2018年10月19日金曜日

米騒動と現在




 米騒動をどう解釈し、どう評価するか。
その前に、私たちにはクリアーしなければならない問題がある。

 現代の私たちが時間をさかのぼって歴史を解釈しようとするとき、その解釈の枠組みは現代のイデオロギーを反映し、解釈者が生きている現在の状況に深く関係している。私たち、と言うとき、それはある政治的・思想的観点を自明なものとして共有している「私たち」である。歴史の解釈を可能にするのは、ある事実から何を引き出すかという観点がある程度共有された社会によって、である。
 ところで米騒動は、解釈者がほとんどいない、なかば忘れられた闘争になってしまっている。これは現在の日本社会を考えるうえで、とても興味深い現象だ。
 例えば朝鮮(韓国)の「3・1運動」や、中国の「5・4運動」には、この闘争を振り返り、現代に受け取り、顕彰する人々がある。もちろんそのなかで解釈論争はあるだろう。論争はあるにしても、「3・1」や「5・4」を重大な出来事として受けとめようとする、しっかりとした社会がある。
このことと比較して、米騒動はどうだろう。誰からも腫れ物のようにしか扱われていないのではないだろうか。これは米騒動の解釈の難しさである前に、それを受けとめようとする日本社会のバイアス、変質、喪失があるように思う。なぜ日本の人々は、口々に「米騒動! 米騒動!」と言って盛り上がらないのか。ウキウキしないのか。
私は無理な要求をしているつもりはない。日本民族のすべてを動員して米騒動を顕彰しろとか、政府が記念式典をするべきだとか、国民の休日にしろとか、そういう要求をしたいわけではない。ただ、日本の民主化運動に尽力してきた人々、進歩的知識人、あるいは歴史のある左翼政党が、米騒動を顕彰する盛大なイベントを一日ぐらいやってもいいのではないかと、控えめに思うだけだ。1918年の米騒動は、それだけの重みのある出来事なのだから。


 1918年の米騒動から100年後の現在、日本社会は深い混乱のなかにある。実際、100年前の米騒動を顕彰するどころではない、めちゃくちゃな状態である。
 混乱の原因となったのは、2011年の原子力発電所の爆発である。日本政府は「原子力緊急事態宣言」を発令し、福島「復興」政策を号令した。この政策に従うか拒否するかで、人々は分裂した。「復興」政策に協力し被曝を受忍する者と、「復興」政策も被曝受忍も拒否する者とで、日本社会には深い亀裂が刻まれている。知識人も人権団体も左翼政党も、この分裂と無縁ではなかった。諸政党・諸団体の内部で分裂は進行している。政治主義者は「復興」協力に向かい、科学主義者は「復興」拒否に向かい、両者は議論の接点すら持てない状態へと引き裂かれたのである。
 原発爆発の直後からこの分裂は始まっていたが、中間的な分子によって弥縫策があみだされた。「反原発運動」という名の陳情行動である。2012年の首相官邸前行動に集約される陳情行動は、要求を「原発再稼働反対」に限定し、この最大限綱領を人々に遵守させることで、分裂に蓋をしてしまった。2012年以後の「反原発運動」は、人々の分裂と混乱を統御しようとして、かえって混乱を深めてしまうことになる。

 「反原発」陳情行動という弥縫策には目もくれず、重要な実践を担っていったのは、若い主婦を中心とする反被曝派(放射脳)である。2011年以後もっとも重要なアクターとなるのは、彼女たちである。
反被曝派の強みは、実践の直接性である。放射能汚染の測定、移住、不買、給食や修学旅行の拒否といった直接行動を基礎にしている。彼女たちは獲得すべきものを直接に、即座に、手に入れる。政府や学者や議会の議論を待たない。政策の修正を待たずに、政策に先行して実践を進めていく。これは、「原子力緊急事態宣言」という法の例外状態に正しく対応した、行動様式であり、行動原則である。
 日本政府はこうした人々の動きを「パニック」と呼び、「風評被害」と呼び、繰り返し非難してきた。そして左翼の内にある政治主義的分子もまた、政府の尻馬にのって彼女たちを非難した。反被曝派を非難する者たちが共通して怖れたのは、統御することのできない直接行動主義である。反被曝派は誰にも統御できない。彼女は唯物論者よりも唯物論的であり、無政府主義者以上に無政府主義的である。中途半端な科学者など簡単に論破してしまうし、なまぬるい政治左翼の理屈に耳を傾けることもしない。「科学」にも「政治」にも統御されることのない人々が、誰の号令も待たずに、いっせいに直接行動にでたのである。


 ここまで書いてきて読者はもう察していると思うが、私は2011年以後の状況を、100年前の米騒動の状況に重ねて書いている。米騒動の偉大さと、その評価の難しさを、現在の状況と照らしあわせることで理解しようとしている。
 古典的な共産主義者はこれを、簡単に「自然発生性」と呼んでしまう。そして「自然発生性」と括ったとたん、あっさりと考えることをやめてしまう。統御できないものは考えなくてよい、ということなのかもしれない。あるいは、統御できないものの威力を直視する度胸がないのかもしれない。だがそういうことではいけない。
 自然発生的な動乱は、その後の権力の様式を変える。それは政治論争の内容だけでなく、政治の様式、政治の前提を、変えてしまう。1918年の米騒動からくみ取るべき教訓はここである。1918年以前と以後で、支配の様式が変わり、抵抗の様式が変わる。
 そうであれば、2011年以後の「原子力緊急事態宣言」下の騒動は、日本社会をどう変えるのか、だ。このことを、日本権力に先んじて、我々が把握するのでなければならない。ながく続いてきた政治の構図が、これから大きく変わるかもしれない。日本社会の根本的な変化が、まったく新しい闘争主体を創出するかもしれない。
 私の考えでは、この未来への希望、未来の主体は、「復興」政策を拒否した人々のなかに潜在している。それは、1918年米騒動を「自然発生的」と棚上げにしてしまうようなやりかたではなく、「女一揆」の偉業を正面から評価し、臨場感をもって感応するような、主体である。





