2022年12月31日土曜日

2022年のまとめと来年の抱負

 

 年末の忙しときに風邪をひいてしまった。高熱は出ていないが、体がだるい。

近所の病院に行ったところ、PCR検査キットを使い切ってしまって診察できないと断られた。市民病院に行ってくれというが、体がだるくてクルマを運転する余力がない。愛知県のPCR検査所は名古屋駅にあって、電車に乗っていくのもだるい。仕方がないので自室にこもることにした。PCR検査キットは入手できなかったが、抗原検査キットは手に入ったので、何も無いよりはましだろうということで一応検査をした。結果は陰性。この陰性結果にどれぐらいの意味があるのかはわからない。症状は、微熱とだるさと鼻づまり。のどの痛みはない。葛根湯と経口補水液を飲みながら、自室でじっと年を越すことにした。

 この冬の感染爆発は、これまでにない膨大な死者を出している。医療機関は崩壊状態になっているし、火葬場もパンクするだろう。感染を抑えるための大規模な措置をとらないまま、体の弱い者や不運な者がひっそりと大量に死んでいくのだ。

 

 

 今年は、原子力政策でいくつもの動きがあった。

 福島第一原発事故の初期被ばくによって小児甲状腺がんに罹患した患者は300人を超えているが、今年5月、被害者のうち6名が訴訟提起をした。通称「311子ども甲状腺がん裁判」が、東京地裁で始まった。(https://www.311support.net/

 福島第一原発事故の被害住民が国と東電に賠償をもとめる訴訟は、全国に約30ある。その最先頭を進んでいた4つの訴訟(生業訴訟・群馬訴訟・千葉訴訟・愛媛訴訟)について、6月に最高裁判決が出された。国の法的責任を認めない、異様な判決だった。福島県の「生業訴訟」はすぐに第二次訴訟の準備にとりかかり、すでに1000名を超える新原告が訴訟の準備に入っているという。

 7月。東京電力の株主が、原発事故当時の経営陣を訴えた株主代表訴訟で、東京地裁の判決が出た。旧経営陣4人は東京電力にたいして13兆3210億円を支払え、という判決だ。原告・被告ともに控訴したので、つぎは東京高裁での争いになる。

 

 8月。岸田首相は、原子炉等規制法の規定にあった「原発40年ルール」を放棄し、老朽原発を稼働し続ける方針を示した。さらに11月には、岸田首相は原発の新増設を検討するように指示した。福島の被害がなにも解決しないうちに、原発回帰政策に転換しようとしている。

 

 海外に目を向けると、やはり原発回帰の動きがあった。

2月に始まったロシア軍によるウクライナ干渉戦争(特別軍事作戦)では、チェルノブイリ原発とザポリージャ原発が、ロシア軍によって占領された。ウクライナ軍はザポリージャ原発に対して砲撃を行うなどして国際的な非難を浴びた。ウクライナ政府がザポリージャに異常に執着した背景には、ロシア製原子炉からアメリカ製原子炉への切り替え問題がある。ロシア軍が介入する直前、ウクライナ政府はアメリカ・ウェスチング社のAP1000という加圧水型原子炉の新設を決めていたのだ。ウクライナは現行のロシア製原子炉をすべて廃棄し、アメリカ製原子炉に切り替える、そして核燃料の供給ルートも「西側」に切り替える方針なのである。この事業はおそらく、「戦後復興」の名の下に日本のプラント建設企業も参入することになる。ゼレンスキーがダボスに招聘されたとき、まだ講和はおろか停戦の見通しもたたない段階にありながら「復興」を議論したというのは、そういうことなのだ。ウクライナの地に「西側」原子力産業の生き残り戦略がかかっているのだ。

 

 

「復興」ということで振り返れば、今年注目されたのは、福島県浜通りで進められている「福島イノベーションコースト構想」である。政府は「福島復興」をけん引する事業と位置付けるが、現地の住民からは「惨事便乗型開発」と厳しく批判されている。ここに誘致されたもののなかで注目されるのは、ドローンの研究開発企業が入っていることだ。ドローンは、廃炉作業に必要となる技術だが、同時に、現代の兵器開発に欠かせない中心的技術でもある。この開発構想が本当に復興に寄与するものになるのか、たんに「復興」を看板にした兵器産業育成(予算ばらまき)なのか、きちんと注視しなくてはならない。福島第一原発に貯留される汚染水を海洋放出しようとする政府の態度から推測するに、ここでの「福島復興」はたんに予算を横流しするためのお題目であろう。原発で大赤字を食らった重電メーカーに、「復興」名目で別の補助金を手当てするというわけだ。

12月。岸田内閣は、防衛予算の大幅増額と、その財源確保のために、特別復興所得税の20年延長案を検討している。もう、隠すこともしないのだ。「復興」名目で集められた税金は、アメリカ製のトマホークに支払われることになる。

「復興」政策は、投資詐欺やペーパー商法に似た、欺瞞の政策である。

 

私は2011年5月の時点で「復興政策に反対しよう」と提起したのだが、やはりあのときの見立ては正しかった。

もう微熱がつづいてもうろうとしているから、歯に衣着せずに言うが、12年前、2011年の事件直後、野田のバカが言い出した福島「復興」が絵に描いた餅であることは、ものを知っている人間ならみんなわかっていたことだ。あのときに、嘘を承知で「復興」政策に便乗加担した人々は、この「復興」政策の顛末について、きちんと総括を出してほしい。自民党に政権が変わったからおかしくなったのだ? 違う。民主党政権であれ自民党政権であれ、「復興」の美辞麗句が裏切られるだろうことは、最初から予測できていた。

私は最初から「復興政策は不可能だ」「公害隠しの復興政策だ」と繰り返し言ってきたので、私に責任はない。「復興」という名目に誰も逆らえず、内容を批判的に検証することもなくここまできてしまったのは、あの2011年の復興ボランティアバカ騒ぎのせいだ。いつ達成するかわからない遠大な目標を掲げて、福島県民を12年間宙づりの状態にしてしまったのは、あのとき政府の尻馬にのって騒いでいた「がんばろう福島」運動のせいだ。12年後のこの結果を見て、反省しろ。

 

 

 

とはいえ、2023年は、すこし良い年になる。反原発運動が、発展する。

伝え聞くところでは、東京の市民グループは、あらたに公害調停を準備しているらしい。これは、放射性物質の被害ではなく、原子炉から放出された化学物質の曝露被害に焦点を当てて、東京都の公害紛争審査会に調停をもとめるものだ。福島第一原発から放出された化学物質の種類と量については、すでにJAEAがまとめた報告資料があり、それをもとに議論を進めていく。私たちが放射性プルームと呼んだものは、同時に、化学物質プルームでもあった。原発事故後に大量の鼻血が出たり、皮膚に異常が出たり、異常な倦怠感をおぼえたという報告はたくさんあるのだが、これらは化学物質に起因したものなのかもしれない。そうした新しい議論が、公害調停の場で提起される予定だ。

関係者曰く、「2023年は、これまでにない新しい景色をみることになる」。楽しみだ。

 

名古屋では、原発事故人権侵害訴訟・愛知岐阜(だまっちゃおれん訴訟)が、ひきつづき裁判運動を展開する。コロナ感染の波をにらみながら、3月の集会を準備している。https://damatchaoren.wordpress.com/

正月の間に風邪をなおさねば。

 

 

 

 

2022年12月6日火曜日

つれづれなるままにホラー映画

 

最近、近所のレンタルビデオ店の閉店を怖れて、積極的にビデオを借りている。あれこれ忙しいのに、毎日のように映画を観ている。

 

 

日本・韓国・アメリカのホラー映画を観ていてわかるのは、やはり日本のホラー映画は優れているということだ。アメリカや韓国のホラー映画にも、充分に怖いものはあるのだが、物語の構造が平板で、たんに怖いだけだ。深みのない、お化け屋敷映画である。

アメリカや韓国の怪異譚は、キリスト教の影響を受けてしまっているために、さまざまな謎や怪異を悪魔に還元してしまう。結局最後のオチは、悪魔なのだ。悪魔ってなんだよ金返せ、と思う。

 これに対して日本の怪異譚は、キリスト教の影響を受けていないために、悪魔という概念がない。怪異の源泉になるのは、怨霊か、精霊である。彼らは悪魔ではない。善でも悪でもない他者である。

 

