2017年6月30日金曜日

科学論争ノート1

科学論争ノート

 2011年の放射能汚染を境に、原発の安全神話は強化された。
 2011年以前、原子力発電の安全論を主張するのは、政府、推進議員、電力会社などに限られていた。
 2011年以後、「原発の安全神話」は崩れたかにみえたが、今度は「放射能安全神話」があらわれた。2011年以後、放射能の安全論は、政府や電力会社だけでなく社会全体を巻き込む厚みをもったものになっている。

 日本政府には放射線被曝をめぐる科学論争に加わる資格がない。放射線被曝による人体影響が証明されるなら、政府はそれに応じた措置を実行しなければならない。それは最大4千万人の人口を汚染地域から退避させるという事業を想定しなければならないものである。現在の日本政府には、これだけの規模の退避措置を実行するだけの政策的・政治的条件がない。日本政府には、放射線の人体影響について科学的に導き出されうる結論を受け止める用意がない。この科学的に導き出されうる結論にむけた準備、つまり、公衆の大規模退避措置を準備できない政府は、汚染をめぐる科学論争に加わる資格はない。

 放射能汚染をめぐる論争は、放射線防護措置をネグレクトするための論争になっている。国家は国民の生命を保護するためでなく、その保護責任を回避するために、偽の「科学」論争に臨んでいる。放射線の人体影響をめぐる「しきい値仮説」のような珍説の導入は、政府が公衆の放射線防護義務を放棄しようとする意志をあらわしている。たった数名の御用学者と検討会によって、日本政府の責任が免罪され、夜警国家化(最小限の政府)が実現されている。

 放射線防護措置のネグレクトは、「科学」論争という見せかけによって、政策的な論争を回避している。政府は「公衆の防護措置をしない」とはっきりと明言するのではなく、論争の体裁をとることで結論を宙づりにし、あるいは先延ばしにするのである。この「科学」論争は、茶番である。

 放射線をめぐる科学論争に真正な態度で関与しうるのは、どんな破局的な結論にたいしても対策を準備している個人である。彼女らは国による措置を待たず、自力救済によって防護策をとった。彼女らは日本政府が破産する事態を想定しているし、場合によってはこの国を離れる覚悟もしている。この、2011年以後に広範にあらわれた一般的な態度を、“科学的無政府主義”と呼ぶことにする。

 地方公共団体は、政府による偽の「科学」論争と、市民による“科学的無政府主義”との狭間に立たされている。地方自治は、放射線防護対策の重要な焦点になった。直接的な土壌汚染を免れた地域では、自治体の独自の判断で、給食材料の産地規制を実現しているケースもある。

 社会民主主義諸勢力は、国民国家を前提にして運動を想定するという限界を抱えているために、勃興する“科学的無政府主義”または“無政府主義的科学主義”を前に腕をこまねいている。社民主義諸勢力は、日本政府の夜警国家化と、市民の“科学的無政府主義”との狭間で、国民国家存続の幻想を護持しようとする。この幻想の護持は、政府がしかける偽の「科学」論争を支えることとなる。つまり、社民主義諸勢力は結果として、夜警国家化の成立に加担することになる。

 市民による“科学的無政府主義”は放射線被曝の予防に努める。これにたいして日本政府は、クリアランス概念を最大限に拡張し、防護措置の放棄をはかる。クリアランスとは、統治の技法に科学的な粉飾をあたえたものである。

 国家の統治は、現実の全体から例外的なものを分別し、一般的なものと例外的なものとの線引きを自明なものとして確立することである。特異なもの、特異な状態を、例外として扱う。例外とは、考慮する必要のないもの、保護するに値しないもの、法の外に放逐されるものである。「科学」論争に登場するクリアランス論は、標準的な人体を設定しその空想を自明なものと信じさせることで、現実にある人体をことごとく例外にしてしまう。

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 “科学的無政府主義”は、一般的なものと例外的なものの分別を認めない。この立場はある明白な事実、すべての人体は特異であるという事実に由来する。「一般的な人体」「標準的な人体」などというものは、存在しない。すべての存在は特異であり、あるひとつの特異なものが、すべてである。一人の子供が鼻血を流したときに、その異変を例外としてみなすことに何の意味があるだろうか。そのひとつの徴候を見過ごしてしまう者は、たとえ200人の子供がガンを発症しても闘うことができないだろう。