2018年10月1日月曜日

渚さんが亡くなった



 歌手の渚ようこさんが亡くなった。
 衝撃で声が出ない。


 私が渚さんを知ったのは、音楽ではなく、お店の関係だった。彼女は新宿のゴールデン街で「汀」という店をやっていた。私がゴールデン街に店を出したのがたしか2003年頃だったが、そのころ彼女はすでに「汀」を繁盛させていた。私にとって渚さんは、同じ街で店をもつ同業者であり、先輩だった。
 自分の店を閉めたあとに、たまに「汀」に行った。行った、というよりも、連れていかれた。映画評論家の松田政男氏が、渚さんにゾッコンで、飲みにつきあっていると必ず「汀」に連れていかれるのだ。松田氏は当時すでに70才になろうというおじいさんだったが、女性に対しては現役だった。「汀」でしこたま飲んで、酔っぱらったあげく、「もうだめ、帰れない、ようこちゃんの家に行く」とねだるのだ。これが完全な冗談ではなく、いくらか本気がまざっているから始末に負えない。そんなときは渚さんと私とで朝まで介抱するというのがお決まりだった。この酔っぱらった老人を優しく介抱することもあったし、朝もやのけぶる花園神社に置き去りにして帰ったこともある。これだけごねる体力があるんだから、置いていっても死なないだろう、と。(実際、死ななかった。)

 そういうわけで私は、歌手としての渚ようこを、ほとんど知らない。一度だけリサイタルに行ったがそれっきりで、彼女の歌声をほとんど聴いていない。ただ、歌手と映画評論家と反戦活動家が、音楽の話も映画の話も社会運動の話もしないで朝までだらだらカウンターに座っているという関係が、心地よかった。そういう時間のすごしかたが、かっこいいと思えたのだ。

 渚さんと私との関係はこういうものだったので、歌手としての渚ようこや、彼女の歌について、何か評論めいたことを言おうとは思わない。
ただ私に言えるのは、彼女は厳格な美意識をもって、それを生涯貫徹させた人だったということだ。
 彼女は「昭和」の歌謡曲やファッションを転用し、一種のキャンプ・アートを構築したわけだが、それがコミカルな外見を見せながらコミカルなだけに終わらなかったのは、彼女が本気だったからである。冗談やおふざけでは、ああいうことはできない。彼女は本気だった。1960~70年代の風俗から自由主義やロマン主義のエッセンスを抽出し、再構成し、そこで示された価値を、彼女は確信をもって譲らなかった。
 彼女は「かっこいいブーガルー」でこう歌っている。

  かっこいい世界は
  探せばきっとある
  もしもそれが全滅したら
  いっそ昭和にワープだ

 こうした歌詞が完全に冗談であるなら、この歌は成立しない。この歌のかなりの部分が本気だから、こわいのだ。
すべてが冗談のように見えながら、すべて本気なのである。
 彼女が多くの人に慕われ、同時に畏怖されもしたのは、彼女の美意識が本気の姿勢で貫かれていたからである。松田氏が惚れこみ、私もまた彼女を畏れつつ慕ったのは、こういうところだったのだろう。
渚さんといるときに、多くを話す必要はなかった。
黙って座っているだけで、力を感じ、心が落ち着く。そんな人だった。
冥福を祈りたい。


かっこいいブーガルー 



2018年9月27日木曜日

『新潮45』誌、休刊(笑)




『新潮45』という雑誌が休刊した。
きっかけは、ある自民党議員の失言を擁護する特集だった。この間の経緯の説明はかったるいので省略するが、私が考えたいと思うのは、『新潮45』編集長の誤算である。
編集長は会社が雑誌をとめるとは予想しなかっただろう。彼が休刊を覚悟しておもいきった特集を組んだとは考えにくい。会社が雑誌の休刊を決めたことは、編集長にとって誤算だったと考えるのが自然だ。
 では、編集長は何を読み誤ったのだろうか。この点を考えてみようと思う。

 現在の「右翼論壇」の特徴は、議論の質が低いことである。品位もない。右翼にはもともと品位などないと言えばまあそうなのだが、しかし、2010年代の自民党下野以降の右翼論壇は、それ以前とは比較にならないぐらい下品である。デマゴギーの質も低い。すぐに論駁されてしまうような嘘を書いて、自ら墓穴を掘ることもしばしばである。
 もうひとつ見逃してはいけない特徴は、現在の右翼論壇は、中堅所得者の読者層をしっかりと掴んでいるということである。
たとえば、自民党の内外でデマゴギーやヘイトスピーチを繰り返している宗教団体「幸福の科学」は、「お金持ちの信者が多い」ことで知られている。彼らはビジネスで成功した経営者・中堅所得者たちを主体とした新興宗教である。
あるいは、数々の暴論をくりかえし「自民党別動隊」と評されてきた「日本維新の会」も、同様の支持基盤をもっている。貧困層や社会的弱者に対する冷淡さでは、自民党よりもひどい。
また、自民党本体にはJC(青年会議所)というグループがあって、金で苦労したことのない企業経営者の23世たちが極右的主張を繰り返している。
 ようするに整理すると、現在の「右翼論壇」を支えている読者層は、所得水準が高く、かつ、知的水準が低い人々である。所得水準も知的水準も高い人々は、右翼雑誌など読まない。また、所得水準も知的水準も低い人々は、右翼雑誌の主張に共感できない。現在の右翼雑誌は、所得水準が高くかつ知的水準が低い人々に照準を定めている。