 怨霊を描いた作品は、数えきれないほどある。日本の怪異譚の多くは怨霊譚である。日本ホラー映画の古典となった『リング』(1998)も、怨霊譚である。

人間の怨霊は、古くは菅原道真や平将門の時代から語られてきたのだが、怪異史的に画期となったのは、近世に登場した『四谷怪談』や『皿屋敷』だという。近世期になって怨霊譚は身分の低い庶民に拡大していった。「お岩さん」や「お菊さん」といった身分の低い女性が、怨霊の主体になるのである。近世以降、あらゆる人々が怨霊になりうると考えられるようになった。土木工事で亡くなった作業員、戦争で死んだ兵卒、交通事故で亡くなった子供も、ホテルで殺された女性も、すべて怨霊になることができる。その力の源泉は悪魔ではないし、必ずしも邪悪というわけでもない。人間であれば誰しも抱くであろう悲しみや復讐心といった感情の現れなのである。

 したがって、日本の怨霊譚は、キリスト教徒のような排他的な解決を目指さない。アメリカ人であれば一方的に悪魔祓いを試みるような場面で、日本人はまったく反対の行動をとる。怨霊の声に耳を傾け、事情を理解するように努め、供養をすることで死者との和解を試みるのである。供養をすれば何事も解決するというわけではないのだが、まずはとりあえず手を合わせて、畏怖と和解の意志を示すのである。

日本の怨霊信仰は、未開的な汎神論と近代的な人間主義とが結合している。このことが、日本のホラー作品を複雑で深みのあるものにしている。

 

 

 とはいえ、手を合わせて供養をすれば何事も解決するわけではない。怨霊は人間的な道理で理解することができるものだが、その範疇には収まらないような他者がある。理解も和解も不可能な他者。精霊である。精霊は悪魔ではないし、邪悪な意志をもっているわけでもない。そもそも意志があるのかどうかもわからない。

 精霊を描いたホラー映画としては、『ノロイ』(2005)や『来る』(2018)といった作品が挙げられる。特におすすめしたいのは、『来る』である。

『来る』の精霊は、山からやってくる。山の精霊が里に下りてきて、人間の命を奪っていく。精霊には呼び名がなく、正体も解明されていない。ただ圧倒的な力をもった他者である。この作品で描かれるのは、精霊そのものではなく、精霊と対峙する人間の弱さと醜さである。

 邪悪な意志が人間を襲うというのではないし、悪い行いをしている人間だから精霊に狙われたというのでもない。精霊の標的となった人々は、善人でもなければ、特に悪人でもない。みな利己的で、見栄っ張りで、嘘つきだが、それはどこにでもありそうなレベルのこずるさ、卑しさ、醜さである。それは悪と言えるほどのものではない。ただ、彼らは弱いのである。精霊に狙われた人々は、まるで弱い者が自滅するかのように、死にひきずり込まれていくのである。

 この作品が素晴らしいのは、精霊と人間の対決を、純粋に強度の問題として描いていることである。物語の中で観客は、道徳や善悪といった観念を思いめぐらせるよう仕向けられるのだが、最終的にそれは意味のないこととして、棄却される。結論として導かれるのは、強度の問題。力が強いか弱いか、それだけなのだ。ニーチェが観たらのけぞるだろう素晴らしい脚本だ。

 

 

 怨霊においても精霊においても、日本のホラー映画が優れているのは、人間に関心を向けさせることだ。日本における怪異譚は、聖書でも神話でもなく、人間に向かう。歴史学的か人類学的な関心に導かれて、怪異譚が語られる。アメリカや韓国のホラー映画には、こういう視点はない。日本映画に特有のものだと思う。

日本のホラー映画は、ある面で、啓蒙主義的であると言える。

 


追記

 ここで言いたいのは、一口に「オカルト」と呼ばれるもののなかに、啓蒙的なものと反啓蒙的なものがあるということ、そして、キリスト教の影響を受けた「悪魔」概念はけっして普遍的なものではなく、特殊なものだということである。

 理解不能な他者に対したとき、敵対意識をもって非妥協的に戦うという態度は、自然ではないし、普遍的でもない。日本のオカルト文化では、怨霊や精霊といった他者に対して非妥協的な戦いを挑んだりはしない。他者を徹底して排除しようとする「悪魔」や「邪悪」という概念は、私たちにとって異質なものだ。

 もちろん日本にあっても悪魔と戦っている人々は存在する。だがそれは、ごくごく特殊な、カルト的な集団である。統一協会の事例をみればわかりやすい。悪魔(他者)と戦うという発想が、そもそも、頭がおかしいのだ。

 カルトとカルトでないものを分別するために、悪魔概念は一つの指標になる。他者への非和解的・非妥協的な姿勢は、危険である。統一協会もそうだし、大きくとれば、アメリカのバイデン政権もそうだ。彼らは戦争にむけた挑発・動員はできるが、講和をもたらすことはできない。

 

 

2022年11月19日土曜日

統一協会新法はいらない

 自民党・岸田政権は、統一協会の活動を規制し被害者を救済するための新法制定を議論している。統一協会の反社会性を報道しているメディア各社は、この新法議論にたいして無批判に呑み込まれている。

 私は新法制定は不必要だと考えているし、こうした議論そのものが有害だと考えている。

統一協会の問題の肝は、自民党政治家と行政機関が、統一協会の活動を見逃していたということだ。この教団の反社会的活動は、多くの弁護士から告発されていたし、現行法で充分に規制できるものであった。現行法の解釈・運用を、自民党が無理やりに捻じ曲げていたということが、統一協会問題の本質である。「新法を制定しなければ規制できない」などというのは、自民党の苦し紛れのいいわけにすぎない。こんな開き直った言い分を鵜呑みにしていたのならば、どんなすばらしい新法を制定しても、適切に運用されることはないだろう。

新法制定の論議には、複数の野党議員ものっかっているが、たんなる「やってる感」で終わるだろう。立憲主義を掲げる政党が、法解釈の濫用をたださず、新法論議にほいほいとのっかってしまっているのは、非常に嘆かわしい。

 

追記

 嘆かわしいと言っているだけでは論がしまらないので、この問題の構造についてもう少し掘り下げておく。

 みせかけの議論、論点ずらしのための議論は、数多くある。現代のメディア産業は、多くの論題を提起し流通させる。ここで私たちに必要になってくるのは、ある論題について是か非かを考えることではなく、その論題が提示された背景を考え、その議論そのものの妥当性を吟味することである。その議論は、何かを明らかにするための啓蒙的な議論なのか、それとも、問題を隠し意識をそらすことを意図した蒙昧に向かう議論なのか。陰謀論の流行が私たちに教えているのは、人間は中味のない議論にこそ没頭するということだ。中味のない議論は、それを論じる主体の内容を問われることがないために、いつでも手軽に楽しめるアトラクションとなっている。

大戦後のヨーロッパに誕生したシチュアシオニストの思想潮流は、早くからこの問題を指摘していた。戦争プロパガンダの技法が、戦後の文化産業と結合し、新しい(アメリカ的な)生活文化を構築していく。戦争への動員を解除された大衆が、新しい大量消費生活へと動員されていく時代だ。シチュアシオニストはこれを、“スペクタクルの社会”と呼んで分析した。

私が“スペクタクルの社会”について考え始めたのは、1990年代の東京の都市再開発に際してだった。だが、問題をよりいっそう強く意識するようになったのは、2011年の福島第一原発事件である。広告産業と行政権力が深く結合し、公害隠しの復興政策へと向かったのである。

東電福島第一原発の爆発事件から3年後、2014年の論考で、私たちは次のように書いている。

 

……  このことをチェルノブイリ事件と比較してみよう。我々はチェルノブイリ原発の炎上する姿を見ていない。当時のソ連政府は、当初、チェルノブイリの事故を隠していた。スウェーデンのモニタリング機関が異常を指摘するまで、誰もチェルノブイリの爆発を知らなかった。ソ連政府は、事故を見せるのではなく、隠した。いまでは当時の記録映像のいくつかを見ることができるのだが、それはソ連邦内部の国民に向けて、収束作業の動員のためにつくられたプロパガンダ映画というべきものであって、諸外国の報道機関に提供するためのものではない。ソ連政府は、チェルノブイリの姿を国民に見せて、世界に見せなかった。そういうしかたで事故の隠蔽をはかったのである。

 東電公害事件をめぐる隠蔽は、かつてのソ連政府の対応を反転させた形式となっている。世界中のメディアが、その日のうちに爆発の映像を報道し、我々の目にやきつけた。そして皮肉なことに、爆心地である福島県の放送局だけは、爆発の映像を報道しなかったのである。事件をめぐるメディア状況は、チェルノブイリ事件とは対照的なかたちをとったのである。

 いまから振り返って考えてみれば、すでに3月12日の段階で、この事件をめぐる高度にスペクタクル(ルビ・見せ物)的な性格が決定していたと言えるだろう。日本政府にとって問題となるのは、世界が注視する中でいかにして問題を隠蔽するかである。単純に隠すというだけでは足りない。隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。人々の視線を遮断するだけでなく、積極的にスペクタクルを提供し視線を操作すること。人々の関心と無関心に介入し、意識の流れを誘導すること。ここから、「復興」政策全般を規定するスペクタクル(ルビ・茶番)の政治が要請されることになる。……