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 社会民主主義者がクリアランス論=被曝受忍論に傾いていくのは、彼らが科学的思考に不慣れだからではない。彼らの社会的・政治的構想力が、国家を超えることがないからである。社会民主主義者は、革命的状況に際しては、その抑止、反動、反革命としてあらわれる。だから社民主義者は、日本政府とまったく同じ手つきで「科学者」を呼びクリアランス論を語らせるのである。「風評被害」の威力を恐れているのは政府だけではない。社民主義者もまた「風評被害」がはらむ革命的性格に不安を抱いているのである。

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 ↑これを具体的に明記するなら、安斎育郎、小出裕章、河田昌東、などである。彼らのような受忍派の「科学者」は、反原発運動から排除するべきである。



2017年6月14日水曜日

『移住者たちの新たな問い、増殖する新たな空間』


 小冊子を発行しました。

『移住者たちの新たな問い、増殖する新たな空間』
   著者=矢部史郎+山の手緑 
   発行=遠心力出版
   48頁 頒価300円

 昨日、印刷と丁合を終了しました。
今日、カライモブックスさん(京都)と、模索舎さん(東京)に発送し、ウニタ書店さん(名古屋)に納品してきました。

 表紙はカラーではありません。リソーの輪転機で印刷したので、白黒です。
 よろしくお願いします。

2017年6月6日火曜日

カライモブックスさんで委託販売開始です


今月、小冊子『2011年以後、どうなのか』(遠心力出版)を発行しましたが、京都の書店で委託販売をしてもらえることになりました。

カライモブックスさんです。

取り扱い書店が3店になりましたので、あらためてお知らせします。


遠心力出版 取り扱い書店

ウニタ書店
   名古屋市千種区内山3丁目33−8 新今池ビル 2F

カライモブックス
   京都市上京区 大宮通芦山寺上ル西入ル社横町301

模索舎
   東京都新宿区 新宿2丁目4−9


今月中旬頃に、もう一冊つくります。
よろしくお願いいたします。

2017年6月3日土曜日

退行する報道番組


NHKの報道番組「クローズアップ現代」で、福島県産米の「風評被害」をとりあげていた。
この番組が主張する説を要約すると。


小売市場では現在も福島県産米が売られていない。
 ↓
最新の市場調査では、2割の消費者が福島県産米を買わないと言っている。
 ↓
8割の消費者は、福島県産米を気にしていない。≒「風評被害」は終息した。
 ↓
それに対して、流通業者の多くが「福島県産米は売れない」としている。流通業者が「福島県産米」を避けている。
 ↓
消費者の間では「風評被害」が終息しているのに、流通業者の意識は2011年のまま。
 ↓
(結論)もう6年も経っているのだから、福島県産米を流通させるべきだ。



 「クローズアップ現代」の説によると、流通業者の意識が低い、ということになる。

 この珍説、どこがおかしいかと言うと、「福島県産米を買わない」としている2割の消費者を過小評価していることである。
 2割というのは、大きい。2割もの消費者が「買わない」と言っているものを、流通業者が無視できるわけがない。10円や20円の価格差を競い合っている食品小売業界で、2割の消費者を逃がしてしまったら、すぐにつぶれてしまうだろう。
 たとえば、現在の小売商品では食物アレルギーの表記があたりまえになっている。食物アレルギーにかかわる消費者なんて全体の2割程度だろうといって表記を廃止してしまったら、その業者は競争に負けてしまう。だからどの業者も食物アレルギーの表記をやめることはできない。2割というのは大きいのである。


 もしかしたら「クローズアップ現代」の記者は、2割の消費者を「少ない」と思ったのかもしれない。福島県産でも気にしないという回答が8割もあったから、「風評被害は終息した」と錯覚したのかもしれない。しかし、現実社会は学級会のような多数決で決まるものではない。2割もの人々が「買わない」と回答したということは、「風評被害」がくつがえすことのできない趨勢になったということなのである。

 汚染から6年たって、いまだに払拭できないでいる「風評被害」とは、もはや風評ではない。現実を受け入れて、農家への賠償と廃業措置を進めるべきだ。なぜ福島の農家が廃業できないでいるかを調査するのが、本来の報道番組だろう。




参考 報道番組の退行した例 ↓