2024年9月4日水曜日

排外主義についてのノート

 


 

 最近はYOUTUBEの配信に注力していて、ブログをまったく更新していなかった。

ということを知り合いに教えられたので、ちょっとだけノートを書きます。

 

 

 少し前の話題だが、ある女性アナウンサーがSNS上で「おじさんの臭いががまんできない」旨の発言をし、“炎上”。このアナウンサーが事務所との契約を解除されるという出来事があった。うん。

 また別の場面では、トランスジェンダーの権利をめぐって、公衆浴場や公衆便所での入場規則が議論になっている。これもけっこう大きな論争である。うん。

 また別の場面では、在日外国人に対する悪質なデマゴギ―が流布され、右翼による執拗な排除運動が繰り返されている。

 

 各論における私の見解は別の機会にするとして、いまここで考えたいのは、現代の社会を特徴づける排除イデオロギー・排除型社会の動機についてだ。

 

 排除型社会の構成について、経済学の角度からは二つのことが言えると考えている。

1,  産業資本の後景化

2, 非物質的労働の増大

 

1,  産業資本の後景化

かつて資本増殖の中心は産業資本であった。石炭採掘、鉄鋼生産からはじまり、機械・輸送機械・電機といった工業生産が、資本蓄積の中心を占めていた。しかし産業資本の時代は長くは続かなかった。日本では1970年代から変化が始まり、不動産・情報・観光・文化産業が成長していく。なかでも大きく成長したのが不動産部門である。

不動産は金融商品となって、使用価値よりも交換価値が重視されるようになる。生活領域に人種的・観光的価値が入り混じり、都市のジェントリフィケーションが進行する。清潔で、安全で、人種主義的に「美的なもの」が、不動産収益の条件に求められるようになる。

産業資本が大衆を動員し包摂する性格をもっていたのに対し、不動産(金融)事業は選別・排除の性格を持つ。ここで収益性の要になるのは、動員ではなく排除である。

 

2, 非物質的労働の増大

物質的労働(工業労働)は、分業と分業によって実現した作業の標準化・計量化を基調としていた。これはテイラー主義と呼ばれている。労働は時間によって計測され、賃金は労働時間と対応するように制度化されていた。

 しかし現在増大している非物質的労働は、作業が不定形で、作業量を時間で計量することができない。さまざまな質の労働が入り混じりながら、必要な手間が際限なく増大し続け、それを割り与えられたわずかな人員でこなさなくてはならない。作業手順は標準化できないし、時間で計測することもできない。労働の強度(労働者の疲労)が考慮されることがない。

 こうした労働の態様は、農家や家事労働と似通ったものになる。作業量に対して人員は常に不足していて、予期せぬ問題があらわれては消え、作業は際限なく増殖し、労働者間の作業の押し付け合いが常態化する。これはテイラー主義で秩序づけれていた賃労働とはまったく違う。家事労働に近い環境だ。

 労働者間の作業の押し付け合いとは、言い換えれば、職場の小さな政治が常態化し激化していくということだ。これは、核家族化に至る以前の農家で嫁と姑と小姑が繰り広げていた衝突が、現代的なオフィスで再現されるということである。

現代のオフィスで働く労働者は、他責的で排他的な思考に親しんでいる。「おじさんの体臭がくさい」という発言が、大人が言っていいことなのか、言ってはいけないことなのか、賛否が拮抗するくらいわからなくなっているのは、それだけ労働者が排他的な思考に親しんでいるということだ。

 

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YOUTUBEの配信はこちら↓

楽人プレゼンツ 「矢部史郎に飲ませる会」

木曜日21時から毎週配信しています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

2024年3月30日土曜日

カンパを募集します

  今年2024年は、なんだか忙しくなってきました。

昨年末、名古屋高裁の判決が出て、少し自由な時間ができるかと思っていたら、京都で行われる国際集会や、東京での公害調停の申し立て、最高裁を包囲するヒューマンチェーン共同行動など、他地域・他団体との共同行動に首を突っ込むことになっています。

愛知・岐阜・三重だけでなく、京都や福井などに足を延ばしていくと、交通費の捻出に頭を悩ませる日々です。4月には東京に行かないといけないし、京都にも何度か行かないといけないだろうし、余裕があれば広島にも足を延ばしたいです。

 そういうわけで、活動費のカンパを募ります。

 このブログの自己紹介欄に「ドネイション」という項目があるので、そこに振り込んでください。支出の報告はしませんが、絶対に、おもしろくします。

よろしくお願いします。


2024年2月16日金曜日

自由の敵の自由をゆるすな

 


 

 原子力問題以外について言及することは避けたいのだが、一言だけ、メモ程度に、世界情勢について。

 