(「シジフォスたちの陶酔』矢部史郎+山の手緑、『インパクション』194号所収)

 

隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。これが、福島「復興」政策の基調となった。私たちは戦争の被害こそ経験してはいないが、国民動員のプロパガンダをいやというほど見せつけられたのである。嘘のデータ、嘘ではないが誤読を意図したデータ、ニセの議論、問題のはぐらかし、中味のないかけ声と空元気、等々。福島をめぐる数多くの出版物がすべて無意味であったとは言わない。だが、問題を明らかにする真に啓蒙的な出版物は、ごくわずかである。ほとんどすべての議論が、被ばくを受忍させる蒙昧へと向かったのだ。

 

事故から11年たって、福島県の汚染被害はなにひとつ解決していない。

この無為に終わった11年間の責任は、どこにあるか。もちろん政府が悪い。だが、政府だけか。

我々はただニセの議論に翻弄された被害者だと、言えるのか。

出版・報道に携わる人々は、この件について、無罪なのか。

よく考えてほしい。

 


2022年10月19日水曜日

ゾンビ(1978)を観る

 

 活動の合間に昔の映画を観ている。

1978年公開の『ゾンビ』(dawn of the dead)は、何度みても飽きない。

この作品のヒットによって、ゾンビ映画が多数つくられ、一つのジャンルを形成するまでになっているのだが、やはり、78年の『ゾンビ』が最高傑作だと思う。

 最近のゾンビは、たんなるモンスター映画になってしまっていて、ゾンビという存在がもつ哀しみが描かれていない。ゾンビが走ったり道具を使ったりするというのは、最低だ。何もわかっていない。ゾンビを走らせてはいけない。ゾンビは、走る活力を失っているからゾンビなのであって、だから恐ろしいのだ。「ゾンビは走れない」という設定は、この作品が描こうとする状況にとって絶対に必要なものだ。

 『ゾンビ』は人間の危機と悲哀の物語である。ある日突然死者の世界が始まろうとするときに(dawn of the dead)、かつて信じられていた人間の尊厳が失われてしまうという危機と、悲哀である。これは歩く死者から身を護るというだけの映画ではない。ここで描かれているのは、人間の信念が崩壊し無効化されていくイデオロギーの危機である。

人間はゾンビの脳を破壊して殺さなくてはならない。ゾンビはただ生者を食らうだけの存在だからである。ゾンビは人間を食らうことで新たなゾンビを生み出し、増殖していく。彼らによって人間の社会活動は崩壊させられてしまう。生産も、消費も、交通も通貨も崩壊していく。こうした状況で人間に残された唯一の課題は、ゾンビを殺戮し、生存のための物資を確保することだ。

 ショッピングモールに辿り着いた人間は、バリケードでモールを封鎖し、店内のゾンビを皆殺しにし、建物と物資を占有する。陳列されている食品と水、おびただしい量の商品は、すべてタダで手に入る。彼らは商品経済からも労働からも解放された世界を手に入れる。いや、彼らだけではない。ゾンビが充満する世界では、すべての人間が労働から解放される。人間に残された唯一の労働は、尽きることなく現れるゾンビを殺戮することだ。

 終わりのない殺戮によって人間は正気を失っていく。だが、それだけではない。本当の危機は、人間のもつ活力と英知が殺戮と排除に使われる以外にないという状況である。建物を占拠した人間も、駐車場を徘徊するゾンビも、どちらも生産的な労働を失っている。ここで描かれているのは、労働から解放されたディストピアであり、そのイデオロギー的危機だ。

ゾンビは走ることができない、つまり、労働を担うための活力と速度を失っている。その姿は、ゾンビと対峙する人間たちの不能状態を鏡映しにしたものだ。ここで暗示されるのは、産業労働が自動化され大量の失業者がはきだされ、「ポスト工業化社会」に向かっていく時代の、イデオロギー的危機である。

何も買うことができないのにショッピングモールに蝟集するゾンビの姿に、私たちは感情移入する。大衆消費社会の時代とは、誰もが失業しうる時代であり、産業労働者の地位が崩れはじめた時代だ。この転換期の悲哀を描くために、ゾンビは走れないのである。

 

 人々の意図に反して労働が廃絶された世界で、それでもショッピングモールは煌々と光を放ちつづける。そのエネルギー源は、人間の生産活動によるものではない。ハリスバーグの原子力発電所から電力が供給されるのだ。

 石炭の時代、炭鉱労働者たちが構築していった民主主義と尊厳は、原子力の時代に過去のものになった。

2022年9月20日火曜日

コスパとか言って喜んでいる奴は死ね

 

安倍晋三・昭恵夫妻に子どもがいたら、ここまでひどい話にはなっていなかっただろう。

ひどい話というのは、安倍の国葬をめぐる議論である。 

国葬賛成派は、国葬が外交の機会になるからやるべきだ、とか、外交政治として「コスパがいい」(費用対効果がいい)などと、堂々と言っていた。

政治家の死があるていど政治利用されるということは誰もが想定している話なのではあるが、ここまであからさまに、あっけらかんと、「コスパがいい」などと言われてしまうと、安倍晋三と遺族が気の毒になる。死者への敬意などみじんも感じられない、純粋に政治の具材にされている。

安倍晋三本人については、生前から具材然とした人間だったので、まあ当然の報いだとして、気の毒なのは昭恵夫人である。夫の死を「コスパ」扱いされるという侮辱を受けても、彼女は頭が弱いので沈黙するしかない。仮に子どもがいれば、子どもの将来と名誉のために奮起するだろうが、残念ながらそれもない。

昭恵には、なにもない。

刈り取り放題である。

まるで残酷な見世物だ。

 

 

 

2022年9月9日金曜日

ペペさんとまったり反戦トーク

 

だめ連のペペ長谷川氏が名古屋に滞在しているということで、中村区の後藤宅におじゃまして、じっくりまったりとトークをしてきた。

 

 ウクライナ戦争の評価について、東京の運動圏の議論はどうなっているかを聞こうとしたのだが、あまりはかばかしくないとのこと。反戦運動はおろか、戦争をめぐる議論すら充分にできていない状態だという。

おそらくこの現象は日本だけではなく、西欧でもそうだ、とペペさんは言う。北米ではまったく関心をもたれていないとも伝え聞いた、と。

 

日本も含め「西側世界」の言論は、戦時下の様相である。冷静な分析も自由な議論もできないでいる。分析を試みて口を開けば、単細胞のにわか反戦派が「それはプーチン擁護だ」「ロシア派の視点だ」とカラんでくる。ウクライナ革命政権の正当性に疑念をさし挟もうものなら、全力で議論を阻止してくる。ロシアの軍事作戦を非難することだけが正義だと考えているかのようだ。平板で抑圧的な道徳的反戦派が、戦争をめぐる議論を不自由にしている。

この状況はまるで80年前の日中・太平洋戦争のころと変わらない。

戦時下とは、単細胞の正義漢におびえて必要な議論が自粛され、または封殺される状況なのだ。

 

 

私たちの第一の課題とすべきは、自由な議論を回復させることだ。

戦争はウクライナだけで戦われているのではない。ロシアでもウクライナでもなく、いま私たちが日本で経験している抑圧的で不自由な言論状況を自覚し、それを克服すべき課題としよう。

今後はペペさんにならって、ウクライナ戦争の話をしようと思う。 

 

2022年9月2日金曜日

山上徹也氏のなにが素晴らしいのか

 

運動の事務局作業に追われているが、今週末は完全にオフにすると決めた。休む。

 

 2ケ月前に起きた山上徹也氏の銃撃事件以来、みんな表情が明るくなったように思う。もういい大人だから声をあげてはしゃいだりはしないが、体の奥底から活力が湧いてきている。山上さんありがとう、と言いたい。

 

 山上氏の闘いは、政治的な文法に媒介されない私闘(私戦)であった。

この私闘は、驚くほどすんなりと人々に受け入れられ、社会秩序にかんする私たちの感情を逆なでしなかった。いや逆なでしなかったばかりでなく、反対に、社会秩序の回復を願う多くの人々に希望を与えることになった。

彼は、政治的な意図も表現もいっさい含ませることなく、純粋な復讐として闘いを遂行したのだが、そのことがかえって、人々が共感する普遍的な義を表現することになったのだ。

 

 社会運動にたずさわる活動家の多くが山上氏に共感しているのは、この点である。右翼は混乱して肝心の部分を見逃しているのだが、私たち「左翼」が山上氏に共感するのは、政治的に敵対する安倍を倒してくれたから、ではない。問題は政治の左右ではない。私たちが共感しているのは、山上氏が政治的なお題目を振りかざすのではなく、むしろ政治的言語を排して、私闘をやりきったという点である。彼の反政治的姿勢が、社会運動の根本原理と共振しているのである。