 このあたりの機制と力学について、社会学者ピエール・ブルデューは、経済資本と文化資本という概念で説明している。ブルデューが明らかにしたのは、経済的条件と文化的傾向は、それぞれに独立しながら、互いに影響し合っているということである。
このことをわかりやすく示すために、彼は便宜的にある構図を描いている。一つの平面に、縦軸に経済資本の軸をひき、横軸に文化資本の軸をひき、所得水準と文化教養の様態がどのように分布しているのかを描いている。左上のグループ、経済資本が高く文化資本が低いグループには、歴史書に親しむ企業経営者(日本で言えば司馬遼太郎や『プレジデント』誌を愛読するような層)。右上のグループ、経済資本が高く文化資本が高いグループには、外国料理に親しむ大学教授や弁護士(日本ならタイ料理やトルコ料理に親しむリベラル層)。左下のグループはスポーツや賭博に親しみ、右下のグループは映画と喫茶店に親しむ、というように。これはあくまで便宜的で単純化したポンチ絵のような構図なのだが、ブルデューがこれで示そうとしたのは、所得水準と知的水準とは別の軸をもっている、ということである。
 私たちは通常、所得水準と知的水準とを同一の軸で考えてしまいがちである。頭が良く勉強のできる者は経済的に豊かになり、教養のない者は貧しくなる。こうした考え方は一面では正しいのだが、これだけでは見落としが生まれてしまう。所得が高く教養のないグループ、所得が低く教養の高いグループ、この二つのグループを見落としてしまう。

 「ネット右翼」が登場した2000年ごろ、私たちは初歩的な間違いをしてしまった。「ネット右翼」の論じている内容が、あまりにも幼稚で無教養だったために、「ネット右翼とは若年の低所得者層である」と誤認してしまった。実際に調べてみると、「ネット右翼」は若くもなければ低所得者でもなかった。所得水準の高い地主や企業経営者が子供じみた無教養ぶりをさらしているというのが、実態に近い。こうした人々が、例外的にではなくある程度のボリュームをもって存在しているということを、私たちは知った。
 2011年、ツイッターが普及したころ、もうひとつのグループが頭角を現した。所得水準が低くかつ知的水準の高いグループである。これは、主要には女性たちである。修士号や博士号や高度な教養をもちつつ、結婚・出産を契機に主婦となった人々が、かなりのボリュームをもって存在している。彼女たちがツイッターで発言を始めたら、右翼に勝ち目はない。教養の水準が段違いだからである。
 ツイッターが普及して以降、ネット上の論争は、この二つのグループの闘争とみなしてよいだろう。二つのグループは、所得水準の高低と知的水準の高低が交叉した関係にあって、どちらも権威から遠ざけられてきた存在である。どちらも例外のように見落とされ、権威から遠ざけられてきたがゆえに、言論のヘゲモニー・趨勢は、この両者の闘争に委ねられることになる。ここがおもしろいところ。歴史の弁証法っていうかね。わくわくするところです。


 話を戻して。
『新潮45』の編集長は、どのような誤算をしたのか。
おそらく彼は、新しく登場した「右翼言論」がもっている経済力を過信してしまった。
たしかに、金は重要だ。金が動かなくては雑誌はつくれない。しかし、たんに金が動くだけでは、雑誌の存在意義を世間に認めてはもらえない。金の力だけで権威を構築できるなら、とうの昔にそうなっている。現実はそう簡単にはいかない。この右翼言論人たちがツイッターの主婦のつぶやきにすら対応できずブロックしているような状態では、どうあがいても無理なのだ。



2018年9月13日木曜日

名古屋の歩道、衰弱する触感




 名古屋の都市計画を調べるために、史料を読みはじめている。いま1943年の防空法制定から、1950年の戦災復興計画の境界確定までの期間を読んでいる。名古屋市が、戦時中よりもむしろ戦後において強力な統制を実現していたことに驚く。名古屋市民は、戦争が終わってから5年もの間、自分の土地に自由に建物を建てることができなかったのである。この経緯を見ると、名古屋は、官民を動員する徹底した軍事都市という感がある。名古屋が「もっとも魅力のない街」となった一因は、この、戦後になってなお持続した戦争体制にあるのだろう。

 それはさておき。
 名古屋はかつて「白い街」と呼ばれていた。色彩のない街という意味だ。
 なぜ名古屋は色彩が乏しいのか。
 私はこのことを、もっぱら視覚の問題として考えていた。自動車の速度 → 速度による視覚の単純化 → 風景の陳腐化・視覚表現の衰弱 という機制で問題を考えていた。
 しかし、史料を読みながら思い至ったのは、問題は自動車道ではなく、歩道ではないかということだ。

 名古屋は歩道が広い。幹線道路の歩道は、車が一台乗り入れることができるほど広い。また、路地がすべて広い。名古屋の戦災復興計画は、すべての道路に自動車が通行できる幅を要求していて、市内のほとんどはこの基準を実現している。つまり、名古屋市内の路地は、ほんらい自動車が進入しないような路地であっても、すべて広いのである。
 歩道が広いのは良いことだ、と思われるかもしれない。それは、狭い路地をあたりまえに享受している環境にあるから言える話だ。人間のサイズの路地がまったくない環境を経験したら、そんな無邪気なことは言えない。

 広い歩道は、人間の触覚を衰弱させる。
ここで触覚というのは、直接に接触する感覚もあれば、直接に接触しない感覚も含む。直接に接触しない触覚とは、腕をまっすぐ横に伸ばしたときに接触可能な範囲に、対象物があるという感覚である。「人と人との触れ合い」と言うときの「触れ」は、直接にさわるという意味ではなく、腕のリーチの範囲内に人があるということだ。「街に触れる」というのは、街を遠くから眺めるのではなく、直接にさわってまわるというのでもなく、街なかを歩いて非接触的な触感を楽しむことである。
 広い歩道は、この触れる感覚を損なう。人と人、人と物との距離は縮まらず、何にも触れることなく歩行することが可能になる。街なかを歩きながら、眺めているが触れていないという状態に陥るのである。


 こうして考えていくと、街の色彩表現とは、純粋に視覚の領域に完結する問題ではなくて、触覚の延長されたものとして捉えることができる。色彩は、人と物との非接触的触感を基盤にして、この領域に含まれている。
 名古屋が「白い街」であるということは、実は深刻なことかもしれない。
名古屋の街が「白い」ということは、ギリシャの街が白いということとは違って、人間のより深い位相での疎外を示しているのかもしれない。



2018年8月20日月曜日

米騒動についてのノート(8月)