 イスラエルシオニスト軍がパレスチナ民衆にたいして行っている虐殺を見せられて考えるのは、現代は極右の時代であるということだ。アメリカ・ヨーロッパ・日本で、極右勢力の暴力が席巻している。

しかし現在の国際連合は、極右と極右国家をどのように扱うべきか、足並みを揃えてはいない。

ドイツ政府は国内のネオナチに強い統制をかけてはいるが、同様の思想をもったシオニストにたいしては寛容である。

ロシア政府はウクライナの非ナチ化を目指して戦争を行っているが、シオニストに対しては腕をこまねいている。

アメリカ政府は表面的にはリベラルを粉飾しつつ、実際には極右勢力を支援している。いや、現代の極右の元締めというべきは、アメリカ政府である。

 

ここであらためて検討するべきは、ロシア政府が提起した「非ナチ化戦争」である。「西側」諸国では、これを戦争を正当化するためのたんなる方便と受け流してしまっているきらいがあるが、本当にそれでいいのか。私の眼には、アメリカ政府が言う「対テロ戦争」よりも、ロシア政府が言う「非ナチ化戦争」の方が、よく時代を捉えているし、検討に値するものに見える。

 

 

 

 

2024年1月18日木曜日

ライブ配信の予定

昨年末から試験的にライブ配信をやっています。

毎週木曜21時からという予定でしたが、

今週は機材が確保できないので、ちょっと変更です。


1月20日(土) 21時スタート

 https://youtube.com/live/xo0_zetw9nE


視聴者のコメントを中心に喋っていくので、

ぜひご参加・コメントをください。


おまけ れじゅめのようなもの




2023年12月27日水曜日

新しい運動と年末の放送

放射能汚染問題で、新たな動きが始まりました。

紹介します。




 

ごちゃごちゃ解説するより、観てもらった方が早いです。

東京を舞台にした反公害闘争が始まります。


そして年末最後のオンライン配信です。

これ↓

 

矢部史郎に飲ませる会


2023年12月6日水曜日

判決に不服なので、これからユーチューバーに挑戦します。



 11月22日、名古屋高裁の判決がでた。

 判決内容は最悪のものだったが、原告たちは次の最高裁に向けて運動を拡大させようと、作戦を練り始めている。



 私は、最高裁にむけた全国運動を支援するかたわら、ユーチューブをやってみようと思う。

 ライブ配信で、コメントを読むというスタイルで、放送をやってみる。

 私も敵が多いので、うまくいくかどうかわからないが、よろしくお願いします。

 第一回放送は12月14日、夜9時から、ライブ配信です。



https://www.youtube.com/live/kaPRApGV65s?si=Smd9SIFuiPkzGVcK

2023年11月2日木曜日

『万物の黎明』を読んで、知恵熱

 

 デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明』(酒井隆史訳・光文社)を読んでいる。興奮の内容がこれでもかこれでもかとつづくので、脳髄がグルグルで知恵熱を出した。解熱剤を飲んで休みながら、ゆっくり取り組んでいる。

 今月末11月25日に、訳者の酒井さんを名古屋に招聘してインタビューをするということなので、あんまりゆっくりもいていられないのだが、なんとか間に合わせようと思う。

 


 まず冒頭から、すごい。「なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と題された第一章は、ルソー批判(ルソー/ホッブズ批判)から始まる。18世紀西ヨーロッパの啓蒙主義思想は、人間の自由を考えるときに、なぜそれを不平等の問題に置き換えてしまったのか。自由の抑圧の問題と平等の欠落の問題とを短絡させた啓蒙主義の思想の背景をみることで、歴史をめぐる想像力の限界、誤解と偏見にまみれたヨーロッパ人の文明観をあぶり出していく。

 問題は、「国家のない太古の昔、万人の万人に対する戦争状態があった」と唱えるホッブズだけではない。ホッブズに対置して、「国家のない太古の昔、人々が助け合う原始共産制があった」と唱えるルソーの思想にも、メスを入れていく。この野心的な議論は、人類学や考古学に携わる人々のマニアックな論争ではない。ここで著者が想定しているのは、現代のラディカリズムが、グローバルなリベラリズム(ネオリベラリズム)に呑み込まれることなく、それと対抗し克服していくための思想的基盤を構築しようということなのである。

圧巻である。冒頭からすごすぎる。

 


 グレーバー/ウェングロウの問題意識を私なりに咀嚼するなら、こうだ。

  放射能汚染された地域からの退避・移住について、日本政府はいっさい支援していない。汚染地域からの住民の退避は、もっぱら私権の行使・自力救済という方法で実践されていく。東北・関東から住民が退避するという傾向は、これから本格化するだろう。福島県だけを例にとってみても、事故当時200万人であった県人口が、この12年間で約24万人減少している。このうち社会的人口減がどの程度寄与したかは一概に言えないが、すべての市町村が社会的人口減の渦中にある。汚染地域からの人口流出は今後も不可逆的に進行する。

