2018年8月18日午前。
朝7時10分に名古屋駅を出発した高速バスは、10時30分に富山駅に到着した。「米騒動」の連続学習会は午後1時から。まだ2時間ほど余裕がある。スマートフォンに装備されている音声検索に「ここから滑川まで何分でいける?」と尋ねると、電車で13分という回答。では学習会が始まる前に、滑川の港を歩いてみよう。
富山駅から「あいの風とやま鉄道線」に乗って、新潟県に向けて日本海に沿ってすすむ。電車は富山駅を出発し、常願寺川を渡ると、水橋、滑川(なめりかわ)、魚津(うおづ)と停車駅が続く。この三つの町が、いまからちょうど100年前の米騒動、「富山の女一揆」の発火点である。
電車が富山市の市街地をぬけると、進行方向右側には水田地帯が広がっている。新川(にいかわ)平野である。水田のなかに工場や住宅が点在し、ところどころに背の高い防風林のかたまりが見える。これは、教科書にでてくる「散居村」の痕跡だろう。村人が一カ所に集まって住戸を建てるのが「集村」、一戸一戸の家がばらばらに独立して建てられているのが「散居村」。富山県の散居村は、各戸の周りを囲むように背の高い樹木を植えていて、これを屋敷林という。水田の広がる平野部に、ぽつりぽつりと屋敷林が点在して見えるのが、富山の散居村の風景である。その歴史は古く、中世に遡ると言われている。新川平野にも、この散居村の痕跡が残っている。その特徴的な構えは、自作農民の独立性を印象付けるものだ。
電車の進行方向左手には、どこにでも見られるような一般的な風景が広がる。鉄道と海に挟まれた地帯は、住宅、商店、工場、倉庫などが立ち並ぶ見慣れた風景である。米騒動の発端となったのは、この海岸端の町で荷役作業に携わっていた女性たちだ。彼女たちの仕事は「陸仲仕」(おかなかし)と呼ばれていた。
まだコンテナもクレーンもなかった時代、港湾荷役はすべて人力に頼っていた。船に荷物を積み込む仕事を総称して「沖仲仕」(おきなかし)と言うが、沖仲仕の作業はさらに二つにわけられる。「沖仲仕」と「陸仲仕」である。大型の貨物船は海岸に直接に着けることはできないので、少し離れた沖に停泊している。海岸と船の間の水深の浅い部分は、艀(はしけ)というボートをつかって荷物を運ぶ。海岸にある荷物はいったん艀に積み込まれ、そこから沖に停泊する船に運ばれ、艀から船に積み替えられる。この沖で荷物を積み替える仕事が「沖仲仕」で、男性が雇われる。海岸で艀に積み込む仕事は「陸仲仕」で、女性が雇われていた。足元の悪い砂利の浜で、60kgを超える米俵を背負って運んだという。彼女たちはもちろん日雇いである。海岸端の粗末な長屋に集住しながら、陸仲仕で日銭を稼いで暮らしていた。
新川平野でつくられた米は荷車にのって、水橋、滑川、魚津の海岸に集められ、そこで陸仲仕と沖仲仕によって船に積み込まれる。東の山から下りてきた水が何本もの川になって日本海に注ぐように、新川平野で作られた米は海岸に集積され日本海に出されていく。そして米を満載した貨物船は、神戸、大阪へと向かうのである。
私がこの滑川を歩いて感じたのは、東端にある山脈と西端にある海が、意外に近く、地域の輪郭がとても見えやすいということだった。
山と海に挟まれた空間は、二つの層をつくっている。水田がひろがる散居村の地帯と、海岸沿いの集住地帯と。このふたつが、空間の構成の違いとしてはっきりと視覚化されている。土地を所有し屋敷林をもつ自作農たちの空間と、海岸端の港湾人足の空間とが、明確な対照をつくり、それが「層」として感覚的に捉えられるような風景がある。こうした風景の中で、米騒動は始まったのだ。
空間的に示された二つの層がある。この境界とは、何の境界であったか。何の境界と考えるべきだろうか。自作農と下層プロレタリアとの境界? あるいは、近世的秩序と近代資本主義(無秩序)との境界? あるいは、境界というよりもその二つの複合?
うーん。
もうちょっと考えよう。
つづく。