  
 2018818日午前。
710分に名古屋駅を出発した高速バスは、1030分に富山駅に到着した。「米騒動」の連続学習会は午後1時から。まだ2時間ほど余裕がある。スマートフォンに装備されている音声検索に「ここから滑川まで何分でいける?」と尋ねると、電車で13分という回答。では学習会が始まる前に、滑川の港を歩いてみよう。
 富山駅から「あいの風とやま鉄道線」に乗って、新潟県に向けて日本海に沿ってすすむ。電車は富山駅を出発し、常願寺川を渡ると、水橋、滑川(なめりかわ)、魚津(うおづ)と停車駅が続く。この三つの町が、いまからちょうど100年前の米騒動、「富山の女一揆」の発火点である。

 電車が富山市の市街地をぬけると、進行方向右側には水田地帯が広がっている。新川(にいかわ)平野である。水田のなかに工場や住宅が点在し、ところどころに背の高い防風林のかたまりが見える。これは、教科書にでてくる「散居村」の痕跡だろう。村人が一カ所に集まって住戸を建てるのが「集村」、一戸一戸の家がばらばらに独立して建てられているのが「散居村」。富山県の散居村は、各戸の周りを囲むように背の高い樹木を植えていて、これを屋敷林という。水田の広がる平野部に、ぽつりぽつりと屋敷林が点在して見えるのが、富山の散居村の風景である。その歴史は古く、中世に遡ると言われている。新川平野にも、この散居村の痕跡が残っている。その特徴的な構えは、自作農民の独立性を印象付けるものだ。

 電車の進行方向左手には、どこにでも見られるような一般的な風景が広がる。鉄道と海に挟まれた地帯は、住宅、商店、工場、倉庫などが立ち並ぶ見慣れた風景である。米騒動の発端となったのは、この海岸端の町で荷役作業に携わっていた女性たちだ。彼女たちの仕事は「陸仲仕」(おかなかし)と呼ばれていた。
 まだコンテナもクレーンもなかった時代、港湾荷役はすべて人力に頼っていた。船に荷物を積み込む仕事を総称して「沖仲仕」(おきなかし)と言うが、沖仲仕の作業はさらに二つにわけられる。「沖仲仕」と「陸仲仕」である。大型の貨物船は海岸に直接に着けることはできないので、少し離れた沖に停泊している。海岸と船の間の水深の浅い部分は、艀(はしけ)というボートをつかって荷物を運ぶ。海岸にある荷物はいったん艀に積み込まれ、そこから沖に停泊する船に運ばれ、艀から船に積み替えられる。この沖で荷物を積み替える仕事が「沖仲仕」で、男性が雇われる。海岸で艀に積み込む仕事は「陸仲仕」で、女性が雇われていた。足元の悪い砂利の浜で、60kgを超える米俵を背負って運んだという。彼女たちはもちろん日雇いである。海岸端の粗末な長屋に集住しながら、陸仲仕で日銭を稼いで暮らしていた。

 新川平野でつくられた米は荷車にのって、水橋、滑川、魚津の海岸に集められ、そこで陸仲仕と沖仲仕によって船に積み込まれる。東の山から下りてきた水が何本もの川になって日本海に注ぐように、新川平野で作られた米は海岸に集積され日本海に出されていく。そして米を満載した貨物船は、神戸、大阪へと向かうのである。

 私がこの滑川を歩いて感じたのは、東端にある山脈と西端にある海が、意外に近く、地域の輪郭がとても見えやすいということだった。
山と海に挟まれた空間は、二つの層をつくっている。水田がひろがる散居村の地帯と、海岸沿いの集住地帯と。このふたつが、空間の構成の違いとしてはっきりと視覚化されている。土地を所有し屋敷林をもつ自作農たちの空間と、海岸端の港湾人足の空間とが、明確な対照をつくり、それが「層」として感覚的に捉えられるような風景がある。こうした風景の中で、米騒動は始まったのだ。

 空間的に示された二つの層がある。この境界とは、何の境界であったか。何の境界と考えるべきだろうか。自作農と下層プロレタリアとの境界? あるいは、近世的秩序と近代資本主義(無秩序)との境界? あるいは、境界というよりもその二つの複合?
うーん。
もうちょっと考えよう。
つづく。

2018年8月13日月曜日

連帯メッセージ

8月6日、広島県警による反核グループへの弾圧。

https://danatsu86.hatenablog.jp/entry/2018/08/10/185538

以下、私からの連帯メッセージです。

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勾留された女性を、全国で支援しよう
                   矢部史郎

 2018年8月6日、広島市では原爆被害者を鎮魂するために、内外から多くの人々が集まっていた。この日、総理大臣安倍晋三は、戦没者追悼式典に出席するため広島市を訪問した。警察による安倍晋三の警備は厳重なものだった。というのも、広島市と安倍首相の間には深い緊張が走っていたからだ。昨年までに122か国・地域の賛同を得ている核兵器禁止条約について、日本政府はいまも反対票を投じているからである。
 広島市と日本政府との緊張関係は、警察の過剰警備となってあらわれていた。首相を運ぶ車列は、大量の警察官を動員して道路をふさぎ、広島市民を威圧しながら移動していった。

 この日の午後、広島市の路上で反核のスピーチをしていた一人の女性が逮捕された。広島県警が告げた容疑は、器物損壊罪。彼女は、彼女たちの反核スピーチを非難しながら撮影していた男と小競り合いになり、カメラを破壊した、というものだ。
 問題は、この容疑が衆目の一致するところではない、疑わしい訴えに基づいているということだ。多くの通行人が足を止めて見守るなかで、彼らは誰も「小競り合い」を見ていない。このスマートフォンばやりの時代に、誰も衝突の様子を撮影していない。彼らギャラリーは口を揃えて、この容疑は事実無根だ、と言っているのである。
 男はカメラを壊されたと言い、女性はこの男と接触すらしていないと言っている。
 両者が認めている事実はただひとつ、この疑わしい「事件」が、反核運動の是非をめぐる対立のなかで生じているということだ。
 反核スピーチを妨害し、疑わしい被害届を出して女性を逮捕させた男が、いわゆる「右翼」であるのかどうかは、まだ確認できていない。この男が何を見て何を想ったのか、この男がどのような背景をもっているのかは、裁判の場で明らかにされるべきだろう。

