2021年8月25日水曜日

コロナ禍におけるデマゴーグについて

 


 

 

 ドイツの哲学者ニーチェは、著書『善悪の彼岸』で、人間の道徳観の歴史的変遷について、ある仮説を提示している。ニーチェ曰く、現代の道徳観は、転倒させられたものだという。

かつて、善と悪という道徳観念が生まれる以前、「良い」と「悪い」は、力の強度の問題であった。「良い」とはすなわち強いであり、「悪い」とはすなわち弱いという意味であった。「私は眼が悪い」と言うのは、視力が弱いという意味であって、それ以上でも以下でもない。「彼は頭が良い」というのは、たんに考える能力が高いということであって、彼が善人であるという意味ではない。「足が悪い」「腰が悪い」とは、足や腰の力が衰えているということであって、道徳的な意味をもった悪ではない。ニーチェによれば、古代の人々は、力が充実した状態を「良い」と言い、力が衰弱した状態を「悪い」と言ったのだ。

この「良い」と「悪い」の構図をさかさまに転倒させたのが、キリスト教文化である。キリスト教は、強者が支配し弱者が従属するという社会環境のなかで、力のある強者を「悪」とする道徳観を形成した。キリスト教文化の人々は、支配を悪とするのではなく、力をもつ強者を「悪」とみなしたのだ。「良い」と「悪い」は純粋に力の強度の問題であったが、キリスト教文化はこれをさかさまにしたうえで、道徳的な価値を含んだ善悪の概念を作り出してしまった。この強者を「悪」とする道徳観は、キリスト教文化から共産主義思想へと継承された。

以上がニーチェの仮説である。

 

 ニーチェの仮説の優れているところは、思想のダイナミズムというものを、考古学的な視点をもって捉えようとしているところだ。キリスト教思想や共産主義思想を、その理念の字義どおりに捉えるのではなく、それが人々に受容される過程で何が生み出されたかを見ているのだ。

言うまでもなく、キリスト教と共産主義はいずれも、人間が人間を支配することのない理想社会を目指す思想である。だが、思想が普及し受容される過程には、本来の理念とは違った別の力学が働いてしまう。キリスト教の新しい信者たちは、支配を悪とするのではなく、力を「悪」とみなしてしまう。その方がわかりやすいということだったのかもしれない。共産主義思想にも同様の力学が働く。帝国主義の資本蓄積構造が云々と言うよりも、金持ちが許せねえんだと言った方が、わかりやすい。このような理念が理念通りにはいかない問題は、アナキズムについても日々感じるところだ。あらゆる権威に抗い闘うと決意するのだが、言うは易し行うは難しである。そもそも自分がどんな権威に従属しているのかを自己切開することから始めなければいけないのだから、なかなか一朝一夕にはいかない難業だ。

話がそれたので戻す。

ニーチェは、力への反感(ルサンチマン)の起源をキリスト教文化に見出し、その継承された姿を共産主義運動に見いだしていたのだが、キリスト教徒でも共産主義者でもない人々がこれと無縁であるかというと、そうではない。力に対する怖れは人類に普遍的なものであり、力への反感を基礎とした道徳感情は、現代社会の一般的な傾向・一般的な力学として存在する。

この道徳観が現代においても健在であることは、さまざまな差別という事実に見出すことができる。

たとえば外国人労働者にたいする差別感情の基礎にあるのは、恐怖心であり、力への反感である。外国人労働者は、力がある。彼女は生まれた土地を離れて、異国の言語を操り、現代的な技術を操る。私のうちの近所のコンビニエンスストアでは、無駄に複雑なクーポン割引について日本人客がもうろうと質問し、ベトナム人店員が手際よく簡潔に説明をしている。この若いベトナム人女性の店員は、才気に溢れている。彼女は二つの言語を話し、二つの国の文化を知り、現代的な文化に親しんでいる。日本から出たことのない我々と比較すれば、力の差は歴然としている。この力量の差を感じたとき、あるいは、その力量差を否認するとき、外国人差別という感情にいたるのだ。レイシストたちが、自らの被害感情を口にしたり漠然とした恐怖心を語るのは、偶然ではない。レイシストは力を怖れ、力への反感を共有し、みなで対抗策を探そうとしているのだ。彼らの想像する社会秩序を防衛するために、力を抑止しなければならないのだ。

 

 

さてそろそろ本題にはいる。

『善悪の彼岸』について長々とした紹介をしてきたのは、現代日本のデマゴーグについて考えようと思ったからだ。10年前の原発公害事件においても、現在のコロナ禍においても、次から次へとデマゴーグが湧いてくるのは、なぜなのか。あれは政府に雇われた業者だとか新しいポストを求めるルンペンだとかいうことはここでは措いて、彼らデマゴーグの自発性について考えたいと思ったのだ。

デマゴーグは、なぜ、率先して政府の失策を擁護するのか。いきいきと。水を得た魚のように。たんに政府や自民党から業務を請け負ったというだけならば、もっと口を濁しながら、いやいやながら語るはずだ。あんなにいきいきと政府擁護論を展開するのは、たんなる雇われではない。自発的な動機に動かされているからに違いない。いまでは自民党の支持者でさえ菅政権の無能さに呆れているというのに、橋下徹などはいきいきと政府の失策を擁護するのだ。政府が充分に力を発揮していないということを、まるで歓迎しているかのようなのだ。