 自主避難という行動には、受動的性格と能動的性格が重なっている。「自主避難者」は、好き好んで住処を離れたのではない。どうにもならない土壌汚染によって避難移住を強いられたのである。この意味で「自主避難」という表記にはカギカッコをつけなくてはならない。

だが、自主避難者が、環境の変化に応じて純粋に受動的に行動をしたのかというと、それも違う。私たち自主避難者が、脅威をさけるために逃げ惑う動物のような存在だと考えるなら、それは全面的に間違いである。自主避難者は、過酷な状況におかれた対象・客体であると同時に、状況を克服する主体でもある。  

 問題の焦点となるべきは、自主避難者ではなく、主体の形成である。考えられるべきは、現在汚染地域に暮らしている人々が、どのようにして自主避難者という主体に変化していくのか、そのための条件はなにか、なにが人々の行動を抑止しているのか、ということである。

 人々の行動を決定しているのは、各人の経済的条件だろうか。経済的に裕福な者が避難をして、貧しい者が避難を断念するのだろうか。これは部分的には正しそうだが、総論としては違う。観察された事実を見ても、避難の判断は、その世帯や個人の経済条件に決定されてはいない。自主避難者となるか汚染地に留まるかの分岐を、経済条件に還元することはできない。

 では、文化・イデオロギー・ハビトゥスの問題なのだろうか。自主避難者は、なんらかの文化的特性を有していたから、自主避難をしたのだろうか。これは人類学や社会学にとっては興味深いテーマだが、なかなかむずかしい。少なくとも言えるのは、静的な構造を前提にして現象を説明しようとしても、うまくいかないということだ。自主避難者はさまざまな階級・階層を横断していて、性別も属性も価値観も多様である。そして、避難という行為はその文化(ハビトゥス)を動的に変化させもするのである。

 

 この問題について私の結論を言えば、避難を可能にする条件というものは、ない。自主避難という実践を、経済条件に還元することはできないし、文化的特性に還元することもできない。

 そしてもう一歩踏み込んで言ってしまうと、日本政府あるいは日本社会が自主避難者に脅威を感じとり、口ごもるのは、この点にある。

自主避難者は、自明視され絶対視されている「社会的条件」を、克服し、客体化してしまうのである。意識的にそうする人もあれば、意識せずに結果としてこの社会を客体化してしまう人もある。避難した者も、避難を躊躇している者も、どちらも困難な条件にあることは共通している。しかし、自主避難者たちが違っているのは、汚染被害者たちに生涯付きまとうだろうと信じられていた無力感や罪悪感や閉塞感を、克服しつつあるということだ。なぜなら彼女たちは、社会から疎外された避難生活をとおして、この社会を対象化してきたからである。事故後の日本社会は、自主避難者から目を背けるか、想像的な投影の対象として眼差しを向けてきた。しかし自主避難者は、その数倍の強度と精度でこの社会を観察し、対象化してきたのである。

テレビから浴びせられる「絆」キャンペーンに人々がうっとりし国民精神が動員されているときに、自主避難者たちは、その動員の欺瞞とちょろすぎる国民たちを観察していた。「絆」キャンペーンに込められた道徳的指令、すなわち、無力感、罪悪感、閉塞感を、彼女たちが真に受けることはなかったのである。

 

 私はいま愛知・岐阜に避難した福島県民の裁判運動を支援している。この裁判では、関東からの自主避難者たちのグループが、支援運動の中核に加わっている。この運動に参加した人々が最初に感じる驚き(あるいは違和感)は、この訴訟団のメンバーがやけに明るいということだ。目にじっとりと涙を浮かべて苦しみを語る姿を想像してきた人は、その明るさにひょうし抜けするだろう。みな冗談を言ってケラケラと笑いながら、演説をし、署名とカンパを求めていく。内容は重厚でラディカルな要素を多分に含んでいるのだが、重苦しくもったいをつける態度はない。明るく淡々と、国と東電を弾劾するのである。

この訴訟が勝てるのかどうかは、まったく不透明である。だが私にとって重要なのは裁判の勝敗ではなく、この裁判運動が人々の予想を裏切る新しい態度、新しいノリを生み出したということだ。

原発事故の被害者が永遠に泣きべそをかいていたのなら、日本権力にとってなんの脅威にもならなかっただろう。だが、全国に離散した原発被害者は、多様であり、そのなかには人々の予想を超える強かな人間がいる。彼女は日本社会を観察し、日本の「国民性」や日本の「文化」を知っている。そしてそれとは違う文化をつくろうとしている。