 警察は、逮捕した女性にたいして10日間の勾留延長をおこない、彼女は現在も留置場に拘束されている。
彼女の怒りを想像すると、全身が熱くなる。
8月6日の広島で、反核を訴える者が力づくで制圧されて、黙っていられるか。
彼女の闘いのために、反核の志を同じくする全国の人々に、カンパを要請します。彼女の心が折れてしまわないために、彼女を孤立させないために、圧倒的な資金を集めて支援しよう。


2018年8月9日木曜日

本を三冊いただきました。


献本を一冊、見本を二冊いただきました。












以上三冊、ありがとうございました




 2018年8月の猛暑のなかで書き記しておきたいことは、いま私は、時代の変わり目をひしひしと感じているということだ。
たぶん私だけではないと思う。これまで自明視していた前提が、大きく変わり、あたらしい問題設定が要求されている。
そう。おそらく2011年以前までの作業は、予行演習だった。
これからさらに強い内容を持った権力分析と、戦略戦術の発明が、なされる。

2018年5月15日火曜日

米騒動から100年




今年は2018年。
 自民党は「明治150年」と言い、新左翼諸兄は「〈68年〉から50年」(全共闘・ベトナム反戦運動から50年)と言う。
いろいろと歴史を振り返る年なのだろうが、私はがぜん「米騒動100年」である。今年歴史を振りかえるといったら、米騒動ぬきにはありえない。米騒動は日本左翼の原点であるし、近代社会の原点とも呼びうるような歴史的事件だ。「米騒動」と口にするだけで、もう、わくわくする。
 そういうわけで今年は、富山県で行われる連続学習会『米騒動100年プロジェクト』に、毎月行こうと思う。これまで4月・5月と参加してきたが、やはり富山の人たちは米騒動に詳しい。勉強になるし、議論にも前向きで、話が尽きない。
次回は6月9日(土)。ぜひ一度富山まで足をのばして、米騒動とその後の100年を語り合いましょう。




 さて、「米騒動は日本左翼の原点である」と書いてしまった。大見得を切ったからには、米騒動とは何であるかを書かなければならない。
しかしこれが難しいのである。米騒動の歴史的位置付け、しかも左翼として米騒動を位置付けるというのは、これが簡単なようでなかなか難しい。

私たちが米騒動というとき、それは1918年の米騒動のことを指している。日本史上最大の都市暴動へと発展した最後の米騒動である。これは当時から力の複数性と横断性をはらんだもので、単一の視点・単一の力学で「米騒動は○○だ」と述べるのは困難なものである。力の複数性、複合性、意図を裏切って生成変化する力の性質を、深く考えさせられる事件だ。
 端的に言えば、当時の知識人たちは、社会主義者も含めて、みんな面食らったのである。大杉栄など一部のアナキストは喜んで暴動に加わったらしいが、それは例外的なことだ。知識人はみな米騒動に驚き、了解不能の状態に陥った。大衆の暴力が、知識人たちの小さな理性を乗り越えていったのである。
 現代においても、米騒動の解釈は論争含みである。米騒動の解釈は、解釈者の政治的な立場によっていくつかありうるのだが、どれも決め手を欠くというか、一面的な理解ではすぐにぼろがでてしまうところがある。だから米騒動を論じる際には、特段の慎重さが必要になる。平面的にではなく立体的に理解すること。直線的にではなく、ねじれとうねりを描くことが求められる。
 これが難しいし、わくわくするところだ。


 米騒動は、複数の顔をもっている。
たとえるなら、一枚の絵に美女と老婆が描かれていて、視点のとり方でどちらにも見えてしまうようなだまし絵。あるいは、角度を変化させることで、まったく違った二つの表情を見せるカード。上下を反転させると別の顔が現れる逆さ絵。そうしただまし絵のように、米騒動は複数の顔が同時に描きこまれた事件である。

 米騒動の複数の顔とはどういうことか。
まずは全国で暴動が起きているということがある。性格の異なる地域で、性格の異なる民衆闘争が、横断的に連鎖していった。暴動の本丸は神戸・大阪の商社本店であるとして、はじめは富山県の米積み出し港で、次に大阪・神戸・名古屋などの工業都市で、最後は九州の炭鉱へと舞台を移していく。急激に膨張した近代都市の、周辺部で、次に中心部で、そして再び周辺部へと、暴動が連鎖していったわけだ。

 米騒動の発端となったのは、富山県の水橋港・滑川港・魚津港の米騒動である。これを当時の新聞は「富山の女一揆」と書いている。この富山県での闘いは、現代から振り返ってみれば、最底辺女性労働者たちのストライキであったと解釈できるわけだが、当時の新聞はこれを「一揆」という江戸時代の表現で報じた。社会主義者であれば「罷業(ストライキ)」と書いただろうものを、当時の記者は「一揆」と書いたのである。
この表現は正しかったとおもう。もしここで「罷業」と書いていたら、米騒動は日本全土をまきこむ都市暴動には発展しなかっただろうと思う。この「一揆」という近世的表現が、当時の民衆・大衆を奮い立たせ、同時に、知識人を困惑させる原因にもなっただろう。
 ここで急いで付け加えておかなければならないのは、当時の社会主義者たちが米騒動にまったく寄与しなかったのかというと、そうではないということだ。
1918年米騒動にいたる以前の段階で、労働者の闘いは始まり、近代的な労働者組織がつくられつつあった。前年のロシア労農革命が人々に与えたインパクトも、無視できない要素である。近代思想の紹介・普及・手探りの実践が1918年の米騒動を準備した、ということもできるのである。
 だが、ただ近代社会主義思想のみで米騒動が実現したかというと、それもまた間違いになる。事態はもっと複合的だ。米騒動は、近世的な理念・エートスと、近代的な理念・エートスとが、複合し、反応しあうところで発火したのである。

(つづく)