 

 たとえば私が、原発事故の賠償請求訴訟に関わって裁判支援運動に力を注いでいるのは、私が経産省と東京電力に対する報復感情を持ち続けているからだ。こういう人間は特殊な例ではない。たくさん存在している。数えきれないほどいる。社会運動というものは、その起点と核心に私闘的性格を含んでいるのである。

山上氏が放った銃声は、そのことを想い起させてくれた。

私が反原発運動に加わるのは、日本のエネルギー政策がどうのこうのという政策の議論がしたいからではない。経産省の役人を土下座させて詫びをいれさせるために、闘っているのだ。

2022年8月21日日曜日

エクスキューズの自家中毒について


「私はここでロシア政府を擁護するわけではないが、しかし」云々。
「プーチン政権による軍事侵攻は決して許されるものではないが、しかし」云々。

こういうエクスキューズを言うのは、もう、ほどほどにしよう。
丁寧な議論をするためにしているというのは、わかる。理解はしている。
しかし、ちょっとやりすぎではないか。
このエクスキューズを頭におく習慣は、マイナスの効果を発揮しているように思う。問題を考える姿勢として、防衛的・消極的になっている。自己保身が先に立ってしまって、議論の中味が薄くなる。
そしてこういう習慣は、若い学生たちが真似をする。これは知的な後退を招く。反知性主義に呑み込まれてしまう。知的に誠実であろうとする態度・習慣が、反知性への道を舗装するということになりかねない。

他人から誤解されて「あいつはロシア派だ」とラべリングされるなら、それはそれでいいではないか。
私たちの多くは、社会的に影響力のある大知識人でもないのだから、必死になって守るようなものはないはずだ。
誤解する人間は何を言っても誤解するのだ。放っておけばいい。
それよりも、大事なのは、議論の中味だ。

2022年8月7日日曜日

原子力政策の動機をめぐる三つの説明


 日本政府は核兵器の被害国であり、また、福島第一原発の事故被害も経験したのだが、現在もなお原子力事業を推進している。

なぜなのか。

日本政府が原子力に執着する理由について、三つの説明が考えられる。

 

第一の説明は、日本権力が核武装を目指しているという説だ。日本に原子力事業を持ち込んだ中曽根康弘は、日本帝国の復活を目指すタカ派議員であった。中曽根らは、日本を核武装国家とする野心をもって、日本に原子力技術を移植し、その意志は現在も継続している、という説明だ。

 

第二の説明は、アメリカの核武装戦略が、核の商用利用(デュアルユース)を必要としていて、日本の買弁権力はそれを実現するための経済的基盤を差し出したのだ、という説。

核武装戦略は核独占を目指さなくてはならないのだが、それは非常に金がかかるものだった。アメリカは世界のウラン鉱山とそこから精製される核物質を、もれなく管理・統制しなくてはならない。そこでアメリカ政府は、諸国家を巻き込んでIAEAを設立し、同時に「原子力の平和利用」という政策を打ち出した。IAEAの管理下で核の商用利用を推し進めることで、核武装・核独占にかかる費用を、他国の電力会社に負担させたのだ。私たちの支払った電気料金は、まわりまわってアメリカの核武装戦略を支えているわけだ。アメリカが核兵器を放棄しないかぎり、世界のどこかで原発がつくられ続けることになる。

 

第一の説明は、日本権力の自立性に着目し、第二の説明は、日本権力の従属性に着目する。1960年代の議論に照らしてみれば、第一の説は「日帝自立論」に近く、第二の説は「米帝従属論」に近い。これは、どちらが真でどちらが偽かということではない。日本権力がもつ二つの性格を、それぞれ異なる角度から指摘しているということだ。

 ただしここで興味深いのは、かつて「日帝自立論」に冷ややかであった日本共産党が、原子力問題では第一の説を受け入れているということだ。いや、きちんと言い直すと、日本共産党は第二の説明をとることに消極的になっていて、第一の説のみを強調するという、ねじれた状態がある。それはおそらく、「原子力の平和利用」という詐欺的な論理を素朴に無批判に信じた世代が、現在も党内で発言力をもっているということだろう。いつかはこれを修正しなければならないだろうが、私は共産党員ではないので、横から口を挟むことではない。

 

 

第三の説明は、米・日の国家意志からの説明を離れて、資本主義的生産の無秩序な性格から問題を説明するものだ。

 現在、日本の電力会社は、大量の使用済み核燃料を抱えている。これは帳簿上は資産として計上されている。なぜなら将来「核燃料サイクル事業」が実現した暁には、使用済み燃料はあらたな核燃料に生まれ変わることになっているからだ。

 だが実際には、「核燃料サイクル事業」は実現する見込みのない計画だ。使用済み燃料は資産ではなく、おそろしく金のかかるゴミだ。使用済み燃料がゴミであるという事実を認めるならば、これは資産ではなく、マイナス資産として計上しなければならない。現在、沖縄電力を除くすべての電力会社は、マイナスであるものをプラスに書き換える会計偽装によって、首の皮一枚でつながった状態なのである。科学技術庁のほら話にのって使用済み燃料を大量に抱えこんでしまったことで、電力会社は退くに退けない状態に陥ったわけだ。

 

 資本主義的生産様式は、短期的で近視眼的な動機に依拠していて、長期的な計画には対応できない。原子力産業は、放射性廃棄物の処理という超長期的な課題を忘れようとして、「核燃料サイクル事業」という絵空事をでっちあげ、問題を先延ばしにしてきたのだが、もうそんな話は通用しない。古典派・新古典派の経済学者が言う「神の見えざる手」なるものがあるとするならば、ここまで貯めこまれた放射性廃棄物のコストとリスクは、どのような経済合理性によって解消されるというのだろうか。彼らには無理だ。電力会社の暴走を止めるためには、会計偽装に依拠したニセの信用経済を強制的に終了させなければならない。

 

 

気が付けば、「原子力の平和利用」とそれが生み出したゴミは、核兵器よりも危険な、人類全体の脅威になってしまっている。

この課題に対応するためには、電力会社は私企業であってはならない。電力会社が国営化されてはじめて、現実的な議論のスタート地点に立つことができるだろう。

 

 

 

2022年7月27日水曜日

勝共連合とNATO

  集会の準備作業で忙しいので、一言だけ。


 勝共連合とNATO、どちらも東西冷戦時代の残滓が延命して発酵したような状態なのだが、今後どうなるのか。

2022年は後から振り返ってみれば、歴史的な年になるのかもしれない。



2022年7月17日日曜日

山上徹也と岸田文雄

 


 

 山上徹也氏が安倍晋三を殺害してから一週間がたつ。

 当時の警備担当者は、警護の失敗を振り返るなかで、山上氏が発声をしなかったと述べている。警備担当者は、襲撃者は必ず怒声を上げてやってくるという想定で訓練していたのだという。「安倍!」「死ね!」または、「天誅!」といった怒声があり、その次に発砲か体当たりをしてくるだろう、という想定だ。しかし、山上氏は無言で接近し、無言のまま発砲した。これには完全に虚を突かれた、というのだ。

 山上氏の行動には無駄がなく、無駄な表現がない。どこにでもいそうな目立たない服装で、その動きには殺気がなく、警備担当者がまったく関心を向けなかったというのも無理もない。山上氏の行動は、政治というよりも業務に近く、テロではなくソリューションである。彼はまったく無駄のないやり方で、課題を解決したということだ。

 

 山上氏の行動スタイルは、安倍晋三のやり方とは対照的だ。

安倍晋三はやたらと声がでかく、挑発的な言辞を繰り返し、芝居がかったパフォーマンスを好んでいた。それは内容があってそうなったのではなく、安倍晋三が権力をそのようなものとして理解していたということだ。大声で号令をかける演説屋。それこそが権力であると安倍は理解し、演説屋として振舞ったのである。振り返ってみれば、ずいぶん古風な権力観ではある。

山上徹也氏は、安倍よりもはるかに現代的なやり方で、安倍を処理した。彼は無言で銃を作成し、無言のまま近づき、発砲した。見事である。山上氏に対する人々の称賛の多くは、この現代的な行動スタイルと問題解決能力の高さに向けられている。目立たずけれんみは無いが、着実に問題を処理する人間。彼が作戦を成功させたことで、声のでかい政治家は陳腐なものとなった。維新の会のような口数の多い政治家は、その言葉の無内容ではなく、表現の過剰によって、前時代的な政治家とみなされるようになるだろう。

 

