2021年5月5日水曜日

栗原学くんに哀悼の意を表します

  東京の労働運動の活動家である栗原学くんが、ガンで亡くなったとの報をうけた。

 たしか私と同年であったから、49才か、50才だ。

 彼と出会ったのは90年代の末。石原慎太郎都知事(当時)が、都内の災害訓練に自衛隊出動を要請したころだった。”ビッグレスキュー”と称する自衛隊訓練の強行に、反戦運動の諸潮流が結集して抗議行動を行った。そのとき第4インターナショナル系の青年部隊を率いていたのが、栗原学だった。

 その後、新自由主義グローバリゼーションにたいする反対運動を、青年共闘というかたちで形成する流れとなり、第四インター、共産同戦旗西田派、共産同首都圏委員会、法政・明治・中央・一橋・早稲田のノンセクト学生とアナキストが、ACA(Anti Captalist Action)に結集した。2001年、私も栗原くんも30才で、血気盛んだった。ACAが結成した直後、米国はアフガン戦争に突入し、小泉政権は参戦のための有事法制を強行し、反戦運動が活発化した。20代の学生を主体としたACAは、ジグザグデモや座り込みなど派手に立ち回って、警察に目を付けられる集団になっていった。栗原くんはデモ隊の統制が効かないことに業を煮やして、ACAから部隊を引き上げ、ATTACに合流していった。その後、ACAはアナキスト学生が主導する「札付き」の集団になっていく。

 栗原くんはATTACへ行き、私はACAに残り、それぞれ別の道を進むことになったのだが、二人が敵対的な関係になることはなかった。戦術的な方針では大いに異なっていたのだが、気持ちの上ではいつも、同い年の同志だとおもってきた。

 ソ連邦崩壊後の90年代、「左翼はもう終わった」と誰もが口にした時代に、栗原も私も、左翼の再建に精力を傾けた。あの暗い谷底から這い上がって、新自由主義批判を公然と行うまでに状況を回復させたのは、栗原学のような若者があきらめずに粘り強く闘ってきたからだ。

 栗原学に哀悼の意をささげる。

 もっと年をとってヨボヨボの爺さんになったころに、昔話をしながら飲みたかった。