2018年4月26日木曜日

4月28日、富山に行きます。米騒動100年。

4月28日、富山市に行きます。
富山市のジャマーズのみなさんが企画した「米騒動100年プロジェクト」。

辛亥革命 → ロシア革命 → 米騒動 → 3・1運動 → 5・4運動と連鎖する激動の1910年代を、富山市で考えてみようかなと。

https://net-jammers.net/pro/kome-100-pro.html
米騒動発生分布図

2018年4月15日日曜日

お詫びと注意喚起


 本日、友人になりすましたSNSのメッセージに素直にひっかかってしまい、私のLINEアカウントが勝手に作成されてしまいました。

 私の写真と名前を使って、お金をせびる寸借詐欺アカウントが存在します。

 LINEを通じて私名義のメッセージが来たときは、相手にせずブロックしてください。

 ご迷惑をおかけします。

2018年3月7日水曜日

「公的なもの」の罠について



さて、何から始めよう。
まず導入は、昔話から。

 今から10年前、いや、もう少し前だったかもしれない。
私は年の近いある活動家と議論をしていた。仮にAとしよう。Aは知恵も度胸もあるアナキストで、酒好きで、集団を統率する力のある活動家だった。
 Aと議論をしたのは、運動体の基軸を何におくかである。私が主張したのは、運動集団というものはどうあがいても私党であるということ、そして、我々は私党でよいのだということだった。それは経験的な事実から、そうだった。人間が運動集団を形成するとき、それは何か公的なお題目にぼんやりと結集するのではなくて、個別具体的な人間が個別具体的な人間についていくのである。そういう集団は、どこをどう転んでも私党である。
 それに対してAは、運動体が私党であるという事実を認めつつ、私党ではないものにむかって、公的な形式を備えるべきである、と主張した。私党というのは集団の起源としてはあるとしても、それは過渡的な段階とみなすべきであろうということだ。我々の集団のもつ私党的性格は、徐々に払拭されていくべきである、と。ある意味、常識的な主張だ。
 私はAにむかって「公的な形式だなんて、そんなゴマカシはできないよ」と言ったが、一方で迷いもあった。私は、私党を私党としてやりきることに絶対的な自信をもっているわけではなかった。公的な形式を備えた団体というものに、半信半疑ながら少しだけ魅かれ、期待しているところもあったのだ。Aの考える組織論は、もしかしたらうまくいくのかもしれない、と。
また、集団に公的な形式を与えることは、実践的な要請としてもあった。集団が労働組合としての交渉権を確立するには、規約を作り、代表を選出し、監査役をおかなければならない。そういう公的な形式を便宜的にでも整えておかなければ、合法的な「労働組合」にはならない。もしもそうした形式を整えなかったら、我々の争議行為はすぐに刑事事件にされてしまう。
 この私党をめぐる議論は、議論というほどの時間もとらず、それっきりになった。双方とも結論に強い確信を持っているわけではなかったからだ。この問題について結論が出ないまま、Aはある労働組合の中核メンバーを担い、私は「海賊研究会」を主宰して私党の構成原理を考えるようになった。
 あの議論から10年たって、結論が出たわけではないけれども、学ぶべき経験はいくらか積んだと思う。もういちど、集団の基軸とするべきものについて、「私的なもの」と「公的なもの」について述べたいと思う。

* * *

 私は今も「公的なもの」に疑いをもっている。疑いというよりももっと強い、あれは、罠だな。「公的なもの」の罠。パラドックスと言ってもいい。

 まず、「公的なもの」のなかでももっとも大きく、もっとも「公的」だと信じられている組織から考えてみよう。警察について。
 W・ベンヤミンが『暴力批判論』のなかで指摘したのは次の事実である。
 警察官は法を遵守し、たんに法を運用しているだけだと考えられているが、実際にはそうではない。警察官はどういう場面でどういう法を適用するべきかを決定している。現場にいる末端の警察官が、法を解釈し、運用を決定している。遵守されるべき法は、日々、現場の警察官によって解釈替えされ、作り変えられているのである、と。
同じことをG・ドゥルーズも言っている。「重要なのは法ではなく、判例である」と。
 このことは、実際に警察と対峙したことのある人なら経験的に知っていることだ。法は、場面によって運用されなかったり、反対に拡大解釈をして運用されたりする。
「公的なもの」の頂点にある法は、警察やなんらかの政治勢力によって私物化されうるものである。そして、そうした警察力の私的な運用が可能になっているのは、法が「公的なもの」と信じられ、警察・検察が「公的なもの」を遵守していると信じられているからである。多くの人は信じている。法治国家において警察がそうそう間違えるはずがない、と。そうかもしれない。ところで、その根拠は? 法の運用の妥当性を担保するものは? 裁判所? 制度としてはそのとおり。しかし実態としては、裁判所の判事が検事に従属する場面がたびたびあるのである。そんなことはあってはならないことだ。制度としても道理としても、判事が警察・検察の顔色をうかがうなんてことは、あってはならないことだ。そしてそのように信じられていることによって、警察の横暴は見逃され、正当化されるのである。われわれは「公的なもの」をかたく信じることによって、権力の私物化=私物化された暴力を直視することができなくなってしまうのである。
 問題は「官僚制」なのか? そうかもしれない。しかし私はもう一歩踏み込んで、私たち自身が信じている「公的なもの」という想念について、俎上にあげるべきだと思うのだ。