ニーチェは、力への反感という道徳感情を、当時の共産主義運動のなかに見出したのだが、現代の日本においてはどうだろうか。日本では、力への反感というどす黒い道徳感情は、反共主義・新自由主義のデマゴーグのなかに見出されるのではないだろうか。厚労省の愚かさを擁護し、優れた提言を攻撃し、他国の成功例を見るよりも、他国の失敗例を引き合いに出して、無力な状態に留まろうとしている。彼らはコロナウイルスの災禍を怖れるよりも、現実的に有効な対策が実現することを怖れているかのようだ。

科学に基づく現実的な対策は、人間の愚かさを容赦なくあぶりだしていく。ウイルスは人間の道徳感情を斟酌してはくれない。無効なものは無効だと突きつけてくる。人間はいま正味の力量を試されている。愚かさを退け、愚かさを擁護するデマゴーグを退け、「バカは黙ってろ」ときちんと言う社会を実現しなくてはならない。

 

2021年8月18日水曜日

未来のゲート都市

 


 

 新型コロナウイルスはデルタ株・ラムダ株の登場によって、長期化する見込みとなっている。私は感染が始まった当初、三年ほどで収束すると想定していたが、そういうわけにもいかないらしい。新型株が流行するたびに、それに対応するワクチンを接種するという作業を、何年も続けなければならないらしい。短期の収束が難しいとなると、当初はばかばかしいと思っていた「ウィズコロナ」という方針が、現実味を帯びてくる。

 

 私は拙著『夢みる名古屋』の第三章、ジェントリフィケーションの始まりについて、「都市開発の力点は工学的なものから光学的なものに移行」すると書いた。1989年の世界デザイン博覧会以降のビル開発は、実際そうした傾向が持続していると考えている。90年代の再開発に伴う喫煙規制も、基本的には美観の管理という意図で進められてきたものと言える。他方で、都市の放射能汚染がまったく問題視されないでいるのも、その汚染が目に映らず、美観に影響を与えないためであろう。

 

 ところで、今次のパンデミックという事態は、目に映らないものとの闘いになる。都市開発の力点は、光学的・美学的なものから、別の課題へと移行することになるだろう。

建物は、美観よりも換気能力が重視され、容積よりも入退室のコントロール機能が重視される。人間の移動をコントロールし、呼気の滞留/排出をコントロールする装置として、建物は設計されなければならない。人間が集まるという行為は、これまでのような素朴なものではなくなる。センサーによって制御されるポンプと弁と入退室ゲートが、会議や会食の必要条件になる。

かつてフェリックス・ガタリは、ある都市のイメージを語っている。その都市は、都市の隅々に設置されたゲートを制御することで、人間の動きを集中的に管理する都市だ。都市の隅々が警察装置と化すことで人間が管理される、ディストピアのイメージだ。

このゲート都市のイメージは、すでにオフィスビルや大学施設、オートロックマンションなどに実現しているのだが、今後はこのゲート管理の方法が、「公衆衛生」の要請を背景に全域化する可能性がある。オフィスや病院に限らず、盛り場や遊技場でも入場制限が当然のようにおこなわれる風景が、あらわれるかもしれない。


 追記

 管理社会の到来について想像するとき、私たちはつい中国のような強く発達した国家権力を想定してしまいがちなのだが、ここでは中国は関係ない。中国のような強力な感染対策が実行されたなら、先に書いたような都市の再編は起きない。このディストピアは、日本のような棄民政策の下で、資本蓄積の主役となった不動産業者・観光業者によって実行される。日本政府は何もせず、民間に課題を丸投げしていればよいのだ。

不動産業・観光業が延命のために死にもの狂いで試みる都市改造が、街を一層息苦しいものにしてしまうだろう。

もう東京は死んだも同然だ。明るく輝いていた都市の時代は、完全に終わる。

 

 

 

2021年8月9日月曜日

保健所は無いものとして考えよう

  新型コロナウイルスは、デルタ株の登場によって、高い感染力をもって蔓延している。

市中に出かけている人々は、いつ感染しても不思議ではない状況だ。

 私は昨年11月の大流行の時期に、母がコロナ陽性者となり、自分自身も要検査対象者となり、2週間の緊張状態を経験した。まだ感染の経験のない方々に、経験者からのアドバイスをしたいと思うのだが、保健所というものは相手にするだけ無駄である。保健所とのやりとりは時間の無駄なので、直接病院に行くように。病院の受付の人は慌てたり迷惑がったりするだろうが、放り出されることはない。保健所に電話をしてもつながらないと言えば、状況を理解してくれる。検査もしてくれる。

 昨年の段階からすでに、保健所は機能不全に陥っている。保健所が存在するというのは、幻想である。客観的に見て、日本に保健所は存在しない。患者と病院だけがある。体調が悪いと思ったら、躊躇せず病院に行こう。存在しない制度にこだわっていたのでは、命を守ることはできない。

追記

もう少し慎重に言いなおそうと思う。

 私たちはいつのまにか保健所という制度を自明視してしまっているが、そこに少し留保をつけておくべきだろう。現在の保健所の機能不全状態を、新自由主義政策の結果だとみなすことは、政治的には正しいかもしれない。しかしそのうえで、本当にそうなのかと、この制度を根底から吟味する視点をもっておくことも忘れてはならない。現在の機能しない保健所は、私たちは異常な事態だと思っているが、本当はこれが保健所本来の姿なのかもしれない。これは近代史研究の成果を待たなくては白とも黒とも言えないのだが、私たちは保健所の歴史や実態を知らないままに、ただ自分たちの望む願望を口にしているだけなのかもしれない。それは、思想的に危うい。ここは冷静に見るべきだ。