こうした点からみて、岸田文雄はおそろしい。

彼の政治には、表現が欠けている。号令をしないまま、無言で権力を行使する。

岸田文雄は、山上徹也氏に似て、現代的だ。

 

 

 

2022年7月15日金曜日

連合・芳野会長は大丈夫か

  山上徹也氏が安倍晋三を殺害したことで、カルト教団・家庭連合(統一教会)の悪事が再検証されている。

 わかってきたのは、日本の反共主義思想・運動のうちのいくらかは、カルト教団によるマインドコントロールの成果であるということだ。生活の不安や恐怖心を抱く人々が、地獄やら因縁やらという強迫によって従属させられ、自ら思考することは悪、共産主義者は悪魔だと教えられてきた。被害者の多くは困難な境遇にある女性だ。恐怖心によって操作される人々が、右翼政治家の資源にされてきたというのが、反共主義の実相である。

 日本最大の労働組合組織「連合」の芳野会長は、強烈な反共主義で知られているが、彼女が統一教会やそれに類するカルト団体のマインドコントロールにあっていないか、点検されるべきだと思う。旧「同盟」や民社協会は、カルト汚染から自由になっているのか。反共主義者は、自らの意思で行動しているのかどうか疑わしいのだ。

2022年7月11日月曜日

ユニーク列島のユニークな「暗殺」

 

安倍晋三が殺害された経緯が徐々に明らかになってきた。

単独犯なのか組織的犯行なのかはまだ断定できないが、カルト教団・家庭連合をめぐる怨恨がらみの犯行だったという。

なんともユニークな、いや率直に言って、みっともない事件だ。安倍は総理経験のある大物政治家でありながら、まるで引退したボクサーや売れなくなった芸能人が不幸にも巻き込まれてしまう類の犯罪にみまわれたのだ。政治家として、完全な不祥事だ。安倍以外に死傷者が出なくて本当によかった。

しかし安倍晋三という人間は、最後までインチキな、やってる感だけの人間だった。この紛らわしい珍事件によって、まわりの政治家は少なからず恥をかかされてしまった。

高市早苗議員は「政治テロだ」と語気を荒げ、小池東京都知事は「民主主義への挑戦だ」と目を潤ませ、アメリカのトランプ前大統領は「彼は暗殺された」と口走ってしまった。しかしふたを開けてみれば、事件は政治テロでも暗殺でもなく、安倍は私的な怨恨によって殺されたのだ。最後の最後に紛らわしい置き土産をおいて、人々を騙したのだ。

 

これ、国葬とかやるのか?

観ているこちらが恥ずかしいのだが。

2022年7月9日土曜日

山上氏のようにカーゴパンツを

  政治活動にたいして暴力をもって圧迫を加えることは許されない。

 テロリズムは民主主義にたいする破壊行為である。断じて許されない。


 山上氏の行為が民主主義の破壊へと向かうのか、その反対に、民主主義の再生へと向かうのかは、私たちの今後の行動にかかっていると思う。


 山上氏と同じく1970年代に生まれた「氷河期世代」の我々は、みなカーゴパンツを履いて政治家の前に立とうではないか。反民主主義を極めた日本社会に対して、言論の回復と民主主義の復権を求めて、カーゴパンツで登場しよう。



2022年7月8日金曜日

破廉恥を共有する西側諸国

 

数日前の日本のニュース。

ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の大学生に向けて、オンライン講演会を行った。会場となったのは、東京の東洋大学だ。会場には300人ほどの学生が集まったという。テレビのニュース映像では、数人の学生たちに講演の感想を聞いていた。感想の内容はここではおくとして、異様だったのはその画面だ。インタビューのカメラは、学生の首から下だけを映して感想を語らせていた。一人ではない。インタビューに答えるすべての学生が、顔を映さない状態で感想を語ったのだ。

 なんだろう。まるで、犯罪報道で、犯人を知るクラスメートにインタビューをしているような画面。あるいは、風俗街の話題でストリップ劇場の客にインタビューをしているような。この学生たちは、ゼレンスキー大統領の主張に耳を傾けたにすぎない。しかしその行為は、どこか不名誉で、あるいは破廉恥で、堂々と公言することがはばかられる何かなのだ。

 

 ウクライナ政府の主張と、それを無批判に垂れ流すマスメディアの論調は、破廉恥である。破廉恥というのは、相対的な評価ではなく、絶対的な評価である。その特徴は、ベラベラとよく喋ること、過去の経緯に触れないこと、かわりに嘘や邪推をふんだんに盛り込むこと。この破廉恥さを分析し説明するには、国際政治学ではなく、女性学が適していると思う。

 「価値観を共有する西側諸国」が、この戦争を制御できなくなっている最大の原因は、彼らがロシア政府の主張を字義通りに受け止めることができないからである。「西側」はつねに相手国の声明に解釈を加え、書いてあるものを読まず、書いていないものを読み込む。この誤った解釈の機制は、性差別の場面に頻繁にあらわれるものだ。こういう解釈のゲームに浸りきると、もう自力ではどうすることもできなくなる。彼らは認知の歪みから抜け出すことができない。認知の歪みにまかせて、ゴネるか暴れるかしかないのだ。

これは、 「西側」につくかロシアにつくかというような相対的な評価の問題ではない。絶対的な評価として、「西側」は破廉恥である。

 


2022年6月25日土曜日

最高裁まるでネトウヨ判決

 


 原発事故人権侵害訴訟愛知・岐阜(名古屋高裁)のもろもろの作業がひと段落して、少し休憩できる時間ができたので、手短に書く。

 6月17日に最高裁で下された4訴訟の判決(生業、群馬、千葉、愛媛)は、お粗末の一言だ。

菅野博之裁判長は、数多くの論点を無視し、結論に結び付けられそうな証拠の断片をつぎはぎして、国の法的責任はないとした。

 ここで菅野博之が行っているのは、「チェリーピッキング」と呼ばれる誤謬である。「チェリーピッキング」とは、自分の結論にとって有利なものだけを選別してつまみとる、というやり方である。私たちが日常で目にしているネット右翼連中の常とう手段だ。徳も知性もない、権力を誇示しているだけの駄文だ。小論文なら0点だ。

 

11年もの時間をかけて数万の人々が血のにじむ努力をしてきた裁判にたいする最高裁の応答は、ネトウヨの駄文であった。笑うに笑えない。

この国の司法は、菅野博之というネトウヨに乗っ取られた。

 

 

2022年6月11日土曜日

育児の失敗は残酷だね

 

息抜きにネット掲示板を見ていたら、ある漫画家の児童虐待エピソードが話題になっていて、興味深い。とても残酷な話だが、関心をひく。

 

日本では第二次大戦後一貫して、育児の高度化が進行してきた。男女ともに教育水準があがり、人権意識が高まり、育児の文化は高度化してきた。

私が小学生だったころ、1980年代には、子どもへの体罰が問題視され、子どもの人格を尊重することが議論されるようになっていた。

2000年代、私が親になった頃は、子どもと同じ目線で話しかけるというスタイルが流行した。体罰を避け、怒鳴りつけることを避け、赤ちゃん言葉で話しかけることをやめ、幼少期から子供の人格を尊重するという育児だ。子どもを比較することや差別することを戒め、過干渉にならないように配慮し、塾や習い事はほどほどにしてぼんやりできる時間をつくるようにした。

 2020年を過ぎた現在は、おそらく私の頃よりももっとスマートな育児が行われているだろう。赤ちゃんを抱いている父親の姿も珍しいものではなくなった。育児の文化は急速に進化している。

 

だが、それがすべてではない。

育児の高度化は一般的な傾向として力強く進行しているとしても、その脇には、むごたらしい児童虐待・家庭崩壊の事例が散見される。育児文化の二極化。経済格差とは別の位相で進行する、育児の格差がある。

 経済の格差は、しばしばそれを正当化するために「優勝劣敗」や「淘汰」という言葉で表現される。進化論を曲解した「優生思想」になぞらえて、格差が正当化されることが多い。それに対して、育児文化の格差は進化論に喩えられることはない。崩壊家庭を指して「適者生存の法則だ」と表現する人はいない。

なぜか。なぜなら育児の成否という問題は、喩えるまでもなく、優勝劣敗だからである。育児文化が進化論と無縁だからではなく、反対に、育児が進化の過程そのものだからである。

口にするのもおそろしいほどに、育児の結果は残酷だ。児童虐待は連鎖し、人間を孤立させ、淘汰していく。人権意識が普及するにつれて、それを持たない者への淘汰圧力が強まる。他人の人格を尊重しない者や差別を肯定する者は、非婚化の圧力に押し流され、絶える。

