2022年5月31日火曜日

映画『ロッキー』をちゃんと見る

 映画『ロッキー』を精読している。

 3年前に書いた『夢みる名古屋』の続編を書くために、いろいろと郷土史の文献をひろいつつ、サラリーマンとは何か、サラリーマンの生成について、きちんとした視点を持っておかなくては、近現代史を書くことはできないなと思った。

 そこでとりいそぎ、ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホのエッセイに導かれて、ジークフリート・クラカウアーの『サラリーマン』を読んでいる。

クラカウアー著『サラリーマン』は、第二次大戦中ナチスによって焚書されたが、大戦後に復刊され、日本語版も刊行されている。この本は、当時のドイツの社会状況だけでなく、第二次大戦後のホワイトカラーを考えるうえで優れた論点を提示している。サラリーマンとスポーツについて。サラリーマンとルッキズムについて。縁故採用と排除について。100年前に書かれた描写がまったく古びていない。まるで現代のホワイトカラー労働者を書いているようだ。


 1958年の王子製紙争議は、総評の三大争議の一つに数えられる大争議だった。総評三大争議とは、日鋼室蘭争議、王子製紙争議、三井三池争議である。私がいま調べているのは、春日井市の王子製紙争議である。

 王子製紙争議について特筆するべきは、これが、労使関係の質的転換をめぐる争議だったということだ。日鋼室蘭争議と三井三池争議は、大量の人員整理をめぐる解雇撤回闘争だったが、王子製紙争議の争点は人員整理ではなく、管理経営の徹底、そのための労働組合の無力化という攻撃だった。ここで経営側は、王子労組の分裂をはかり、第二組合「王子新労」を形成させる。いわゆる「御用組合」のモデルケースとなるものだ。このとき、「王子新労」形成に決定的な役割を果たしたのが、東京の職員たち(ホワイトカラー)だった。職員と工員が一つの組合に結集していた王子労組は、東京のホワイトカラー職員たちを一気に切り崩され、組合分裂という構図にもちこまれていったのだ。このときの切り崩し工作は、戦後日本の「労使協調」、組合無力化の起点となる出来事である。

ジークフリート・クラカウアーは、ホワイトカラー労働者の矛盾に満ちた境遇と生態が、ナチス党を成長させた原動力の一つと見ているのだが、第二次大戦後の日本のホワイトカラーは、その矛盾した生態を何に向けていったのか。御用組合の形成。そう、外形的にはそうだ。だがそれだけでは足りない。ホワイトカラーの内的世界について、もっといろんな肉付けが必要だ。サラリーマンが経験した具体的なイメージ、文化、夢について。

 見なければならないものはたくさんある。まずは映画『ロッキー』から『ロッキー2』、『ロッキー3』、『ロッキー4』へと、滑稽な夢に向かって転がり落ちていく作品の姿を精読しようと思う。



2022年5月28日土曜日

ジジェクのエッセイを読んだので、コメント

 

雑誌「世界」臨時増刊号に掲載されたジジェクのエッセイ「ウクライナと第三次世界大戦」を読んだ。

どうもすっきりしない。奥歯にものが挟まっているのか、状況がクリアーに見えていないのか。まあ、なんでもかんでもジジェク先生に聞けばいいというわけでもないのだが。

 

 このエッセイの欠点は、アメリカ政府の新しい外交・戦争戦略に触れていないことだ。アメリカ政府の新しい戦略は、自国の兵を動かさず、武器供与をするだけで、小国に戦争をやらせるという方法だ。アメリカがNATOを巻き込んでウクライナ政府にやらせている戦争は、こういうものだ。外交交渉に尽力するのでもなく、自らの手を汚すのでもなく、小国の右翼政権をそそのかして、見込みのない戦争をやらせる。まるで、映画『アウトレイジ』に登場する悪人たちのやり方だ。

 

 これは日本にいる私たちにとっても他人事ではない。

 沖縄県の南西諸島(与論島・石垣島・宮古島)に配備された対艦ミサイル基地は、中国海軍への攻撃を想定したものだが、この運用主体は米軍ではなく、自衛隊である。米軍は、日本列島から沖縄・八重山諸島までを、「第一列島線」として、対中国戦争の前線に想定している。この戦略の肝は、有事の際、米軍は兵を退くということだ。米軍はグアムまで兵を退き、戦闘を担うのはもっぱら自衛隊である。アメリカ政府は、自衛隊の後方から兵器と弾薬を供与するのみである。戦争の外部化、アウトソーシングだ。

 いまウクライナ戦争では、アメリカの対ロシア戦略の新しい方法が試みられている。この方法は、アメリカの対中国戦略に援用される可能性が高い。アメリカは中国と直接に事を構えることをしたくないが、日本の右翼政権のケツをかいてやれば、自ら喜んで対中戦争をやってくれるかもしれない。そうなれば、在日米軍は安全な後方に退き、高価な弾薬をたっぷりと売りつければいい。そして、アメリカと「価値観を共有する」国々に呼びかけて、この戦争を正当化するためのキャンペーンを繰り広げるのだ。「中国は危険な専制国家だ」「中国は強欲な覇権主義だ」と。自分は表に立たず、小国の政治家の鼻先に人参をぶらさげて、戦争を代行させる。卑劣なやり方だ。

 

 

 ジジェクはエッセイの結論で、ウクライナ戦争について、第三世界の人々に聞いてみたらどうか、と問うている。この間、ずっと沈黙している第三世界の諸国に、意見を聞いてみてはどうかと。この戦争報道で繰りかえされている「価値観を共有する西側世界」なるもの、その「価値観」なるものが、第三世界の人々に理解されるのか。それは第三世界の人々を説得できる内容をもっているのか。西欧世界はもういちど自問するべきだ、と。

 まあ、大知識人らしい、上品な結論だ。

 私はジジェクのように上品ではないので、はっきり言うが、アメリカ政府の卑劣な戦争戦略を成就させないために、ロシア軍に勝利してほしいと願っている。表立っては言っていない。ただ内心では、ウクライナは早く負けろと願っている。ウクライナ軍の勝利は、アメリカの戦争戦略に成功例を与えてしまうということになるのだから、これは世界中の国々にとって重大な脅威となる。ロシアの脅威よりも、アメリカの脅威の方が、はるかに大きい。ロシアの覇権主義を云々するよりも、アメリカの際限のない覇権主義の方が、我々には優先的な課題だ。