほかならない。
 例えば長崎出身の被爆三世の女性が東京で内部被曝を被ったとき、その被曝の影響はどうなるのか。そうした特異なケースについては考えなくてよいというのなら、われわれは何も考えなくてよいことになる。そこで議論されている対象が何なのかを見失うことになる。われわれは、身体検査をクリアした成人男性の原発労働者の被曝影響について議論しているのではない。われわれは、震災後に飲料水をもとめて並んでいるときになんの予告もなく放射性物質を浴びせられた老若男女の話をしているのだ。数千万種類のそれぞれに特異な人体を、どのように放射線から防護していくかという議論をしているのである。「一般公衆」とは、特異性を排除して切り縮めた「一般」ではなく、現実に存在する特異なもののひろがりなのである。
 土地の汚染調査についても人体への被曝影響についても、共通しているのは、注視されるべき特異性が、特異であるという理由で自動的に無視される、という構造である。「科学者」たちの古い慣習(イデオロギー)が、差異を否認し、現実を見えなくする。
これは無関心の構造のひとつである。

2、公害隠しの「復興」政策
 今次の放射能汚染は、明白な公害事件である。公害原因企業が東京電力であることははっきりしている。汚染物質は主要な物質が特定されている。被害の全容はまだ不確定だが、少なくとも福島県民の健康被害は確認されている。関東東北地域は、過去に起きたどの公害事件をも凌駕する巨大な公害事件の舞台になったのである。
 政府は当然、公害の隠ぺいをはかる。
政府はまず今次の放射能汚染を公害事件として位置付けることを拒絶した。かわりに、「原子力災害」という謎めいた概念で対応したのである。いったい「原子力災害」とはなにか。これは災害なのか。われわれが受けているこの継続的な恐怖と被害は、災害なのだろうか。われわれは今後、「原子力災害」という概念の疑わしさについて、あらゆる角度から批判しなければならないだろう。
 「原子力災害」というごまかしは、つぎに「復興」政策を要請する。ここでは東日本大震災の被災地への対応と、放射能汚染の被害地域への対応が、意図的に混ぜ合わされている。しかし「復興」キャンペーンによる印象操作を中和するためにあえて言うが、「復興」政策の第一の目的は、震災・津波被災地の復旧ではない。「復興」政策は、東日本大震災ではなく、「原子力災害」に対応して出されてきた政策である。当時の野田政権が何を言ったかを想い出してみればよい。野田首相(当時)は、「福島の再生なくして日本の再生なし」と言ったのだ。政府の主眼にあったのは放射能汚染被害への対応である。政府は、放射能汚染問題にたいして災害復旧の論理で対応し、その公害問題としての性格を後景化させるために「復興」政策を号令したのである。その証拠に、「復興」政策がもっとも力を注いだキャンペーンは、「食べて応援」キャンペーンである。放射能に汚染された食品を食べろというのである。政府が第一の目的としてきたのは公害問題を隠ぺいすることであって、震災・津波被災地の復旧という課題は、公害隠しを正当化するための名目に使われたわけだ。
 こうした国策の下で、人々がなにを忘れることになったのか、ひとつ例をあげておく。
 2011年の暮れ。三陸のある津波被災地の様子がテレビに映し出される。この町では、海沿いに町を再建するか、海から離れた高台に集団移転をして町を再建するか、議論が重ねられている。アナウンサーは、被災者の苦難に寄り添うかのような態度を示しつつ、いつもの決まり文句でこの話題をしめくくる。「一日も早い復旧が待ちのぞまれますね」と。
そうではないのだ。一日も早い復旧を待ちのぞんでいるのは、いったい誰なのか。アナウンサーは他人だからそう考えるのかもしれない。だが、被災者はどうなのか。よく考えてみてほしい。2万人もの人間が津波にのまれ亡くなっているのだ。身内を失った者は数多く、遺体がかえってきていない人もたくさんいる。それほどの大災害を目の当たりにした人間が、「一日も早い復旧を」などと考えるだろうか。私なら恐ろしくてとても復旧どころではない。たとえばある漁師の息子が、将来は親といっしょに船に乗ろうと考えていたとして、しかしあの大津波はそんな将来像を粉々にするだけの破壊力をもっている。彼が、もう二度と海の見える町には住みたくないと考えたとしても不思議ではない。
 「復興」政策は、被災地の復旧を自明視しているし、復旧という結論を先に設定して議論を始めてしまう。「復興」キャンペーンによって全国民の関心が、被災地の復旧に注がれる。しかし被災者たちにとって、復旧という方針は必ずしも自明ではない。何人かは町を去り、何人かは町に残る。そして残った者たちが町を再建しようという結論にいたるのだとしても、そのまえに、それぞれの服喪と、葛藤と、思い惑う時間がある。
 私は感傷的な話をしたいのではない。物事の順序の話をしているのである。「復興」政策は、被災者たちが必要とするものよりも前に、まず政府の必要を満たすために実行されたということである。「一日も早い復旧」を望んでいたのは政府であって、それは、津波被災者と汚染被害者がそれぞれに立ち向かっていた課題とは乖離していたのである。
実際に「復興」政策によって復旧されたのは、津波被災地ではないし放射能汚染地域でもない。それは東京の都市機能災害を復旧させたにすぎない。東京の都市機能が「平常通り」に回復されることで、災害も公害事件も風化させられていく。人々が直面している本当の課題を無視して、公害隠しの「復興」政策がすすめられていったのである。