これまで多くの女性が人権や反差別を唱えて活動をしてきたのは、彼女たちがたんに理念的なきれいごとを言いたいからではなくて、それが穏やかな家庭生活の条件になりつつあるからだ。子どもが健やかに成長し、幸せな結婚をし、健やかな孫の顔を見るために、人権意識は必要条件になっている。かつて直立二足歩行の猿人が四足歩行の猿人を淘汰していったように、現代では人権概念が人間の進化を方向付けている。

 

 

 いま話題になっている漫画家の事例は、経済的貧困を伴わない、純粋な文化の貧困を示しているために、人々の関心をひくものだ。

文化の貧困は、経済の貧困にも増して、むごたらしい。

かつて若者にもてはやされた「サブカルチャー」は、急速に、かわいそうなものになった。

 

 

 

 

2022年6月5日日曜日

ノート 映画『ロッキー』を観て

 


 1976年の『ロッキー』から2006年の『ロッキー FINAL』まで、シリーズ6作品を観た。

 シリーズを貫いているテーマは、スポーツによる共同体の構築、あるいは、擬製の共同性を構築する夢だ。

一作目では、30歳になるまで鳴かず飛ばずだった貧しい独身男性ロッキーが、同じく20代後半まで男と縁のなかった引っ込み思案の女性エイドリアンにプロポーズをする。二人はともに貧しく、将来の見通しはない。この映画に登場する人々は、みな貧しい。周辺化された人種の下層プロレタリアである。イタリア系、アフリカ系、アイルランド系、ユダヤ人。アングロサクソン系は一人もいない。それでも白人であるロッキーや義兄ポーリーやコーチのミッキーは、1950年代であれば豊かなアメリカ的生活にキャッチアップできたかもしれない。しかし1970年代の彼らに「黄金の50年代」は無縁だ。ロッキーは結婚をして家庭を持つことを夢見るが、それは簡単なことではない。

二作目『ロッキー2』では、エイドリアンが出産し、ロッキーは父親になる。しかし仕事はなく、収入は不安定で、先の見通しはない。ロッキーは自分の稼ぎで家族を養うという50年代モデルの家庭を夢見るが、それをまかなうだけの収入がない。家族三人で路頭に迷うかという状態のなかで、ロッキーはリングにのぼる。

『ロッキー2』で試合に勝利したロッキーは、世界チャンピオンとなり金持ちになる。だが、チャンピオンとして派手な生活をおくれたのはほんの数年だけ、すぐに若い挑戦者に追い落とされてしまう。30代半ばのロッキーがベルト奪回をかけて闘うのが、三作目『ロッキー3』(‘82)だ。ここでは、ボクシングスタイルの改造が試みられる。これまでハードパンチと耐久力だけで闘ってきたロッキーは、新しいトレーナーの下で、アフリカ系ボクサーのようなアウトボクシングを身につけるのである。「イタリアの種馬」で名をはせたロッキーが、アフリカ系ボクサーと融合する。「人種の違いをこえる」ことで、ロッキーはフィラデルフィア市の共同体を代表するボクサーになる。そして『ロッキー4』(‛85)では、ソ連邦からやってきたロシア人ボクサーとの対決によって、アメリカ合衆国を代表するボクサーとなる。

 

 『ロッキー』シリーズは、回を重ねるたびに、ある神話に収斂していく。

スポーツは、階級と人種を融和させ共同体を結束させる力がある、という神話だ。

ただしそれは、常識をはずれた異常な強度(労働強度)に身を投げ込むことを要求する。トレーニングがハードであるというだけでなく、人体を破壊されながら意識を保ちつづける耐久力が必要だ。ロッキーの忍耐強さは、イタリア的ではない。ロッキーはボクシングによって、プロテスタント以上にプロテスタント的な禁欲主義に改造されていくのである。

階級の克服、人種の融和、新しい共同性の構築は、激しい労働強化によって実現する。この映画は、たんにワークアウトやボディビルを流行させたというだけではない。この作品の基調となっているメッセージは、あらゆる夢を実現する第一の条件は、労働強化であるということだ。70年代の不況と新自由主義の精神を、よく表現していると思う。

 

 

2022年5月31日火曜日

映画『ロッキー』をちゃんと見る

 映画『ロッキー』を精読している。

 3年前に書いた『夢みる名古屋』の続編を書くために、いろいろと郷土史の文献をひろいつつ、サラリーマンとは何か、サラリーマンの生成について、きちんとした視点を持っておかなくては、近現代史を書くことはできないなと思った。

 そこでとりいそぎ、ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホのエッセイに導かれて、ジークフリート・クラカウアーの『サラリーマン』を読んでいる。

クラカウアー著『サラリーマン』は、第二次大戦中ナチスによって焚書されたが、大戦後に復刊され、日本語版も刊行されている。この本は、当時のドイツの社会状況だけでなく、第二次大戦後のホワイトカラーを考えるうえで優れた論点を提示している。サラリーマンとスポーツについて。サラリーマンとルッキズムについて。縁故採用と排除について。100年前に書かれた描写がまったく古びていない。まるで現代のホワイトカラー労働者を書いているようだ。


 1958年の王子製紙争議は、総評の三大争議の一つに数えられる大争議だった。総評三大争議とは、日鋼室蘭争議、王子製紙争議、三井三池争議である。私がいま調べているのは、春日井市の王子製紙争議である。

 王子製紙争議について特筆するべきは、これが、労使関係の質的転換をめぐる争議だったということだ。日鋼室蘭争議と三井三池争議は、大量の人員整理をめぐる解雇撤回闘争だったが、王子製紙争議の争点は人員整理ではなく、管理経営の徹底、そのための労働組合の無力化という攻撃だった。ここで経営側は、王子労組の分裂をはかり、第二組合「王子新労」を形成させる。いわゆる「御用組合」のモデルケースとなるものだ。このとき、「王子新労」形成に決定的な役割を果たしたのが、東京の職員たち(ホワイトカラー)だった。職員と工員が一つの組合に結集していた王子労組は、東京のホワイトカラー職員たちを一気に切り崩され、組合分裂という構図にもちこまれていったのだ。このときの切り崩し工作は、戦後日本の「労使協調」、組合無力化の起点となる出来事である。

ジークフリート・クラカウアーは、ホワイトカラー労働者の矛盾に満ちた境遇と生態が、ナチス党を成長させた原動力の一つと見ているのだが、第二次大戦後の日本のホワイトカラーは、その矛盾した生態を何に向けていったのか。御用組合の形成。そう、外形的にはそうだ。だがそれだけでは足りない。ホワイトカラーの内的世界について、もっといろんな肉付けが必要だ。サラリーマンが経験した具体的なイメージ、文化、夢について。

 見なければならないものはたくさんある。まずは映画『ロッキー』から『ロッキー2』、『ロッキー3』、『ロッキー4』へと、滑稽な夢に向かって転がり落ちていく作品の姿を精読しようと思う。



2022年5月28日土曜日

ジジェクのエッセイを読んだので、コメント

 

雑誌「世界」臨時増刊号に掲載されたジジェクのエッセイ「ウクライナと第三次世界大戦」を読んだ。

どうもすっきりしない。奥歯にものが挟まっているのか、状況がクリアーに見えていないのか。まあ、なんでもかんでもジジェク先生に聞けばいいというわけでもないのだが。

 

 このエッセイの欠点は、アメリカ政府の新しい外交・戦争戦略に触れていないことだ。アメリカ政府の新しい戦略は、自国の兵を動かさず、武器供与をするだけで、小国に戦争をやらせるという方法だ。アメリカがNATOを巻き込んでウクライナ政府にやらせている戦争は、こういうものだ。外交交渉に尽力するのでもなく、自らの手を汚すのでもなく、小国の右翼政権をそそのかして、見込みのない戦争をやらせる。まるで、映画『アウトレイジ』に登場する悪人たちのやり方だ。

 

 これは日本にいる私たちにとっても他人事ではない。

 沖縄県の南西諸島(与論島・石垣島・宮古島)に配備された対艦ミサイル基地は、中国海軍への攻撃を想定したものだが、この運用主体は米軍ではなく、自衛隊である。米軍は、日本列島から沖縄・八重山諸島までを、「第一列島線」として、対中国戦争の前線に想定している。この戦略の肝は、有事の際、米軍は兵を退くということだ。米軍はグアムまで兵を退き、戦闘を担うのはもっぱら自衛隊である。アメリカ政府は、自衛隊の後方から兵器と弾薬を供与するのみである。戦争の外部化、アウトソーシングだ。