* * *

 「公的なもの」の罠について、こんどはもっとも小さな場面を考えてみよう。
 ドメスティック・バイオレンス(親密な暴力)について。
 ドメスティック・バイオレンスは、一時的で偶発的な暴力のことではない。それは持続的な構造に支えられた暴力である。ドメスティック・バイオレンスを支える構造とは何か。そのカギを握っているのは、加害者でも被害者でもなく、第三者である。この暴力を持続させる構造は、当事者ではない第三者が、ある暴力を容認するか容認しないかにかかっている。
 夫婦または恋人というのは、たいてい共通の友人がある。あなたがその友人だったとしよう。ある日、女性から暴力の被害にあっているという相談を受けたとしよう。あなたはおそらく、女性と男性の双方から事情を聞こうとするだろう。あるいは、双方をよく知る人物をとおして、二人の間に何があったかを知ろうとするだろう。つまり二人の仲裁者として、問題の解決策を探ることになる。
 ここで仲裁者が直面するのは、双方の供述が示すハレーションである。加害者と被害者の供述は、はっきりとした対照を示すことになる。
 加害者の供述は、理路整然としている。話に整合性があって、一貫性がある。
それに対して被害者の供述は、混乱している。話に一貫性がなく、つじつまのあわないことばかりを言う。彼女は、自分がどうしていきたいのか、まったく明確でないのだ。
 あなたは仲裁者として、どちらの話を信じるだろうか。理路整然とした加害者の話か、混乱した被害者の話か。
このことを言い換えれば、加害者の供述とは、「公的」に通用するだけの充分な整合性を備えた供述である。第三者がそれを聞いて、さらに別の第三者に話すときに、苦も無く伝えられる形式を備えている。
それにたいして被害者の供述は、一貫性がなく矛盾を含んでいて、第三者が別の第三者に伝達することが難しいものである。
 ここであなたが理路整然とした話を信じるなら、それは、ドメスティック・バイオレンスを持続させる構造を維持・強化してしまうことになる。ここであなたが信じるべきは、「混乱した女」の話である。
 なぜか。なぜならドメスティック・バイオレンスとは、そもそも分裂し矛盾した出来事だからである。お互いに愛しあい慈しみあうべき夫婦または恋人の間で、暴力が生まれているのである。ドメスティック・バイオレンスとはそうした「矛盾した」現実なのである。だから、被害者の供述が分裂し二転三転するのは当然のことだ。被害者が別れたいと言い、別れたくないと言い、自分がどうしたいのかがまったく定まらない、このことは、ドメスティック・バイオレンスという出来事の全体を彼女がもれなく認識しているからである。他方で、加害者の供述が、分裂も矛盾もなく整合的であるのは、彼が生起している現実の全体を認識していないからである。加害者は、現実のある重要な要素を認識しないことによって、矛盾のない整合的なストーリーを形成することができるのである。
 繰り返しになるが、ドメスティック・バイオレンスとは構造化された暴力であって、この構造のカギを握っているのは、当事者ではない第三者たちである。当事者双方から事情を聴いた第三者たちが、何を信じるかが、問題の核心である。ドメスティック・バイオレンスに直面した第三者が本当に問題を解決させようとするならば、混乱し分裂した供述者にこそ耳を傾けなければならない。
 ここにあるパラドックスとは、「私的な暴力」が、「公的なもの」を信じようとする人々によって、維持・強化されてしまうというパラドックスである。第三者の誰もが問題解決を望んでいる。しかし、第三者が「私的な暴力」を解消させようとするときに、彼らの「公的なもの」をめぐる信念は役に立たないし、かえって暴力を保存することに役立ってしまうのである。
 ドメスティック・バイオレンスという概念から引き出すべき論点は、ここである。これはジェンダーの問題であるという以上に、暴力をめぐる問題である。ある暴力が、どのように第三者に容認され、維持・強化されるかという、構造の問題だ。私がここで注意を喚起したいのは、「私的な」暴力と、「公的なもの」をめぐる信念とが、意外にも密接であるということだ。
 ドメスティック・バイオレンスの加害者は、とたんに饒舌になる。まるで弁護士になったかのように、理路整然と経緯の説明をはじめる。彼が、他の事柄でたんに釈明を求められているというだけなら、ここまで饒舌になることはない。仕事が遅いとか、酒を飲み過ぎだとか、肥満をどうにかしろとかいうことで責められているのなら、彼は饒舌ではなくむしろ寡黙になっていくだろう。彼が理路整然と、ときには「公正さ」を示しながら、冷静に話すことができるのは、これが暴力をめぐる問題だからである。
 だがこれは、「公的なもの」という想念の起源を考えれば、あたりまえのことである。そもそも私的である権力の支配が、自らを正当化するためにまとった衣が、「公的なもの」という想念なのだから。それははじめから、人々が暴力を容認したり見なかったふりをしたりするための機制を備えているのである。
 今から10年ほど前、私がAと短い議論をしたときに、「公的な形式なんて、そんなゴマカシはできねえよ」と言ったのは、おそらく、この、暴力と「公的なもの」の秘密を、ぼんやりと感じとっていたからだろう。私は、私党の暴力よりも、公的な形式を備えた組織の方を、怖れたのだ。

* * *

 さて。
 ここからは、私党の話をしよう。
 海賊について。
 私たちが海賊というとき、それは古代や中世の海賊ではなくて、主に近代の海賊である。ディズニー映画などの題材にもなっている“カリブの海賊”である。
一般的に、カリブ海賊について社会史研究者が注目するのは、そこにあらわれた階級的性格である。カリブ海賊史とは、簡単に言えば、外洋を舞台にした階級闘争史である。そしてここに加えて私が見ようとしたのは、近代的な啓蒙主義思想をベースにした私党のありかたである。私党はどのようにあるべきかというモデルを、カリブ海賊に求めたわけだ。
 法治主義ではない環境において、私党集団はある種の水平主義を実現する。それは暴力の均衡によってである。
 海賊船の船長はおそろしく横暴で、暴虐さ残忍さにおいて抜きんでていなくてはならない。その暴力によって船員を統率しているのである。ちょっと機嫌が悪いというだけの理由で、水夫を殴ったり蹴り飛ばしたりする。そういうことが自然にできなくては、海賊船の船長はつとまらない。しかし、殴り過ぎてはいけない。あまりしつこく殴っていると、恨みを買い、復讐されてしまうからである。海賊船の水夫たちは、船長に負けないぐらいの無法者であるから、あまり横暴がすぎると寝首をかかれることになる。この暴力の均衡が、海賊集団の秩序である。
 船長の暴力は、無法で理不尽なものだが、それははっきりと船長の人格に帰すことのできる暴力である。ここでは、暴力と人格は一体であって、船長が自らの横暴について責任逃れの屁理屈を並べることはできないのである。
 海賊行為が成功して獲物を山分けする場合、船長は水夫よりも多くの報酬を受け取ることができる。しかし、それほど多くはない。史料によると、水夫の取り分が1として、船長の取り分は2~2.5である。現代的に言うと「労働分配率」という言い方になるが、カリブの海賊団の労働分配率は驚くほど高い。船長と水夫とでは取り分は違うが、その格差は意外に小さいのである。なぜなら、もしも船長が欲を出して多くを取り過ぎた場合、それは暗殺と船長交代劇につながってしまうからである。ここでも暴力の均衡が、海賊団の秩序を支えているのである。法治主義でない社会空間において、秩序の要となるのは、暴力の均衡である。
 こうした世界では、暴力はすべて私的なものであって、「公的なもの」という想念は存在しない。各人の行使する暴力は、正当なものも不当なものもあるが、それらはどれもはっきりと私人の人格に結び付けて認識されるのである。
 地中海海賊からカリブ海賊にかけて、近代の黎明期にあった海賊団は、暴力が充満する空間のなかで、ある種の水平的秩序を生み出していく。アメリカの歴史家ピーター・ランボーン・ウィルソンによれば、この近代海賊団の秩序のなかから、民主政の思想の原基形態が生まれる。民主政は、共和政という思想とは異なる起源をもっていて、別の系譜にある思想である。現代では民主政と共和政は混合しているが、本来この二つはまったく違うものだ。それは現代の我々の態度にも表れていて、たとえば、「公共」や「公正」という概念を疑わしいものと感じる感性のなかに、民主主義思想の伝統が反映しているのである。