2015年5月20日水曜日

橋下徹は何に敗れたか



 橋下市長が大阪市民に問うた「大阪都構想」住民投票は、途中から橋下市長の信任投票という性格にスライドしつつ、反対派が勝利した。「橋下市長はいらない」という大阪市民の意志が、僅差ではあるがまさったのだった。
やったね。
大阪市民のみなさん、おつかれさま。

 さて、選挙結果が確定した直後から、橋下信者の怨嗟の声が聞こえてくる。
橋下信者とは、表面的にはテレビに扇動された「改革教」信者であり「リーダーシップ教」信者であるのだが、その性根を支えているのは企業文化への盲目的追従である。
 橋下の言葉は、会社の会議室で交わされる言葉であり、その小児病的表現である。「小児病的」というのは、人間社会に対する洞察を欠いた幼稚な叫びであるという点で、それをいい年した大人がやっているという点で、病的なのである。

 まず普通に考えてみればわかることだが、「改革」や「リーダーシップ」というものは、あのように言葉にして叫ぶものではない。私は40年近く生きてきて人並みに社会経験があるので知っているのだが、組織を改革してしまう人たちは「よしこれから改革しよう」などとは言わない。組織の中でリーダーシップを発揮している人は、「リーダーシップ」という言葉を使わない。「改革」や「リーダーシップ」とは、それとして意識されないように黙ってやるものだ。改革者はまるで改革者ではないようにふるまいながら改革するし、仲間から信頼されているリーダーはまるでリーダーに見えないような仕方で集団を統率している。そうしなければうまくいかないからだ。現実の実践とはそういうものだ。
 「改革教」や「リーダーシップ教」の政治家たちが、人間的な深みのない浅薄な印象を与えるのは、彼らが言葉をあつかうための実践感覚を欠いているからだ。まるで「改革」という言葉をワードに打って印刷すれば人々がひれ伏すとでも思っているかのようだ。あるいは、指示書に「改革」と書いておけば、誰かが改革を実現してくれるだろうという甘えがある。
こうした横着な態度を育んできたのは、企業であり、会社員の文化である。会社員はただ書類に言葉を書き込むだけで仕事をしたつもりになっている。文脈を考えず無駄に繰り返される平板な言語感覚。その言葉は他人の心をつかむことがない。それは、自らの優越的地位に依拠して他人を断罪したり命令したりしているだけだから、人々を心から納得させることができない。人々がその言葉を受け入れたり、受け入れたふりをするのは、企業社会の脅しが通用する限りにおいてだ。
しかしそうした脅しは通用しなくなりつつある。非正規労働者の拡大=会社員の縮減によって、企業の文化は社会的重みをもたなくなっているからである。端的に言って、彼らの議論はイタいものになりつつある。

 大阪市民が示した橋下市長への不信任とは、企業文化が主導してきた改革リーダーシップ論議を、人々がシニカルな態度で退け、「王様は裸だ」と告げたものだといえる。いまや我々は、会社員たちとはまったく違うやりかたで言葉を交わす。それは2011年3月の放射能汚染によって決定的になった。あの日から、企業社会の文法と、民衆の文法は、決定的に分岐した。
 これからが楽しみだ。


2015年3月10日火曜日

ランディ・マタンのインタビュー


昨年の暮れ、フランスのウェブサイト”ランディ・マタン”のインタビューに応じたものが、翻訳されてアップされた。収録場所は、タルナック村の図書室。

https://lundi.am/Partir-de-Tokyo

長いインタビューを翻訳してくれたフランスの友人たちに感謝。




追記

 あと、拙著『3・12の思想』について、フランス語で書評を書いてくれた方がいるようです。

http://gc.revues.org/2922

評者は Christophe Thouny さん。
どなたか知りませんが、ありがとうございます。