 いまウクライナ戦争では、アメリカの対ロシア戦略の新しい方法が試みられている。この方法は、アメリカの対中国戦略に援用される可能性が高い。アメリカは中国と直接に事を構えることをしたくないが、日本の右翼政権のケツをかいてやれば、自ら喜んで対中戦争をやってくれるかもしれない。そうなれば、在日米軍は安全な後方に退き、高価な弾薬をたっぷりと売りつければいい。そして、アメリカと「価値観を共有する」国々に呼びかけて、この戦争を正当化するためのキャンペーンを繰り広げるのだ。「中国は危険な専制国家だ」「中国は強欲な覇権主義だ」と。自分は表に立たず、小国の政治家の鼻先に人参をぶらさげて、戦争を代行させる。卑劣なやり方だ。

 

 

 ジジェクはエッセイの結論で、ウクライナ戦争について、第三世界の人々に聞いてみたらどうか、と問うている。この間、ずっと沈黙している第三世界の諸国に、意見を聞いてみてはどうかと。この戦争報道で繰りかえされている「価値観を共有する西側世界」なるもの、その「価値観」なるものが、第三世界の人々に理解されるのか。それは第三世界の人々を説得できる内容をもっているのか。西欧世界はもういちど自問するべきだ、と。

 まあ、大知識人らしい、上品な結論だ。

 私はジジェクのように上品ではないので、はっきり言うが、アメリカ政府の卑劣な戦争戦略を成就させないために、ロシア軍に勝利してほしいと願っている。表立っては言っていない。ただ内心では、ウクライナは早く負けろと願っている。ウクライナ軍の勝利は、アメリカの戦争戦略に成功例を与えてしまうということになるのだから、これは世界中の国々にとって重大な脅威となる。ロシアの脅威よりも、アメリカの脅威の方が、はるかに大きい。ロシアの覇権主義を云々するよりも、アメリカの際限のない覇権主義の方が、我々には優先的な課題だ。

 

 

 

2022年4月3日日曜日

3月の集会

昨晩、知り合いの編集者とzoom呑みをやっていて、最近は何やってるのという話題になったので、私が最近参加した集会を紹介します。

 原発問題というと、世間では「環境問題」とか「エネルギー問題」という枠組みで語られることが多いのですが、私の問題設定では、原発問題とは権力の専制化と民主化闘争をめぐる課題です。
 以下、YOUTUBEの動画を引用します。







2022年4月1日金曜日

献本いただきました。ニック・ランド『絶滅への渇望』

 

『絶滅への渇望』 ―ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム

ニック・ランド 著 五井健太郎 訳


オビ文

 バタイユ読解を通じて、ニヒリズム/ペシミズムとしての〈哲学史〉を再構築し、資本主義や人間が廃絶した先の世界を立ち上げる究極の無神論。進歩主義、多文化主義、ヒューマニズム、平等主義など近代の民主主義的イデオロギーを根源から否定し、「加速主義」の始まりを高らかに宣言する、もっとも危険でダークな思想。


 翻訳者の五井くんから、大変な本が送られてきました。

 もうね、ビニール袋を開封するのもこわい。10代・20代の若者が好きそうな本ですね。いま序文をちょっと見ましたけど、テンションが、高くて、もう。体力がもたないです。かんべんして。喩えるなら、むかしむかし暴走族をやっていた50才の男が旧車會に入って懐かしのバイクを乗り回していたら、不意に遭遇した現役のアンチャンに煽りまくられて少しヒいちゃった感じ。ヒいてますよ、私は。バタイユだのニヒリズムだの、もちだす言葉が全部ギラギラしていて、どうするんだこれ。店ひろげすぎだろ。中二病だろ。

 とはいえ、内容はともかく、若者はこれぐらいデタラメにやってもいいのかもしれない。我が身を振り返ってみれば、私が20代の頃は、フェリックス・ガタリの『機械状無意識』とか、『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト誌』の全集とか、わけもわからず読んでたから。意味わからないのに読んでたから。内容ではなくテンションの高さだけで、真剣に読んでました。


 むしろ、若いころはこれぐらいでちょうどいいのかもしれない。

 大学生のうちからビジネスマン気取りで「ダイバーシティー」だとか「SDGs」だとか収まりのいい話を口を揃えて唱えているよりは、「バタイユだぜ、人類絶滅だぜー」って叫んで周りとぶつかっている方が、見込みがあるとは思います。


この本は、ちょっと暗すぎるけどね。

内容は支持しません。テンションはめちゃめちゃ高いです。



2022年3月28日月曜日

放射能汚染、スペクタクル、極右

 


 ウクライナのゼレンスキー大統領の演説は、芝居がかったものだった。

ウクライナの戦禍は国内外の人々が心を痛めるものだが、それに比して、ゼレンスキーの言葉は人の心を打つ名演説というものではなく、その剽窃、模造品を見せられた気分だ。

 極論を言えば、現在のゼレンスキー政権にとって真実味は必要ではなく、模造品で良いのだ。アメリカの軽薄な政治家を動かせる程度の、名演説風の模造品を提示できれば、それでよい。アメリカの政治家が発奮すれば、西欧と日本のメディアは右へならえで、名演説名演説と喝采することになる。本当は誰も感動してはいないのに、感動したふりをするのだ。

 戦争の渦中にありながら真実味のない演説をする姿には、驚く。同時に、この演説の異様さには既視感もある。私は11年前に、こういう嘘くさい演説をたくさん見た。放射能汚染の渦中にあって、必死の表情で、嘘くさい演説をする政治家や知識人がいた。

 

 ウクライナと日本は遠く離れているが、共通した特徴をもっている。原子力発電所からの放射能汚染によって、居住環境が著しく損なわれていることだ。汚染の範囲は広大で、それぞれの首都を呑み込んでいる。チェルノブイリ原発の放射能汚染はキエフに及んだし、東京電力福島第一原発の放射能汚染は東京圏3500万人に降り注いだ。

 原子力公害は被害の範囲が広大である。局地的で例外的な被害ということにならない。誰もが当事者として脅威に直面する。そして放射能汚染は、社会を大きく変質させるほどのダメージを与える。

必死になって嘘をつく者、嘘に便乗する者、嘘を見抜きながら容認する者。他の事象であれば鋭い批評性を発揮する者が、放射能汚染については口をつぐんだ。わかりきった話なのに、わからないふりをしてやりすごした。誰も責任を取りたくないから、頭を低くして論争を避けていた。

もっとも重要な問題であった土壌汚染被害は棚上げにされ、反原発と自然エネルギーの議論に精力を注いだ。喫緊の課題を後回しにして、焦点のズレた議論に時間を費やす。客観的には滑稽な話なのだが、汚染地域の当事者たちは必死だったのだ。必死になって、嘘の議論と嘘の演説をしていたのだ。

 

 マスメディアは、原発事故の直後から嘘に染まり、野田内閣が「福島復興」を号令してからは、凶暴性を増した。マスメディアは汚染被害に関する正当な議論を押しつぶしていった。汚染問題を口にすることは、福島復興政策の敵になったのだ。


 現在のウクライナ戦争では、ウクライナ軍とロシア軍の双方が、情報戦を展開している。現代戦において、嘘や印象操作は、ミサイルに匹敵する重要な武装になっている。だがこの情報戦は、ロシア軍が侵攻するずっと以前からあったのだろうと、私は推測する。2011年以降の日本では、原子力公害と公害隠しを動機として、政府の情報戦が展開された。ウクライナにも同様のことがあっただろうと推測できるのだ。ウクライナの社会は、戦争になる以前から嘘にまみれていた。そう考えると、ゼレンスキー演説の嘘くささ、芝居くささは、他人事ではない。日本政治の未来を予示するものかもしれない。野田政権と安倍政権が強行した嘘の政治は、何度も繰り返し、凶暴さを増していくことになるのだ。


 2012年に書いた『3・12の思想』のなかで、私は、放射能汚染によって極右が台頭する時代になるだろうと書いた。この予見は、残念ながら当たってしまった。

放射能汚染が極右を育てるという現象は、二つの機制から言うことができる。

一つは放射性物質のフィジカルな効果。放射性物質による人体汚染は、脳機能の低下をもたらす。複雑で冷静な思考が困難になり、短絡的で衝動的な思考に陥りやすくなる。汚染社会において、人々はだまされやすくなり、熱狂しやすくなり、権力に従順になる。

 もう一つは、汚染の社会的効果。放射能に汚染された社会は、被曝の受忍を強いられる。被曝の受忍を拒否して東日本から退避した人々も少なくないが、住民の多数はその地域にとどまり、被曝を受忍しながら生活する。被曝受忍とは、生存と健康に関わる自己保存の権利を、政府によってはく奪されている状態である。こうした条件の下では、人間は自己愛を毀損されてしまう。自己愛を毀損された者は、他人を尊重することが困難になる。いわゆる「自己愛性人格障害」の例に見られるように、自分を愛せない人間は他人を愛することができない。自己愛を毀損された人間集団では、人権や相互扶助といった理念は育ちにくく、他罰的で教条主義的な思想に傾きやすい。