* * *


 「公的なもの」という想念について、そして、「公的」なものに抗う私党の思想について、述べてきた。
 ここからが本題だ。

 ある団体で、「組織の私物化」が問題になる。ひとりの中心的な人物が、自分の裁量で「組織を私物化した」というのだ。
 私に言わせれば、私物化もなにも、組織とはほんらい私党だ。
組織がまとう公的な体裁は、あくまで便宜的なものであって、そんな便宜的な形式が遵守されようがされまいが、本質的な問題ではない。「組織の私物化」などという問題設定は、そもそも間違っているし、アプローチの仕方としてぬるいのである。そんな立て方では、問題の本質に迫ることはできない。

 問題は、人格なのである。
暴力、あるいは支配とは、個別具体性をもった人間が個別具体性をもった人間に行使するものだ。その人格の審級において問い、闘わなければ、問題の核心に迫ることはできない。
 相手は「組織の私物化」を遂行できるような人間である。知恵も度胸もあるのだ。もしも「公的なもの」の平面で争うのなら、彼は誰よりも整合的で矛盾なく一貫性のある理屈を述べたてるだろう。そんなやり方で、勝てるだろうか? もしも勝てたとして、そんな勝ちに意義はあるのか? 「公的なもの」の平面で争うなんてことは、まったくバカバカしい。そういう闘い方は、追及する側にとっても、追及される側にとっても、よろしくない。生産的でない。争うべきは、個別具体的な人間の、人格である。

 なに? 人格攻撃はよくない? 誰からそんなことを教わったのだ。アナキストの教科書にそんなことは書いていない。人格攻撃おおいにけっこう。ただし陰口ではなく、正面から、公然と、人格をかけて闘うべきだ。

おれはおめえがきにくわねえ、まずはそれだけを言えばよい。

そうして公然と、正面から、人格をかけて闘うのなら、その先には、嘘のない本当の関係がつくられるだろう。





2018年2月22日木曜日

第一回交流会の記録

2月17日、大須作文教室の第一回交流会は、15名ほどの参加で終了しました。

当日の記録は、文字におこさないで映像だけにします。
ごらんください。

https://oosusakubun.blogspot.jp/

2018年1月26日金曜日

ECDさんが死んじゃった

ラッパーのECDさんが亡くなった。
彼のことを忘れないようにしよう。

2018年1月23日火曜日

「核の冬」



まずイベントの告知を二つ。










 名古屋では矢部・山の手が、大阪では園良太くんたち避難者が、それぞれのイベント・集会を企画しています。
 みなさんこぞってご参加ください。



 さて。
 私がかつて東京で一緒に動いていた人々、そして現在も東京で活動を続けている人々が、ある組織問題に直面しているということは、聞いています。何件か問い合わせがありましたが、この件について私は特に知っていることはないので、具体的なコメントはしません。介入もしません。

 個別の問題を脇において、全体状況をにらみながら言うべきだろうことは、いま私たちが直面している困難は、長期的なものになるだろうということです。
 いま東京では組織内の問題を解決するための試みや討議がなされていて、それは主観的には重要な作業ではあるのでしょうが、客観的には、原子力公害によってひきおこされる社会の崩壊過程のうちに一つのエピソードをつけ加えているにすぎません。
おそらく多くの人々が抱いている感覚、「こんな問題は、結論がどちらに転んだとしても、なにも良くはならない」という感覚は、正しいのです。


 私はこの出口の見えない状況を、「核の冬」と呼ぼうと思います。私たちはいま、「核の冬」に呑み込まれています。この「冬」は、物質のレベルでの被害にとどまらない、上部構造にある社会の諸関係をも破壊していく「冬」です。
2011年以降、国家から発して社会全体を呑み込んでいった巨大な嘘が、私たちの体温を奪い、無力感と疑心暗鬼を蔓延させてしまいました。もう、誰も信用できません。身のまわりの誰もが欺瞞的で、国家の権威に服していて、背信行為を働いている。放射能汚染が安全だなんて誰も考えていません、そして、SNSでそれぞれが正しい主張を書きます、しかし、この放射能公害との闘いが何世代にもわたる長い闘争になるだろうことを想像したとたん、彼は口ごもり、目の前のどうでもよい関心事に話題をむけてしまうのです。
放射能汚染という大きなスケールを前にしたとき、誰もが刹那的で自暴自棄な態度にさせられてしまいます。国家が繰り返すその場しのぎの政策を批判してきた見識ある人々ですら、放射能公害に関してはその場しのぎの態度にさせられてしまうのです。政治闘争がいまほど刹那的で近視眼的なものになってしまった時代は、かつてないと思います。こうした状況を、私は、「核の冬」と呼びたいと思います。


 「核の冬」の猛威から逃れるためには、東日本を離れるしかないと思います。
大阪の園くんも移住者の受け入れ体勢を整えています。
まずは下見がてら、名古屋と大阪に遊びに来てください。