 

 この極右たちが厄介であるのは、自分が熱狂のなかで極右的主張をしているという自覚がないことだ。例えば、現在のウクライナ戦争に関して言えば、日本のマスメディアはアメリカ政府の動きにまったく無批判である。バイデン大統領は、中立国である中国に圧力を加え、ロシアへの経済制裁を要求している。これは、ウクライナ戦争を世界大戦に拡大させてしまうかもしれない非常に危険な動きなのだが、反ロシアに熱狂する日本のメディアは、バイデンの危険性にまるで無頓着である。ロシアを力で圧倒しようとするバイデンのやり方は、冷静さを欠いた極右的な動きである。これに日本のメディアが便乗して、中国政府を「ロシア擁護」だとレッテル張りをして論難するさまは、どう考えても異常である。中立という立場がなぜ論難されるのか。日本のメディア人たちは、世界を二分する大戦争を待望しているのだろうか。

 

 

 話にまとまりがなくなってきたが、私は、政治に安い芝居を持ち込むやり方は嫌いだ。

ゼレンスキーの演説を見て、うんざりした。またかよ、と。またこれか、と。

 本当に深刻な状況のなかで、安い芝居をする政治家は、もう何人も見てきた。

お前だけ死ねばいいのに、と思う。

 

 

 

 

 

 

2022年3月17日木曜日

ウクライナ国旗を掲げる流行について

ロシアとウクライナの戦争について、世界中で反戦デモが起きている。
私はまだ一度も参加していないが、あさって、名古屋の集会でこの反戦運動の議論になると予想されるので、頭を整理しておく。

 まず、現在行われているデモの特徴は、国旗を掲げる反戦運動になっていることだ。青と黄色のウクライナ国旗を掲げることが流行っている。反戦と国旗という異例の取り合わせで、ちょっと頭がバグる。

 私は、2001年のアフガン戦争、2003年のイラク戦争に際して、反戦運動に加わった。イラク反戦運動は世界中に拡大して、東京でも連日1万人規模の反戦デモが行われていた。私たちはアメリカ軍によるイラク侵攻に反対していたのだが、このとき、イラクの国旗を掲げる者は一人もいなかった。アフガニスタンの国旗を掲げる者も皆無だった。反戦運動というものは、特定の国の国旗を掲げないことが当たり前、暗黙の了解だったからだ。
 しかし、現在のウクライナ反戦運動は、ウクライナ国旗を掲げている。あまりに無原則で不用意な印象を受ける。これはやめるべきだ。

 そもそも反戦運動の始まりは、第一次大戦中のドイツ・ロシア両国の大衆運動に遡る。ドイツのローザルクセンブルグと、ロシアのレーニンが、反戦運動を提起し、行動し、大規模な大衆運動へと拡大したのである。このとき、ローザとレーニンが提起したもっとも重要な論点は、戦争をするどちらの政府にも正義はない、ということである。どちらの陣営に戦争の正当性があるかないかという議論は、馬鹿げている。どちらの政府も不正義である。戦争当事国はすべて悪である、と言ったのだ。では、正義はどこにあるか。正義は、民衆が殺しあうことも飢えることもなく平穏に暮らす権利である。国家間の敵対性などというものは議論する価値のないどうでもよいことであって、真の敵対性は国家と民衆の間にある、と言ったのだ。反戦運動がもつ説得力の核心は、この点にある。

 こうした運動の歴史を参照するならば、反戦運動に、特定の国の国旗を、肯定的な意味を付与して持ち込むことは、だめだ。まったく原則を外れている。
もしも国旗を持ち込みたいというのならば、ロシア国旗とウクライナ国旗を並べて、両方に×を描くことだ。ついでに、ウクライナに武器を供与したドイツ国旗とアメリカ星条旗にも×だ。国家のパワーゲームのせいで、200万人を超える難民が生まれているのだから、すべての国旗に×を描き、燃やすことだ。




 

2022年2月28日月曜日

サイバー攻撃に大興奮

  トヨタ自動車は、何者かによるサイバー攻撃によって、国内の全工場の停止を余儀なくされた。攻撃の主が何者なのかはまだわからないが、これがもしもロシア軍によるものだとしたら、非常におもしろい。ひさびさに興奮している。買い込んで積み上げたままの軍事書を、いまあわてて引っ張り出して読んでいる。

 制海権、制空権、情報操作による政治工作、さらにその上位にあらわれた、サイバー戦争。情報システムそのものの制圧。

これは、無血革命に似た攻撃だ。明日、トヨタの工場が全部止まるのである。誰も血を流さないまま、生産活動を停止させ、人々に休息を与えるのだ。この攻撃の対象となった人々は、泣き叫び走り回るのではなく、立ち止まり黙考するのだ。

これが現代の戦争か。

興奮が止まらない。


2022年1月30日日曜日

萱野稔人ふざけるな、殴るぞ

  菅直人議員が橋下徹のふるまいについて「ヒトラーを思い起こす」と論評した件について、民放テレビ局がひどい誤報を垂れ流している。

これに関連して、政治学者の萱野稔人は、菅議員の発言を「ヘイトスピーチ」だと発言した。

とんでもない不見識、「ヘイトスピーチ」という概念の歪曲である。差別と闘ってきた者であれば絶対に間違えることのない、100%の間違い、完全なデマである。

テレビに出たいのかどうか知らんが、テキトウなことをペラペラ喋るな。

殴るぞ。

2022年1月26日水曜日

今年の抱負

 

 

議会選挙による政権交代という運動方針は、もうそろそろ切り上げるべきだと思う。

理由は二つ。

第一に、連合執行部には政権交代をする意思はない。

第二に、立憲・社民・共産党には、何のための政権交代か、誰による政権交代かという議論が不足している。だましだましの「野合」という感はぬぐえない。

立憲民主党の政治家が情勢に対して受動的に右往左往するのは、まあ、いいとして、問題は、共産党と共産主義諸派が情勢分析の主導性を発揮していないことだ。

 

私たちが主導的に議論し説明していかなければならないのは、2010年代の総括である。

なぜ民主党が下野し、分解し、かわって自民党が専制的長期政権を実現することになったのか。なぜ、原子力事故という大失態を犯した経産省が、その後政権の中心に居座り権勢を振るうことになったのか。この疑問にきちんと説明を与えることが必要だ。その機制を明らかにしてはじめて、変革(または革命)の主体と客体が定まる。

私はいつでも議論に加わるつもりでいる。原子力問題は、専制政治の問題と直接につながっている問題だから、避けては通れない。

 

 

 

 

2022年1月14日金曜日

 都市伝説とグルーミング

 


 

 2021年の東京オリンピックの公式映画を委託された映画監督が、前代未聞の醜態をさらしている。この問題は、NHKの放送法違反問題にまで及ぶだろう。受信料で運営されるNHKが、荒唐無稽なデマ・都市伝説を堂々と流したのだ。見ているこちらが恥ずかしい。

監督の怯えた目が印象的だ。


 

 河瀬監督らの怯えた目は、日本の現在を象徴するものだと思う。彼らは怯えていて、なんでもいいから心を落ち着かせるグルーミングを求めていて、真偽の疑わしい与太話や都市伝説にすがるのだ。

この現象の直近の起点となっているのは、2011年、原子力公害事件後のパニックである。前例のない大規模汚染という事態に際して、日本政府は汚染問題の過小評価に力を注いだ。原子力基本法は棚上げにされ、被曝線量基準は大幅に引き上げられた。原発安全論に立っていた経産省は、爆発後は放射能安全論を唱えだした。

民間の学者や市民も、多くが放射能安全論に追従して、荒唐無稽な説を信じるようになった。ある者は「にこにこと笑って免疫力を挙げれば人体汚染は相殺できる」と言い、ある者は「放射能を浴びればかえって健康になる」と言い、ある者は「水の入ったペットボトルを並べれば放射線を遮蔽できる」と言い、まったく愚にもつかない与太話が蔓延したのだ。

なぜか。彼らは政府・経産省の判断と号令を信頼していたのだろうか。そうではない。彼らは怖かったのだ。自分が信じてきた常識が壊れてしまったこと。問題を自分の目で見て、考えて、判断すること。権威や権力を離れて、一人の自立した主体として立つことが、恐ろしかったのだ。主体として立つぐらいなら、弱い者同士で与太話を語ってグルーミングしあう方がいいのだ。

 

 

私は河瀬監督の怯えた目を見て、おもわず噴き出した。

あの目は、2012年、放射能汚染がれきの前で空間線量計を振り回して演説していた細野豪志環境大臣(当時)の、あの時の目と一緒だ。完全に判断力を失っている。どれだけ正当な批判を受けても、彼自身にはもうどうしようもないのだ。